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昭和19年〜20年(学童疎開、終戦)

算盤学校の不思議

小学校に入学したのは昭和16年のことである。同じ年の12月8日に大平洋戦争が始まった。小学校も戦時体制のもとに国民学校と名前を変えた。
入学した金塚国民学校は家から6、700メートルの距離があった。子供の足では十分少々かかった。

飛田遊郭の塀に沿って毎日通った。塀の向かい側は商店が軒を並べていたので、時間のある時は店先で仕事をしている人の様子を覗き見したものだ。算盤学校では独特の節回しで「御破算で」「願いましては」の後、問題を読み上げて行くと、パチパチ珠を弾く、やがて一斉に手が上る。

算盤の基本を教えるときは、2メートル幅くらいの大きな算盤を持って先生sorobanが説明をする。普通の算盤なら縦にすると珠がすぐに落ちてくるのに、この大きな算盤は押し上げられた算盤珠が落ちてこないのが、不思議で、不思議で仕方がなかった。

ある時、学校で教材用の算盤を近くで見ることが出来た。よくよく見ると珠を通している軸に毛が生えており、この摩擦で珠が下に落ちてこないようになっていた。しばらくの間、小さい頭の片隅に残っていた疑問が氷解した。

ハンコ屋さんでは、つげの木の材料に小刀で名前を彫っていく巧妙な技を見て感心した。
その技術が高く評価されていたのだろう、何時通っても忙しそうに彫り続けている姿にある種の感動を覚えた。この店の前だけは素通りできなかった。

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もう一つの不思議「何の塀」

商店の反対側にあるコンクリート製の塀は高さが5、6メートルぐらいあった。何でこんな塀が張り巡らせてあるのか、不思議だった。後で聞いてわかったことだが、身売りされてきた女子従業員が逃げ出さないためのものであった。

その塀は「刑場」の名残ともいわれている。近松門左衛門の浄瑠璃「曾根崎心中」にも、
「どうせ野江か飛田者」という台詞がある。昭和5年の調査では飛田遊郭には貸座敷数220軒、2700人の娼妓がおり、大阪の松島(275軒、4000人)には及ばないが、日本第二のスケールを誇っていた。夜の賑わいは売春防止法が施行された昭和33年まで続いた。

山王町4丁目をすべてとりまくほどの大きさで、6ヶ所ほど入り口があり、それぞれ大門とか北門と名付けられていた。当初は交番所のある大門しか出入りができかった。前借金を踏み倒して逃げ出せないように、厳重な警戒網が張られていた。そのため、この塀は「嘆きの壁」とも呼ばれていた。

「塀の中」といえば今は刑務所のことらしいが、ここでは「遊郭」を意味し、略して「中」と呼ばれていた。ここから学校へ通っていた友達もいたが、年に1度家庭調査があり、親の職業を書く欄が設けられていたが、この表現には、親は困り、子は他人に見せたがらなかった。

校区のほとんどが商業地だったので、学童の親の職業はバラバラ、住宅地のように「会社員」と、単純にはいかなかった。

ある時、友人の調査表を覗いてみると、「貸し座敷業」と書いてあった。その時は変な職業もあるもんだなあと思ったが、後になって考えてみると、よく考えられたうまい表現だと感心した。

『「中」の子供とは遊んではいかん』という父兄がたくさんいた。職業による差別である。夜の商売の例に違わず、金回りはよく、小遣いも多く与えられていたようだが、遊んでくれる友達が少ないので気の毒だった。

私の親はこの点では変なこだわりを持っていなかったので、「中」の友達も何人かいた。登校する前に誘いに行くと、お手伝いのおばさんが、お茶請けのお菓子をくれたこともある。戦後の甘みに飢えていた時期だけにその美味さは「頬が落ちるほど」という表現がぴったくる位だった。
友人を誘いに行く目的の一つは何を隠そうこの甘みに魅せられてのことでもあった。動機は別として相手方の両親には感謝された。

そういえば年齢が2つほど上の「靴磨き少年」と何かのきっかけで知り合いになり、時折、一緒に遊びに行った。彼らも貧しい家の助けにと一生懸命に働いているのに職業が道路端で靴を磨いているというだけでさげずまれ、友達になってくれるものがいないのだ。

ものの言い方が少し乱雑なので誤解されている面があるが、話をしてみるとみな人間的には良い人ばかりである。乱雑な言葉を使う原因の一つは、人間としての正当な扱いを受けていないことへの反発にあったと考えられる。

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入学の年に太平洋戦争始まる

国民学校1年生の昭和16年12月8日に日本軍はハワイ真珠湾を攻撃、米英両国に宣戦を布告、太平洋戦争が始まった。昭和17年の前半までは、マニラ、シンガポール、コレヒドール島などの東南アジア諸地域を占領するなどの戦果をあげ、国内では戦勝祝賀ムードに湧いた。

しかし、昭和17年6月5日のミッドウエイ海戦では惨敗、アメリカの本格的なfightplane反抗が開始された。ガダルカナルでは玉砕、サイパンでも大きいな損害を受けた。
「撃ちてし止まむ」のうたい文句で戦意昂揚をはかろうとしたが、山本五十六連合艦隊司令長官を失い、アッツ島では玉砕、負け戦の様相は次第に濃くなってきた。

とはいっても、日本は絶対に負けないのだと教えられていたので、そのうちに神風でも吹いて、軍艦を沈め、飛行機を落としてくれるのではないかと信じていた。いや、信じさせられていたのである。

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奉安殿にお尻を向けるなんて

金塚国民学校の裏門が阿倍野斎場に面していた。坂道の中間に立てられたような格好になったいたので、正面入口は石段を何段か、登っていかなければならない。上り詰めたところに奉安殿があつた。

中は見せてもらえなかったが、何事かがあると校長先生がここから教育勅語を恭しく取り出して、生徒の前で読んでいた。緊張して身体をコチコチにしながら、頭をたれて聞いていた情況が想い出せる。天皇、皇后両陛下のご真影と教育勅語が入っていることは後になって聞かされた。

奉安殿には最敬礼をして学校に入るように云われいたので、そうしていたが奉安殿にお尻を向けなければ校舎に入れないので、これでよいのか何時も疑問を持ちながらの登校だった。先生は、生徒に奉安殿を大切に扱うように教育してきた。それは神聖視に近いものだった。

いまだから言えることだが、天皇陛下は便所というような不潔なところには行かれないだろうと、勝手に想像していた。いや、オシッコはされないのではないかとも思った。人に聞くわけに行かないし、そんなことを考えること自体が、不敬なことだと子供心に分かっていたので、そっと自分の頭の中にしまい込んでいた。

10歳になるか、ならないかの、子供には教育勅語は難しすぎたが、丸暗記するように要求された。片仮名使いで濁点半、濁点、句点もない上に日頃あまり使わないような難しい言葉の羅列である。

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ 克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我ガ國軆ノ精華ニシテ教育ノ淵源 亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛 衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣ノ世務ヲ開キ 常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘ シ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラズ又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラ ン斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シ テ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ挙挙服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ 庶幾フ
明治二十三年十月三十日
   御名御璽

歴代天皇の名前も丸暗記させられた。神武、綏靖、安寧、懿徳、という具合に今上天皇まで124代にわたる名前を覚えるのだが、読みにくい難しい字も多く、苦労した。

昭和19年3月、決戦非常措置によって国民に戦争への協力を強制した。空襲に備え強制疎開、学童疎開が行われ、食料の配給も滞りがちとなった。
家が都心部にあったので強制疎開にかからないかと心配した。これに引っかかると容赦なく立ち退きを迫られ、家を取り壊されるからだ。

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学童疎開で和歌山へ

私は集団学童疎開で和歌山県、妹・順子は縁故疎開で岡山の祖母の家へ行くことになった。昭和19年のことである。和歌山県海草郡野上中字野上の亀屋旅館の2階がわれわれの宿舎だった。
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旅館の裏に小さな広場があった。年に何回か牛市が立った。近所の農家のおじさんが大きな牛、小さな牛、茶色の牛、黒い牛など、いろいろな牛を持ち込んでセリにかけるのだ。広場の向こうは単線の野上電鉄の野上中駅だった。駅の手前に線路を切り替えるポイントがあった。ある時このポイントを集団疎開の生徒が遊び半分で切り替えてしまった。

幸い駅員がすぐに気が付き元に戻したので大事に至らなかったが、後で本人はもちろん、全員がこっぴどく叱られた。

疎開をしたのはいいのだが、アメリカのB29爆撃機は和歌山の潮岬で集結旋回を行い大阪を目掛けて飛んで来る。野上はちょうどその通り道になっているので、空襲警報は毎日のように発令されていた。空襲警報が出ると宿舎に戻ることになっているので、学校でじっくり勉強している暇はほとんどなかった。

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お粥腹、ろくに勉強できず

脳ミソが海面体のように知識を吸収する時期が、このような状態だから、基礎的な勉強があまり出来ていない。他の教科はある程度埋めあわせもできるが、算数だけは遅れをとると、取り戻すには大変な努力が要求され、その後遺症は中学、高校まで、尾を引いたようだ。

数学嫌いになってしまった。皮肉なことには中学校の同窓会に顔を出してくれる先生は2人とも数学の先生だ。当時のコンプレックスが残っており、何となく先生と話をするのが気恥ずかしい。

食事はコメが不足していたので主食は「おかゆ」が多かった。それも薄い薄いもので、かき回すと米粒がふわふわと浮いてくるようなものだった。
新品だが農民が肥を運ぶ樽に入れ、てんぴん棒で担いで持ってくるので、肥料やりの姿を思い出し嫌だった。

疎開以前の自宅にいたときも米の不足は同じような状況だったが、楠公炊きと称して、米を炒ってから炊いたものも食べさせられた。色は薄茶で芳ばしい香りがするが、フワフワですぐに腹が減る。見かけだけが多く見える工夫である。
切り干し大根を炊き込んだご飯もあった。暖かい内はまだしも、さめるとベタベタして美味しくない。

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とうもろこし粉,芋、芋蔓、野菊

野菜や台所にあるものをごっちゃに煮込んだ雑炊もよく食べさせられた。米が乏しくなるとサツマイモ、それもなくなると芋蔓。なんばきび(とうもろこし)の粉で作ったパンはパサパサでのどにつかえた。パンを焼く道具がないので、昔使っていた木の弁当箱の中にブリキの極板を張り付け、それに百ボルトの電気をそのままつなぐ。電気抵抗の発する熱でパンが焼ける。まさに生活の知恵である。

米も配給されるのは玄米に近い黒いものだったが、一升びんに入れて、はたきの柄で上からつついてやると、一皮むけた白い美味しい米になる。
「窮すれば通じる」、窮地に追い込まれると人間はいろいろなアイデアを考え出してくるものだ。

野菜もなくなり、最後には「荒れ地野菊」まで食べさせられたが、苦くて口に入らなかった。
田舎へ行けば食糧事情は少しはよくなるのではと、淡い望み持っていったが、これは期待はずれに終わってしまった。

こんな訳で疎開生は万年、栄養失調の状態で体はガリガリだった。農協の倉庫に保存されていた石臼状に固めた豆粕をたたき割って食べた時のおいしかったことは一生忘れられない。聞けば畑の肥料にするものであった。

代用食として、サツマイモがあったが、初めのうちは太くて甘い、おいしいものが出ていたが、その内に細い、繊維の多い芋が多くなり、食料が逼迫している状況が、肌で、いや、腹で実感として理解できた。

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それでも「漬け物」は食べず

集団疎開に出発する何日か前、漬物が嫌いな私に、「食料不足になっても沢庵や漬物は無くならない。それを嫌いだと言っていると、何も食べるものがなくなるぞ」「漬物を食べる練習をしておかなければ」と家族のものから注意されたが、頑として受け入れなかった。

炊事場の一角に糠床が置いてあった。この臭いがいやで、あんな臭いものから取り出されたシロモノを美味しいと言って食べる奴の気が知れない。「そんなものを食べるくらいなら飢え死にした方がましだ」と、心の底から思っていた。

口で言っても聞かないので、父は無理矢理口の中に沢庵を押し込んだ。大泣きしてこれを吐き出す、また入れる、しばらくこんなことを繰り返していたが、一向にらちがあかないので見るに見かねた祖母が「ここまでして食べないのだから本当に嫌いなんやろう。ひもじい思いをしても食べないよ」と、助け船を出してくれた。

疎開中どんなに食べ物がなくても漬物には手を出さなかったから、祖母が言ったように本物の漬物嫌いであった。臭いにやられて漬物嫌いになり、60年以上の歴史を誇っている。

「漬け」とつくので食べられるのは、福神漬けぐらいのもので、古漬けはもちろん浅漬け、奈良漬けも一切駄目なのだ。「なぜこんなに美味しい漬物が嫌いなのですか」と、食事を共にした人から聞かれる。その歴史を話し出すと長くなるので「上から押さえつけられるのが嫌いで」と、冗談半分で弁解しているが、「最近は便利になって重しがなくても漬物は出来るようになったのですよ」と、いわれ返す言葉がなかった。

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難民の姿に自分を映す

新聞、雑誌などで発展途上国の難民の姿が紹介されるが、疎開中は、これに勝るとも劣らぬ哀れな姿をしていた。それゆえに地元の子供から「疎開」とからかわれた。地元の子供は親が百姓をしているため、食べるものにはさほど不自由をしていなかったようで、「疎開」ほど痩せていなかった。

年に1回、秋に村のお祭りがあり、この日は地元の人が里親となって「疎開生」を1人づつ自分の家に引き取ってくれる。寝小便をしないか(幸い私はしなかったが、1日に1人か、2人は敷き布団に見事な地図を書いていた)など、すこしの不安はあるが、変化のない生活に飽き飽きしていた「疎開」には、楽しい1日であった。

白いご飯に数点のおかず、ふわふわで暖かい布団、戦時中だというのに、あるところにはあるものだと、ありがたく思い、羨ましくも思った。
私の里親になってくれたのは、宿舎の丁度前にある森脇という村の有力者だったので、特別に待遇が良かったのかもしれない。1日だけ殿様なったような気分にさせてもらった。
しかし、日常の生活とはあまりにも落差が大きすぎるだけに心に大きなショックを受けたのも事実である。

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敷居でシラミ・レース

物資がなく、着ているものもあまり着替えない、ろくに洗濯もしない。風呂も何日かに1回入るだけ。どうしても不潔になるので、虱、蚤、南京虫などがよくわいた。ノミはぴょんぴょん飛んで、捕まえてにくいが、シラミは動作が鈍いため捕まえるのは簡単だ。

遊ぶことがあまりないので、冬の暖かい日には宿舎の敷居の溝にシラミを並べてレースをする。後ろからトントンと指でたたいて驚かすとシラミが走り出す。何番が一等になるか予想してからレースを展開するのだが、動作の鈍いこの小動物を動かすにはかなりのテクニックを要した。

ある程度、温度が高くないとレースはできない。幸い和歌山は気候が温暖で、冬でも太陽が照っていると、かなり温度が上昇し、レースが可能となる。

遊びといえばトランプ、カルタ、百人一首などもよくした。当時、百人一首の歌はすべて丸暗記していた。よほどヒマを持て余していたのだろう。
コックリさんという遊びもはやった。

割り箸を三本コンパス状に紐で括って、その上に手を添える。「コックリさん、コックリさん。私のお金を取ったのは誰れ?」と、お伺いを立てると箸が自動的に動きだして、五十音のカナ文字をひとつひとつ辿ってゆく。その語を綴って行くと、一つの文章になり、それが答えとなる。どうして動くのか原理はよくわからないが、心理学でいう自動書記の一種だと推察される。

他愛もない遊びでやっているうちは良いが、犯人探しで指名されたものは災難である。あらぬ嫌疑を掛けられ、弁解にこれ務めなければならない。泣き出す子供も出てくる騒ぎとなり、他人に迷惑が掛かるからと、寮母さんから禁止命令が出た。

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バリカン不調、半刈り、あだ名に

当時の小学生は全員丸坊主であった。それでも年に何回かは散髪をしなければ髪の毛が伸びてくる。散髪は寮母さんがやってくれた。手動のバリカンでやってくれるのだが、鋼材の品質がよくない戦時中のことでもあり、すぐに切れなくなり毛がひっかかって何回か痛い目に遇わされた。

いつぞやの散髪では途中でバリカンが動かなくなり、いろいろ分解もして直してくれたが、どうにも使えず半刈りのままで明日まで待つ羽目になってしまった。
帽子で隠していたが、いつまでも帽子かぶっているわけにはいかない。食事の前には帽子を取り、両手を合わせて「箸とらば雨土御代の御恵み、兵隊さん頂ます」と唱えてから食事にかかるのが常だった。

ところが、その日は帽子を取るなり、大笑いとなった。吉本喜劇そこのけの大爆笑である。口々に「半刈り」「半刈り」と、言われ、その時から「ハンガリー」というあだ名がつけられてしまった。「半刈り」が「ハンガリー」となりそれを略して「ガリ」と短くなった。

中学に入学した後もだれ言うともなく、「ガリさん」があだ名として定着しまった。これも戦争後遺症のひとつかもしれない。

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精神だけでは物量に勝てず

われわれの宿舎は、旅館の二階だった。一階では従来通りの料理旅館を続けていたようで、時々兵隊さんがお酒を飲みに来ていた。しこたま酒を飲み、大声で歌い、ドンチャン騒ぎをしている。一階を覗いてはいけないといわれていたが、あまり騒がしい時にはそっと様子を見にいった。

酒に酔っぱらった兵隊さんが、真っ赤な顔をした踊っていた。
戦争中に兵隊さんがこんなことをしていて良いのだろうか?と、子供の正義心が怒りを呼び起こした。

アメリカのB29爆撃機が上空を飛んでいる時、時たま高射砲が発射される。敵機が1万メートルの高さを飛んでいるのに、日本の高射砲は5,000メートルぐらいの高さで、パンという頼りない音を立ててむなしく炸裂する。

あれでは高射砲陣地がここにありますと、敵機に知らせているようなもので、口には出して言えなかったが、日本は戦争に負けるのではないかという不安が頭をかすめた。
しかし、学校では「神州不滅」と教えられていた。日本は絶対に負けないのだと大人から子供まで、すべての人の頭が洗脳されていたのである。

やがて終戦の日が近くなり空襲警報が一日に何回も発令された。爆弾が落ちるような音がして、その後地震のような地響きがした。宿舎の中にいると危ないので、外に出て石垣にもたれて爆音と、地響きの収まるのを待った。

アメリカの軍艦が和歌山沖までやってきて、艦砲射撃をしていたらしい。
北の山を見ると、その向こうの空が真っ赤に染まっていた。寮母さんの話では大阪が焼夷弾による爆撃を受け、全市が燃えている。あなたたちの家も焼けて無いものとfire覚悟しておいてください。と悲しそうな顔をして、空が赤くなっている理由を説明した。

外へ光を絶対出さないようにという「灯火管制」、焼夷弾が落ちたら黄燐を払い落とすのだという「火たたき」、火事を消すためのバケツリレー、何一つ役立つものはなかった。

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「堪エ難キヲ堪エ忍ヒ難キヲ」

学校からの帰り路で地元のおばさんが、広島に新型爆弾が落ちて、大変なことになっているらしいと、教えてくれた。終戦の玉音放送は旅館の旧型のラジオで聞いた。

「朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」。あまり感度の良いラジオではなく、聞き取りにくいのと、天皇陛下のお言葉は、子供には難しくよく分からなかったが、雰囲気で戦争に負けたのだと理解できた。

それからが大変だった。誰に命令された訳でもないが、自発的に疎開生全員が集まり、対策を練ることになった。アメリカ兵が宿舎にやってくると、当然皆殺しにされてしまうだろう。だから、箒の先を尖らして竹槍を作り、殺される前に1人は差し殺そうという話しになった。radio

小さい飛行機に乗って、敵に体当たりする神風特攻隊、雷もろとも敵の軍艦に体当たりして、命と引き替えに敵の軍艦を撃沈させてしまおうという、人間魚雷と同じ発想だ。教育というものは恐ろしいものだ。そういう思想を形成する頭脳にマインドコントロールしていったのである。

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「鬼畜」ではなかったアメリカ兵

幸いなことにこの考えは杞憂に終わった。ある日飛行機が超低空で飛んできた。戦争が終わって爆撃音がやんだのに、また空襲かと一瞬身を隠したが、機銃掃射をすることもなく低空飛行を続けていった。この飛行機はアメリカ兵が戦いが終わったのを喜び、遊び感覚で操縦していたということで、土蔵か何かの建物にぶつかって死んでしまったという。

何日かたってこの地方にもジープに乗ったアメリカ兵がやってきた。
教えられていた鬼畜アメリカ兵ではなかった。にこにこ笑ってチョコレートとやガムを持ってきて気前よく日本の子供にくれた。甘さに飢えた口には何とチョコレートやビスケットが美味しかったことか。

日本の弁当に当たる兵隊食だと思うがビスケット、チョコレート、キャラメルをshokuhin
初め色々なものが詰まっていた。お粥腹でがりがりのわれわれとは大違いである。食べ物にこれだけの差があっては戦いに勝てないのは当たり前だ。「腹が減っては戦ができぬ」というではないか。
竹槍、防空頭巾、火たたき、もんぺ、松根油に対して、B29、ジープ、立派な食料、充分な量のガソリン、無謀にもよくこんな豊かな国と戦争をしたものだと思った。「欲しがりません。勝つまでは」といっているうちに戦いに負けてしまった。

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家は戦災に合わず、家人も無事

終戦の後、何日経ったのか記憶にないが、懐かしい大阪の親元に帰ることになった。野上電鉄にのっていけるところまで行って、そこから歩いたのか、それとも海南まで歩いて行ったのかも忘れてしまった。とにかくレールが爆撃でグニャグニャに曲がっていたのだけは覚えている。

そんなことより、帰っても家は無事だったのか、焼けて無くなってしまってるのではなかろうか、家族に怪我をしたものがいなだろうか、と、自宅の方に関心が向いていたのだろう。

海南からどのコースで大阪へ着いたのかも思い出せないが、小さな窓が付いた貨物車のような列車に乗せられて、ずいぶん遠回りをして帰ったように思う。
和歌山、大阪を結ぶ阪和線はおそらく爆撃のため不通になっていたので、関西線経由で天王寺に到着したのだろう。

駅前にあった近鉄百貨店は、戦災で骨格見本のような哀れな姿をさらしていた。天王寺美術館は米軍に接収されていたが、緑の多い天王寺公園の懐かしい風景に接した感慨は言葉では言い表せない。

家は焼けずに残っていたが、50メートルほど離れた商店に1トン爆弾が落ち、向かいの家までが潰れてしまっていた。二階の大屋根の瓦が四分の一程めくれ上がっていた。
もちろん一階の店舗部分とその上の二階正面部分のガラスはすべて爆風で割れてしまったという。

もし誰かが店にいたならガラスの破片が身体に突き刺さり、死ぬほどの大怪我をしていたかも知れない。父は警防団に出かけ、母、祖父母、兄弟などの家族は、奥の部屋にいたので怪我はなかった。
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天王寺の駅をねらって落とされた数発の爆弾の内の一つが風に流されて、近所におちたということだ。直撃を受けた家は完全に吹っ飛んでしまって、5メートルほどの深さのすり鉢状の穴があいていた。

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「物」、「身」に大きな爪痕を残した戦争

痛んだ家を直すにも材料が無いので、しばらくは二階の雨漏りのするところに戸板を並べて水を外へ流すようにしていた。

身体の方は終戦前後の欠食が原因で、夜になると目が見えなくなる夜盲症にかかり、ビタミンAを補給するため,八目うなぎや肝油を飲まされた。昭和シングルの最後を承っているわれわれ同年輩に血管障害が多いのも、当時の貧しい食生活に原因があるのかもしれない。私もいまだに血流が悪く、寒い冬には霜焼けに悩まされている。


終戦までの空襲被害:

被害都市98都市、死者310,028人、負傷者351,602人、行方不明 者24,010。(原爆の被 害も含む)
米軍損害 B29 485機、死者3,041人。

太平洋戦争中の日本側被害:
tank非戦闘員の死者658,595人(沖縄、中国を含む)
軍人または軍属の死者1,555,308人

何ともいたわしい数字である。勝者と負者の差は、はっきりと数字で表されている。



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