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慶応2年〜昭和20年(祖父母のこと)

孫には甘かった頑固爺さん

祖父、安之助は父・弥三郎、母、さとの次男として慶応2年3月10日に兵庫県武庫郡西宮市町濱石西町60番屋敷より、大阪市南区西関谷町792番地に移籍した。

大阪府東成郡天王寺村大字天王寺に牧場を開き、その後、貸家業に転じた。今でこそ大阪駅を北の玄関というのに対して、天王寺は南の玄関と呼ばれているが、当時は南のはずれの辺鄙なところだったと推察される。
なにしろ、近くにあった恵比寿神社が南向きに建てられているから、「耳が聞こえない」といわれていた。南のはずれで南を向き、賑やかな市内にそっぽを向くかたちになっているからだ。

誰が云うともなく「えべっさん」に頼むときは石を手に持って塀を叩いて大声で「えべっさん、頼んまっせ」と、やらなければ、御利益が貰え無いという伝説が出来上がり、いまでもそのとおりのお参りをしている人が多い。「つぶやき」で名を上げた芸能人もいるが、耳の不自由な「えべっさん」では、福をもらうことは不可能だろう。
福も欲しければ、お金も欲しい、がめつく生きる大阪人の横顔が想い出されるシーンである。

祖父・安之介は、明治23年1月31日に兵庫県川辺郡立花村ノ内尾濱村、中西依平の長女・さいと結婚、父、頼光は次男として生まれる。
長男、安一は明治35年2月21日に生まれ、大正14年4月26日に24歳の若さで亡くなった。
今西家は長男に事情があり、二男が長男代わりになるケースが多いようだ。ojiisan

気難し屋の祖父・安之助は孫の私を可愛がり、ちちくま(肩車)をしてあちこちに連れていってくれた。少ない毛を剃刀で剃り落とし、卵の白身で磨き上げ、ピカピカ光る禿頭を、涎のついた手でぴちゃぴちゃ叩いても「これこれ」と言うだけで、怒りもしなかった。

梅田と心斎橋と結ぶ大阪市営地下鉄が天王寺まで延伸されることなり、道路が掘り進められていた。現在の地下鉄、動物園前駅のところまで、祖父の肩に乗っかり作業を見に行ったことを覚えている。その当時は近代的な掘削機がないので、露天掘りで地中深くで働く人の姿がよく見えた。

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ちちくまをして骨董市へ

骨董が好きで月に何回か立つ骨董市にもよく連れていってくれた。セリ独特のダミ声が今でも耳に残っている。
ここで、黒檀や紫檀の机などを買って帰り、どこか具合の悪いところがあれば自分で修理するのを楽しみにしていた。

今と違ってボンドや瞬間接着剤のような便利なものがなかったため、膠を煮て柔らかくしたものを糊として使用していた。外れない様にたこ糸でしっかりくくりつけておくのだが、これを面白がって解いてみたりして、よく怒られたものである。

手先の器用な人で、そのころ暖房具として火鉢を使っていたが、かざした手の下の方は暖かいが、上の方は冷たいまま。そこで手の甲と平を交互に入れ替えて暖を取ったものだ。祖父は火鉢の上にすっぽりかぶるカバーを造った。骨格は細い木で造られ、その上に使用済みの和紙を何枚か張り付ける。

一定の通気性は保て、断熱効果を高めるのに和紙はうってつけの素材だ。1枚張ってそれが乾くとさらに1枚と重ね張りをしていく。根気のいる作業の積み重ねで完成したもので、なるほど手を突っ込んでみると全体的に暖かいし、炭の消費量も少なくて済むらしい。
後の調べでわかったことだが、こうした道具は「助炭」と言うらしい。小さい引き出しがついており、湿った「せんべい」や「かきもち」をこの中に入れておくと、元のカリカリになり、おいしく食べられる。昔の人の知恵である。

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終戦の年、疫病で三人の葬儀

祖父はイカの塩辛、海鼠腸、雲丹、塩コンブなどの珍味が好きで、塩コンブなどは市販品ではもの足らず、厳選したコンブを買ってきて鋏で四角に切り、三升炊きの大きな釜で自分の好きな味に炊き上げていた。

性格的にはかなり頑固で、自分のことを「こち」と呼び、あらゆる面で自分の意思を通そうとした。そのためか、祖母とはよく喧嘩をしていた。

崇浩が集団疎開から帰った時はすでに寝込んでいたが、意識ははっきりしており、母が「崇浩が帰ってきましたよ」と声多くかけると、うれしそうな表情で「うんうん」とうなずいていた。ハエが祖父の顔に止まろうとするのを気付いたものが、手で追い払うのだが、このハエが病原菌を運んで来たのか、疫痢にかかり、伝染病として桃山病院に収容され亡くなってしまった。

今ならいろいろな種類の抗生物質があるので、死に至ることはないだろうが、戦後すぐにはそのような薬もなく、ロクな食事もできない日々が続き、栄養状態は最悪で、体力もなかったため細菌に取り付かれると、一たまりもなかった。

祖父と祖母(さい)はちょっとしたことで、よく口喧嘩をしていたが、祖父の死後、「やっとこれで自由に姪や甥のところに遊びいける」と、本音をはいていた祖母も、3日後の昭和20年10月30日に祖父の後を追うようにして、同じ病気でこの世に別れを告げた。

口ではお互いに悪口を言い合いしていたが、本質的には目に見えない赤い糸で結ばれていた仲の良い夫婦だったのであろう。
そればかりか、12月6日には妹・博子までもが、命を奪われてしまった。昭和14年11月の誕生だから、6歳の短く、はかない命だった。

redcrss病院から一人帰ってきた母に「博子は」、と聞くと「もう帰れんようになったんや」悲しそうな顔で答えた。「どうして」、と私、目から涙を一杯流しながら「死んでしまったんや」と母。母にとっては長男についで二度目の我が子との別れであった。

戦争では幸いなことに犠牲者の出なかった今西家が終戦の年・昭和20年に三人もの葬儀を出す皮肉な結果となった。

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戦争の傷跡、子供の心にも

食べるもの、着る物、医薬品などすべての物資が欠乏したのは、戦争が原因だったといえる。そうすれば祖父、祖母、妹の三名は戦争犠牲者だといってよいのではないか。 このように戦争は直接、間接に人々を死に至らしめ、貧困に追いやり、離別などの多くのドラマを作っていくのである。

戦争が悲劇を生むことは子供でも判っているのだが、世界のどこかでは今な03warplaineお多くの戦いが進行中である。人間の性というか動物に与えられた攻撃本能が、理性の幕を突き破って出てくるのか。完全な平和は理想、空想の世界でしか、求められないのだろうか。

新聞やテレビで開発・発展途上国の内乱や難民キャンプの姿を見るとき、終戦前後の日本の状態と比較し、何十年か前にはわれわれもあんな哀れな姿でいたのだなあ、という感傷的な思いがよみがえり、他人ごとのようには思えない。

今から考えるとあんなお粗末な食事でよく命が続いていたものだと思う。食事だけではない。風呂にもろくに入っていないし、何日も同じシャツでの「着たきり雀」だから、頭には毛虱がわき、痒くて、かゆくて仕方がなかった。シャツの縫い目には虱が沢山おり、卵を産み付けていた。

一番屈辱感を味わったのは、校庭に並ばされて、頭から真っ白いDDTをアメリカの兵隊から浴びせられたときである。頭が終わると背中、最後は腹と白い粉は全身にくまなく行き渡るように散布された。

何故かこのときが一番悲しかった。理由がわからないのに「クソッ」という思いが腹の底から湧いてきた。
しかし、DDTの効き目は素晴らしかつた。見事に「虱大軍団」は全滅してしまった。


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