
算盤学校の不思議 |
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小学校に入学したのは昭和16年のことである。同じ年の12月8日に大平洋戦争が始まった。小学校も戦時体制のもとに国民学校と名前を変えた。 |
もう一つの不思議「何の塀」 |
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商店の反対側にあるコンクリート製の塀は高さが5、6メートルぐらいあった。何でこんな塀が張り巡らせてあるのか、不思議だった。後で聞いてわかったことだが、身売りされてきた女子従業員が逃げ出さないためのものであった。 |
入学の年に太平洋戦争始まる |
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国民学校1年生の昭和16年12月8日に日本軍はハワイ真珠湾を攻撃、米英両国に宣戦を布告、太平洋戦争が始まった。昭和17年の前半までは、マニラ、シンガポール、コレヒドール島などの東南アジア諸地域を占領するなどの戦果をあげ、国内では戦勝祝賀ムードに湧いた。 |
奉安殿にお尻を向けるなんて |
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金塚国民学校の裏門が阿倍野斎場に面していた。坂道の中間に立てられたような格好になったいたので、正面入口は石段を何段か、登っていかなければならない。上り詰めたところに奉安殿があつた。 |
学童疎開で和歌山へ |
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私は集団学童疎開で和歌山県、妹・順子は縁故疎開で岡山の祖母の家へ行くことになった。昭和19年のことである。和歌山県海草郡野上中字野上の亀屋旅館の2階がわれわれの宿舎だった。 |
お粥腹、ろくに勉強できず |
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脳ミソが海面体のように知識を吸収する時期が、このような状態だから、基礎的な勉強があまり出来ていない。他の教科はある程度埋めあわせもできるが、算数だけは遅れをとると、取り戻すには大変な努力が要求され、その後遺症は中学、高校まで、尾を引いたようだ。 |
とうもろこし粉,芋、芋蔓、野菊 |
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野菜や台所にあるものをごっちゃに煮込んだ雑炊もよく食べさせられた。米が乏しくなるとサツマイモ、それもなくなると芋蔓。なんばきび(とうもろこし)の粉で作ったパンはパサパサでのどにつかえた。パンを焼く道具がないので、昔使っていた木の弁当箱の中にブリキの極板を張り付け、それに百ボルトの電気をそのままつなぐ。電気抵抗の発する熱でパンが焼ける。まさに生活の知恵である。 |
それでも「漬け物」は食べず |
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集団疎開に出発する何日か前、漬物が嫌いな私に、「食料不足になっても沢庵や漬物は無くならない。それを嫌いだと言っていると、何も食べるものがなくなるぞ」「漬物を食べる練習をしておかなければ」と家族のものから注意されたが、頑として受け入れなかった。 |
難民の姿に自分を映す |
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新聞、雑誌などで発展途上国の難民の姿が紹介されるが、疎開中は、これに勝るとも劣らぬ哀れな姿をしていた。それゆえに地元の子供から「疎開」とからかわれた。地元の子供は親が百姓をしているため、食べるものにはさほど不自由をしていなかったようで、「疎開」ほど痩せていなかった。 |
敷居でシラミ・レース |
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物資がなく、着ているものもあまり着替えない、ろくに洗濯もしない。風呂も何日かに1回入るだけ。どうしても不潔になるので、虱、蚤、南京虫などがよくわいた。ノミはぴょんぴょん飛んで、捕まえてにくいが、シラミは動作が鈍いため捕まえるのは簡単だ。 |
バリカン不調、半刈り、あだ名に |
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当時の小学生は全員丸坊主であった。それでも年に何回かは散髪をしなければ髪の毛が伸びてくる。散髪は寮母さんがやってくれた。手動のバリカンでやってくれるのだが、鋼材の品質がよくない戦時中のことでもあり、すぐに切れなくなり毛がひっかかって何回か痛い目に遇わされた。 |
精神だけでは物量に勝てず |
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われわれの宿舎は、旅館の二階だった。一階では従来通りの料理旅館を続けていたようで、時々兵隊さんがお酒を飲みに来ていた。しこたま酒を飲み、大声で歌い、ドンチャン騒ぎをしている。一階を覗いてはいけないといわれていたが、あまり騒がしい時にはそっと様子を見にいった。 |
「堪エ難キヲ堪エ忍ヒ難キヲ」 |
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学校からの帰り路で地元のおばさんが、広島に新型爆弾が落ちて、大変なことになっているらしいと、教えてくれた。終戦の玉音放送は旅館の旧型のラジオで聞いた。 |
「鬼畜」ではなかったアメリカ兵 |
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幸いなことにこの考えは杞憂に終わった。ある日飛行機が超低空で飛んできた。戦争が終わって爆撃音がやんだのに、また空襲かと一瞬身を隠したが、機銃掃射をすることもなく低空飛行を続けていった。この飛行機はアメリカ兵が戦いが終わったのを喜び、遊び感覚で操縦していたということで、土蔵か何かの建物にぶつかって死んでしまったという。 |
家は戦災に合わず、家人も無事 |
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終戦の後、何日経ったのか記憶にないが、懐かしい大阪の親元に帰ることになった。野上電鉄にのっていけるところまで行って、そこから歩いたのか、それとも海南まで歩いて行ったのかも忘れてしまった。とにかくレールが爆撃でグニャグニャに曲がっていたのだけは覚えている。 |
「物」、「身」に大きな爪痕を残した戦争 |
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痛んだ家を直すにも材料が無いので、しばらくは二階の雨漏りのするところに戸板を並べて水を外へ流すようにしていた。 終戦までの空襲被害: 被害都市98都市、死者310,028人、負傷者351,602人、行方不明 者24,010。(原爆の被
害も含む) 太平洋戦争中の日本側被害: |