遺伝子組換えの安全性を、もう少し身近なたとえで教えて下さい。
ここでは、少し乱暴ですが、遺伝子組換え農作物を自動車に、自動車を駆使して便利で効率の良い暮らしをしようとする町の人たちをアメリカ人に、人力車を利用している町の人たちを日本人に、中世の城郭都市のように石垣で囲まれた町の中で、優雅な馬車を交通手段として使っている人たちをヨーロッパ人にたとえてみましょう。
アメリカ人は最新の技術を駆使して20年もの月日をかけて、やっと自動車を開発しました。自動車は、これまでの人力車に比べて何倍も速く、何倍も大量に、そして重労働をせずに、人や物を運べる交通手段です。アメリカ人は、これはとても便利だと、こぞって自動車を使い始めました。こんなにいいものなのだから、どこの町に行っても使おうと日本人の町やヨーロッパ人の町にも進出していきます。アメリカ人の独りよがりから、日本やヨーロッパの人たちの感情までは推し量ることはできませんでした。それに、20年も手間ひまかけて開発したこの機械を早く利用して、それまでの開発費を早く回収したかったのも事実です。
さて、アメリカ人たちは、この便利な自動車を使って日本人の住む町に乗り込んできたのですが、アメリカ人にとっては便利な自動車も、日本人にとっては、今までに見たこともないものでした。日本人にとっては、少し新鮮な食品が手に入ったり、大量に運べるようになったおかげで少しばかり商品の値段が安くなるだけのメリットしか今はありません。日本では反対運動が起こります。自動車の安全性が確認されていないと。たとえば、エンジンで「ガソリン」という爆発性の物質に火を着けて燃やしたりしたら、そのうちエンジンが爆発して人間が怪我をするというのです。これに対して、開発したアメリカ人はガソリンでエンジンが爆発しないように、現時点での最新鋭の技術を用いているので、そのリスクは低く、そのための政府の安全性の確認も取っていると反論します。
そうこうするうちに、ヨーロッパでは大変な事件が起こりました。ヨーロッパでは自動車ではなく飛行船を開発して利用していましたが、政府が安全性確認を怠ったために飛行船が爆発してしまい、犠牲者が出てしまったのです。アメリカからやってきた自動車についても、猛烈な拒否反応が起こります。特に、馬車の御者たちは、自動車は私たちの文化を破壊する物だから、絶対に拒否しなければならない、エンジンなんかついていたら、いつ飛行船のように爆発するかも知れない。絶対に安全だと確認できるまで乗り入れを禁止せよと主張しました。馬車の御者たちは税金をたくさん払っているのでとても発言力が強く、ヨーロッパ全体に反対運動が広がります。一部に、自動車のメリットを訴える人たちも居ますが、それはごく少数です。
ヨーロッパでの反対運動を横目で見た日本の過激な人たちは、それ見たことかと、反対運動をさらに広げようとします。多くの日本人は、自動車のことを良く知らないのですが、「なんだか不安だな、あんだけ騒ぐのだからきっと問題があるのだろう」といって拒絶反応を示すはじめます。日本でも自動車を開発している人たちがいましたが、過激な人たちに「開発を続けると村八分にするぞ」と脅かされて中止してしまいました。
さて、このあたりが遺伝子組換え農作物をめぐる2000年はじめの時点での状況でしょう。ちなみに自動車は遺伝子組換え農作物、飛行船は狂牛病、人力車は大量に化学農薬を用いる日本の農業、馬車の御者はヨーロッパの農民です。
ついでにここで「リスク」と「危険」の違いを考えてみましょう。現在の自動車に関して言えば、エンジンが爆発する危険はないと言っていいでしょう。危険が予測されればそのエンジンはリコールされて、取り替えられます。しかし、どんなに信用性の高いエンジンでも、爆発するリスクはゼロではありません。エンジンにガソリンを入れて燃焼させる以上、「危険の起こる可能性」であるリスクは0.000000000000…01にはなってもゼロにはなりません。一言で言えばこうなります。科学技術の開発を行うときには、リスクを最小限にする、すなわち、爆発する可能性を極限まで低くしたエンジンを開発するのです。遺伝子組換えでも、悪影響を及ぼすリスクを最小限にしています。完全に安全性が100%保証されているのかと訪ねられれば、科学者は正直であればあるほど「そうとは言えない」と答えざるを得ません。この点を突いて、「100%安全性が確認されるまで使わせない」と言っているのが、一部の過激な消費者団体です。
そのリスクを負うのが嫌であるならば、エンジンのない、自動車のない世の中を取るしかありません。自動車があることによる利便性などのメリットを捨てるのか、限り無くゼロに近いリスクを背負うか、それが課題です。