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明治32年〜昭和9年(生誕地のこと)

祖父が天王寺村で牧場経営

「関西線の汽車がボーとSL独特の汽笛を鳴らして進行してくるのを見てから、家を出て、天王寺まで走って行くと発車の間に合った」八尾中学(現八尾高校)へ通っていた父がこんな話をよくしていた。

当時の天王寺村はそのような広々とした草原が広がっていた。高い建物がないので湊町から天王寺駅を経て東へ走る汽車の姿がよく見えたのである。

西宮に居を構えていた祖父・安之助は牧場を営むのに打ってつけの土地と目っこを入れ、広瀬氏より土地を借り受けて、多くの乳牛を飼ってこれで生計を立てようとした。
広い草原に点々と牛が草をはんでいる牧歌的な様子は、現在の賑わいからは想像することすら出来ない。
また、天王寺村は美味しい「天王寺蕪」の産地として名が知られ、全国各地に出荷されていたという。

昭和30年代のこの辺りの住む人々が描き出す様々な人間模様は、黒岩重吾氏の小説「西成山王ホテル」や「飛田ホテル」にも書かれている。三味線、長唄、小唄、漫才、落語、喜劇役者などの芸人が多く住んでおり、この辺を歩くと昼間から粋な三味線や太鼓の音が聞こえてきたものだ。

難波利三氏画直木賞を受賞した「てんのうじ村」は昭和の初めから終わりまでの下町人情をテーマにしたもので、大村昆、野川由美子、主演で劇化されたこともあり、天王寺村の存在が広く全国に知れ渡るようになった。

大阪府東成郡天王寺村大字天王寺199番地、行政区画の変更、住居表示の変更、などで、大正4年に住吉区天王寺町199番地、昭和4年に住吉区山王町3丁目199番地、昭和18年には住吉区から西成区に変わり、西成区山王町3丁目36番地、昭和32年に西成区山王2丁目35番地と、たびたび表示が変わっているが、場所は同じところだ。住民のことにはお構いなく、住居表示を勝手に変えてしまう行政の傲慢な姿が垣間見られる。

祖父・安之助は牧場の近くに、飛田の遊郭ができるとその周辺も賑やかな街並みに変貌するだろう、歓楽街kishaの側でいつまでも牧場をやっておれないと判断した。
牧場をやめ、その跡地に6棟ばかりの長屋を建てて、貸家業に転じた。
飛田新地ができたのは大正5年の春とか、大正7年の12月ともいわれているが、父が大阪薬学專門学校卒業の頃だと思う。木造、瓦葺き、二階建ての長屋1棟は4、5軒の貸家になっていた。
その一角に自宅兼店舗を建築、父・頼光に薬局を開かせた。

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五代にわたって大阪生まれ、大阪育ち

父・頼光も、私・崇浩も、長女・貴子も、孫・彩、祐香も、大阪で生まれ、育った。祖父から孫まで五代にわたっているので、生粋の浪速っ子といえるだろう。大阪弁のアクセント、イントネーションが、遺伝子段階まで作用しているためか、一言、二言喋ると大阪の人間だと言うことが、分かってしまう。

地方で開催されるセミナーの講師として招かれたときも分かり易いようにと標準語を使うようにしているが、すぐに「関西の人ですね」と見破られてしまう。

実はこの自分史もIBMの音声入力システムを使って文章を作ったのだが、「人」、「文章」 、「認識」など「ひ」と「し」に関わる単語が、コンピュータに認識されずにさんざん苦労した。
どちらかといえば「尻上がり」で歯切れ良く聞こえる関東弁に対して、関西弁は「尻下がり」の発音が多く、良く言えば「まったりした味のある言葉」、悪く表現すると
「品位に欠け、だらしなく」聞こえる。

音声入力の技術も日々進歩しており、この自分史に取りかかってから今日までに2回バージョンアップされた。
いずれは地域差に関係なく入力が出来るようになると思う。事実、当初は単語ごとに区切って入力する「離散発声」から、普通の話し言葉でも入力可能となった。

しかし、主語が先に来ていない文章、用言止め、体言止めなど、切り上げた表現には対応しかねている。
「往生しまっせ」と思わず愚痴をいいたくなる気分だった。多分コンピュータは関東風の発音、イントネーションに設定されていたのだと思う。

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昭和一桁の最後、義士討ち入りの日の誕生

崇浩は昭和9年12月14日、午前11時10分、助産婦・浦野きりさんの助けを受けて誕生した。父・頼光29歳、母・美奈子(後に哲子と改名)25歳の時の子である。

昭和4年、ニューヨーク株式の大暴落に端を発した世界恐慌の痛手からbabyようやく立ち直りかけた日本だったが、私が生まれる約3ヶ月前の昭和9年9月21日に関西地方を襲った室戸台風は、水害による甚大な被害をもたらし、経済の腰を再び折ってしまった。
西日本では水害、東北では干害で欠食児童が増加、娘の身売りが増え、社会問題になった。

一方では陸軍の力が強くなり、非常時には国民を総力戦体制として備えるなど、戦争への傾斜を強めていった時期でもある。
12月14日は赤穂浪士による「義士討ち入りの日」というわけで、いずれにしてもどさくさの中での誕生である。
戌年、忠犬ハチ公の血を引き真面目。
生まれたときの体重は990匁、1匁を3.75グラムで換算すると、3,713グラムになる。

長男・英紀は昭和4年6月14日に生まれ、同7年9月20日、生を受けてわずか4歳で亡くなってしまった。2年の歳月が流れ、その悲しみが癒えかけたときの誕生だけに、両親はもちろん、祖父母の喜びは大変なものだった。

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生まれ年も名前も二番手に向く

生命学に凝っていた父は、「山」なら高く、「海」なら広くという意味を込めて「崇浩=たかひろ」と命名した。統領運を持たせると出世はするかも知れないが、命に危険があると考え、あえて二番手に甘んじる名前を選んのだという。この名前は統領運に欠ける名前で、「食うには困らないが、一番手にはならない」という話しをよく聞かされていた。

テレビの人気番組「アタック25」の司会者・児玉清さんによると、昭和9年生まれの芸能人で「昭九会」という集いがあるらしい。メンバーは結構活躍しているが、トップスターにはなれず、二番手に甘んじている人が多いという。 児玉さん自身は昭和8年生まれだがなぜか「昭九会」には入っているそうだ。

昭和9年生まれの有名人としては、大橋巨泉、中村メイコ、司葉子、池内淳子、若尾文子、井上ひさし、ペギー葉山などがいるが、頂点を極めた人とは言い難い。ただ一人の例外は石原裕次郎で、トップスターの座まで上りつめた。小樽に建てられた記念館は観光名所の一つとされており、観光バスで訪れる人が後を絶たない。美空ひばりと並んで、死後、いつまでも人気が衰えない。
しかし、その出世は若い命と引き換えだった。

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「天の声」は午前4時に聞こえる

株式会社日装の二代目社長・加藤三郎氏が病気で退任するとき、社内から私に社長をという声が上がったが、事情があり、これを辞退した。この時思い出したのが「統領運をもっていない」と言う言葉である。

「天の声」でもあった。もし社長を引き受けていたら、パーキンソン病がもっと進行していたかもしれない。あるいは、1年間の食事療法と薬で治った胃潰瘍が、ガン化して命を落としていたかもしれない。迷ったときは素直に「天の声」を聞くことが最善の策と思われる。

私の場合「天の声」は午前4時頃に聞こえてくることが多い。この種のことを研究している人の話しによると午前3時頃が一番「天」との通話状態がよくなるそうだが、私の場合なぜか1時間ずれている。いくら考えても解決できなかった難問、仕事の進め方とその順番、電話で連絡をとらなければならない相手先、という細かいことから、人生を左右する大問題まで、次々と回答を寄せてくれる。

それらのことを忘れずにメモでもしておき、その通り迷わず行動すると、たいていの場合は「正解」となる。「天の声」=自分ではそう信じている=を聞いている間は寝ころんでいても体温が高くなり、身体が火照ったような状態になる。


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