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昭和9年〜20年(ちびっ子、小学校時代)

幼稚園で「紀元二千六百年」

私は生まれて四歳ぐらいまでは、よく病気をした弱い子供らしかった。兄のように病気で死んでしまうのではないかと、両親を心配させたが、幼稚園に行く頃には元気になった。

金塚幼稚園に入園したのは昭和14年。あたかも紀元二千六百年の前年に当たり、第二次世界大戦が勃発した時である。国家総動員法が発令され、警防団の創設、国民徴兵令の実施など、戦争色が濃くなってきた。

国民生活の面でも賃金・価格統制令が出され、米穀配給統制法が公布された。
紀元二千六百年を祝う歌、『金鵄(きんし)輝くニッポンの 栄えある光 身に受けて 今こそ祝え この朝(あした) 紀元は2600年 ああ一億の胸はなる』 、で意気の昂揚を計らうとした。

日本の各地で神社参拝の後、ラジオの近衛首相に合わせて天皇陛下万歳を三唱し、帝国の 隆昌(りゅうしょう)と皇軍の武運長久を祈願しながら、日の丸の旗を手に持って街頭行進が行われた。この大イベントは国民精神総動員運動の総決算であった。昭和15年10月総動員運動もその歴史を閉じ、大政翼賛会がこれに代わったのである。

しかし、一般国民の関心は、物価の値上がりにあったようで、「金鵄上がって十五銭、栄えある光三十銭、今こそ上がるたばこの値、紀元は二千六百年」と、替え歌の方がよく歌われたのは皮肉な現象だった。
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金塚というのは阿倍野斎場の近くの地名だと思っていたが、金塚幼稚園は地下鉄・動物園前駅に近いところにあった。自宅から子供の足で十分ほど離れたところである。木造のお粗末な建物で、そのスケールも小さいものだった。
現在の金塚幼稚園は阿倍野に近いところにあることから考えると、仮住まいの園舎だったのかもしれない。

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頭にしみ込んだ幼少期の想い出

飛田本通商店街を動物園前に向かって行くと右側に木村屋のパン屋があった。そこを少し入ったところが幼稚園で、このパン屋で確か十銭だったと思うがアンパンを買って弁当変わりにしたこともある。時折ぐずって登園拒否をしたことがあるらしく、その都度おじいさんやおばあさんに送ってもらった。

室内に滑り台があり、一番高いところに立ち上がると、外れた天井板の隙間から天井の中を見ることが出来た。
薄暗い中に明るい、点点がいくつか見えた。建物の隙間から太陽光線が入ってきたのだろう。怖さと好奇心の入り交じった不思議な光景として脳裏に残っている。

記憶といえば三歳ぐらいの時、岡山県邑久郡久具井の母親の里を訪問した時のことだけは鮮明に残っている。窓から外を覗くと雪が積もっていた。

土間には織機が一台置かれ、おばあさんが機を織っていた。窓の縁に黒猫の焼き物と何かもう一つの人形が置いてあった。なんとなく黒猫の小さい焼き物が気に入り、持って遊んでいると、「そんなに気にいったのなら持って帰ってもいいよ」とおばあさんが言ってくれたことである。

母親にその話をすると、その時の状況はその通りで、「三才ぐらいの体験をよく覚えているね」と驚いていた。

脳の作用の面白いところだ。前後のことは覚えていないのに、その瞬間のことだけは目をつむると鮮明によみがえってくる

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「国民学校」へ入学、「小学校」で卒業

これまでの小学校という呼び名が、私が入学する時に国民学校と変わった。金塚国民学校へ入学したのは昭和16年のことである。日本軍がハワイの真珠湾を攻撃、マレー半島に上陸して太平洋戦争が始まった。

登校する時は奉安殿に最敬礼をするように教えられた。理由は判らなかったが、後で天皇、皇后両陛下の写真(御真影)が安置してあるからだと知らされた。明治33年の文部省小学校令施行規則で、最敬礼が義務づけられていたので、否応なくそのようさせられたのだ。

授業では歴代天皇の名を丸暗記させられ、意味も分からないのに教育勅語を覚えさせられた。集会があると仁徳天皇、応仁天皇の御陵のある方向を向いて深々と頭を下げてから、もう一度向きを変えて、校長先生の話を聞かされたものだ。

今だから言えることだが、天皇陛下は便所に入られることはないと、信じ切っていた。そんなことは誰にも言えないし、先生に聞いたら大目玉をくうだろうと、心の隅にそっと留めていた。
教育の力は大きく、ある人の人物像、出来事、事件、歴史などの解釈に絶大な影響を与えるものである。

卒業するときは戦争も終わり、占領軍の主導のもとにできたに学校教育法で六・三・三制が実施され、名称も元の小学校に変わってしまった。

学校名だけではない。教育そのものが大きく変わった。
「欲しがりません、勝つまでは」「一億火の玉」「神州不滅」など滅私奉公の精神で、ことがあると「死」をもってそれに応えるという教育から、一人一人には人権があり、これを尊重しながら平和な生活を送ろうという主旨の「生」中心の考えに百八十転換した。

先生もこの価値観というか、思考のベースが百八十度入れ変わったことに戸惑ったらしく、にわか仕込みの民主主義を唱えていたが、自分の言っていることに自信がないように思えた。

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「めんこ」を「ベッタン」と呼んで

子供のころの遊びといえば、東京式では「めんこ」、われわれの地域では「ベッタン」と呼んでいたものがある。厚紙に風景や人物を印刷したカードを地面に置き、これを別のカードで地面をはたくと風圧でカードがひっくり返る。裏返るとそのカードはこちらのものになる。返らなければ攻守所を入れ替える。相手のカードの下に自分のカードが潜り込むと、もう一度攻撃できる。と、いう単純な遊びである。

はたく時に「ベッタン、ベッタン」と音がするので、「ベッタン」という名前かつけられたのだろう。カードには風景画が描かれている「元祖」と呼ばれる価値の低いものから、人物を何人か書かれた値打ちもののカードまで、いろいろあった。

カードの四辺を少し折り空気がこもり易くするのだが、攻撃の時は威力を発揮するものの、守りの時は地面が少し凸凹していると、すき間から空気が入り込み、ひっくり返りやすくなる。その加減が職人的で面白い。

ある程度の力はいるが、必ずしも力の強いものが勝つわけではなく、ちょっとしたコツで「フワー」と浮き上がるように裏返ることがある。強くなるといろいろな種類のカードがどんどん集まってくる。その数と質が子供の自慢であり、誇りでもあった。
円形のめんこ、力士の形に切り抜いた相撲めんこもあったが、主流は四角いめんこだった。

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「ビー玉」も学習効果で上達

子供の遊びの中のでも、ビー玉も面白いものだった。3メートルほど離れた先に一辺が30センチ程度の三角形を地面の上に白墨で描き、その中に指定された点数のビー玉を入れる。何も模様の入っていない玉は、主としてブルーまたはグリーン色に染められていた。

模様なしが1点、玉の中に白い筋が一つ入っているものは2点、二筋入っているものは3点というふうに決められていた。

三角の中の玉を狙って、親玉といわれる玉を投げる。うまく当たって三角の外に弾き出されたものは自分のものになる。

他にも一対一で相手の玉に当てれば、その玉がもらえるという単純なもなど、いろいろな遊び方あり、勝負強いものは、おかきの缶にいっぱいため込んでいた。
初めの頃はなかなか当てることができなかったものが、何回も繰り返してしている内に学習効果が発揮され、自分でも驚くほど当たる確率が増えてくる。
殊に当てれば自分のものになるという勝負が懸かっていると、その上達のスピードは早くなる。

目視力を高め、距離感を養うことにも結構役立っているのではないかと思う。とにかく一度始まると日が暮れて玉が見えなくなるまで、一心不乱にやっているのだから。
人間がひとつのことに神経を集中すると、フランスの英傑ナポレオンがいったように「不可能」という文字がなくなるかも知れない。

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火花を散らす「バイコマ」

バイコマも遊び道具の一つだった。鉄製の円錐型のコマはバイ貝に似ているのでこの名前がつけられたのだろうか、それともベイコマがなまって子供世界に入り込んできたのか定かではない。一説によるとバイ貝の殻に金属を流して作ったからだともいう。

コマに細いひもを巻きつけて回すのだが、つるつると滑って、これがなかなかうまくいかない。
ミカン箱の上にござを敷いて、その上でバイコマを回すのだが、ゴザの中央部が凹ませてあるので、コマは回りながら自然と中央に集まってくる。

コマとコマが当たると火花が散り、勝負にも自ずから熱がこもる。ゴザの外へはじき飛ばされた方が負けとなり、コマは相手にとられてしまう。
バイコマはほかの遊び道具と比べると値段が高く、子供にはかなりの負担となった。したがって、主に夏の夕方、年に何回か行わる程度であまりポピュラーな遊びではなかった。

子供の遊びにも経済原則はしっかり働き、日常の遊びはコストのかからず面白いものが主流をなし、コストが高い興奮度の強い遊びは、お祭りとか、お正月に行われていたようだ。

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夏は橋の上から池に「ドボン」

夏といえば、都会の中でも自然が残っている近くの天王寺公園へ遊びにいった。この公園は植物園、美術館もあったが、お目当ては大坂夏・冬の陣の拠点となった茶臼山である。広く美しい庭園で、豊かな水を貯えている大きな池があり、中には小島が浮かんでいた。
緑色の水草が所々に浮かぶ池の水はよどんでおり、お世辞にも綺麗とはいえないが、鮒や鯉は生息していた。

池の中程には小島に渡るための橋がかけられていた。ここから水面に向かって飛び込む。もちろん足から先にだ。
飛び込んだ勢いで足が池の底に溜まった泥にブスリとはまり込む、しばらく時間を置いて抜ける。水面に顔を出す時間をしばらくずらせると、泥に足を取られて出てこれないのではないかと、見物人を心配させてから、時期を見はからって、ひょっこり水面に浮き上がる。

思わず上がる歓声。拍手。この事故と隣あわせの危険な感覚が魅力で、何回も何回も飛び込んだものである。「怖いもの見たさ」の好奇心を刺激する遊びである。
今ならさしあたり「ジェットコースター」「バンジージャンプ」に代表される絶叫マシーンに乗るような感覚だ。

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カエルを釣ったり、魚を釣ったり

この池には食用カエルが住んでおり、「ウワーン、ウワーン」と、大きな声で04kaeru鳴いていた。
1メートルあまりの竹竿に太目のテグスをくくりつつけ、針の先につけられた赤い小さい布を上下に動かすとカエルが餌と間違えて飛び付いてくる。

釣ったカエルはまた逃がしてやるやるのだが、子供の手の平の二倍以上もある大きいもので、釣りあげた感触は魚つりでは味わえない豪快なものである。

鮒もよく釣った。竿は伸縮式の上等ではなく一本の細竹だが、テグスに浮、シズ、針を付けた本格的な仕掛けである。えさはゴカイ、ミミズ、などだが、ない時はうどんやメリケン粉を団子状に丸めたものでも釣れた。

茶臼山の池での水泳、魚つりは原則禁止となっていたが黙認の形であった。月に一回ほど管理人が見回りにやってくるが、クモの子を散らしたように逃げてしまう。ジャングルの中で生活する動物のように、逃げ足も早くなくては生きていけないのだ。

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「ラッポーエー」でトンボ取り

家の近くに空き地があり、夏の夕暮れにはトンボ捕りを楽しんだ。空が少し暗くなるころ東から西へトンボが群れをなして飛んでいく。10メートルから15メートルの上空を飛んでいるので、昆虫取りの網では捕ることができない。

仕掛けは1メートルほどの長さの糸の両端に布でくるんだ小石か魚釣りのときに使う鉛を付けておく。重しでもあり、トンボの目にはエサに見えるようにしておく。
右手で糸の中央を持ち、左手は餌であり重しの部分にそえる。右手の力でトンボの群れに向かってこの仕掛けを投げつける。

餌と間違えて近づいてきたトンボは羽を糸に絡ませて地上に落ちてくる。だれが考えたものかしらないが、単純でよくできた仕掛けである。

重りが重たすぎると、ストーンと落ちてきて面白くない。軽いと高いところに放り上げられない。放り上げられた仕掛けが、落ちかけた瞬間にトンボが餌と間違えて近づいてくるので、トンボより少し高い所をめがけて投げられる重さが必要である。それと掛かったトンボが重しに抵抗しながら、ある程度時間を掛けて落ちてくるようにする。

トンボが糸に掛かった状態を「がちゃ、がちゃ」と、表現していたが、この感触を一秒でも長く楽しもうという、トンボ取りの美学である。

上手なものは30分くらいの間で、4、5匹もとった。しかし、小学校の高学年でなければ難しい遊びだった。
トンボ取りの掛け声がまた面白い。「ラッポーエー」「ヤッホーエー」の二つがある。雄用と雌用があるらしいが、詳しくはしらない。

トンボのねぐらが西の方にあり、群をなしてそこへ帰るのだろうが、うまそうな餌だと思ってちょっと横道にそれた食いしんぼのトンボが犠牲になる。酒好きのサラリーマンが赤提灯につられて、ちょいと一杯ひっかける姿と何となく似ているように思えてならない。tommbo

トンボ釣りが終わってさらに暗くなってくると、蝙蝠(こうもり)の出番だ。家の軒先から何軒か向こうの軒先を目指して飛んでいく。飛びながら小さな虫を食べているのだろう。蝙蝠を捕るのはなかなか難しい。ある時、誰かが蝙蝠を捕まえた。のぞき込んでみるとネズミのような顔をしていた。都会のど真ん中にもこんな自然が残っていたのだ。

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焼けたベアリングでゴーカート

戦後一番スリルを感じた遊びは、自作のゴーカートである。焼け跡から拾ってきたベアリングを金槌叩いてサビを落として油を差すとまたスムースに動くようになる。木で台車と車軸をつくる。車軸にベアリングをはめ込みゴーカート形式の四輪車にしたものだ。前の車軸は足で操作でき、方向を決められるようにしてある。ブレーキは引くと地面をこするようになっており、その摩擦でストップする。

この台車を持ってコンクリート舗装の坂道まで行く。近鉄・阿倍野から地下鉄・動物園前までの間はかなりの坂なっているので、滑り降りるには格好のコースである。

このころは自動車もほとんど走っておらず、運送にはまだ馬車が使われていた。馬車が坂道にさしかかると、車の重さで加速度がつき、馬を後ろから押すような形になる。このままにしておくと、ますますスピードが上がり、危ないので、馬追のおじさんが慌てて回転式のブレーキハンドルをまわす姿が面白いので、何台もの馬車が通り過ぎるのを飽きもせずに眺めていた。

登りの馬はもっと大変だった。ただでさえ重い荷物が坂道にさしかかるとうんと加重がかかる。馬の足の裏には金属製の馬蹄が打ってあるので、コンクリートの道路ではつるつる滑る。おじさんは励ましているのか、気合いを入れているのか知らないが、鞭で馬のお尻をピシピシ叩く。叩かれた馬は焦るからなお滑る。汗もびっしょりかいている。
「ウマ」に「生まれてこなくて良かった」とつくづく考えたものだ。

自動車が少なく、舗装された、程良い傾斜が長く続いているという条件を満たした道路が近くにあったからこんな遊びも出来た。大きな音立てて走るので、通りに面した店の人にはやかましかったと思う。その音とクッションがなく道の凸凹が体全体をゆさぶるスリルがなんともいえない。

近所に口やかましいおばあさんが住んでおり、この人の渾名が「ベアリング婆」だった。どんなに喧しかったかお分かりいただけるだろう。

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竹馬、パチンコ、水鉄砲、そして胴馬

他にも遊びはいろいろあった。「缶馬」、アキカンポックリともいった。アキカンに二つ穴を空け、そこに紐を通す、履き物の下に缶を置き手で紐を引っ張り、缶の上に乗ったまま歩く。ただそれだけのことだが、急に背が高くなり、視野が開けるのが嬉しかった。

上手く歩くとコポコポと軽快な音がするのもよい。同じ大きさの空きかんを集めるのに日にちを要した。もっと背を高くしてくれるのが「竹馬」。毎年足を乗せる台が高くなるのが楽しみだった。

「明日天気になーれ」と唱えながら下駄を思い切り前へ放り投げる。下駄が表向くと晴れ、裏向くと雨、横を向くと雪。

「パチンコ」といっても、チンジャラっと球が出てくるものと違う。Y字型になった木の股を探してきて、これにチチゴム、ムシゴムといわれる生ゴムの細いチューブを括り付ける。ゴムの中央部は小石を包み込める位の楕円形の革を付けておく。ゴムを力一杯引いて離すと反動で石が勢い良く飛び出す。
ゴムの強さでかなりの威力を発揮する。野良猫や雀を脅かすには、充分役に立った。Y字型の部分を金属にしたものを店で買うこともできた。

「水鉄砲」直径5センチ、長さ30センチあまりの竹筒の一方は節の手前で切り落とし、反対側は節が付いているいるものを用意する。節の中央に水の出る小ささな穴を空ける。
外筒より細い竹の先に布切れを巻き付け、上から糸で固定する。竹筒の内径にぴったりの太さにして、ポンプの役を果たす。筒に水を入れて勢い良く後ろから押しだすと、節にあけた小穴から水が飛び出す。

「紙鉄砲」。これは細い竹筒の中に口で新聞紙をしがんだものを詰め込む。長いお箸のような棒で筒の前まで押し込む。もう一つ新聞紙のタマを入れ込み、力を込めて押し込むと「パン」と、小気味の良い音を立てて先に入れたタマが飛び出す。

「馬乗り」胴馬ともいった。ジャンケンで馬になる組と乗り手になる組に分ける。馬の内の一人が頭となり、頑丈な塀にもたれるようにして立つ、その股ぐらに頭を突っ込む。次の馬も前の馬の股に頭を入れる。何人か連結して馬ができあがる。
乗り手は勢い良く走ってきて、跳び箱の要領で、馬の背に乗る。重さに耐えかねて崩れると馬を続けなければならない。乗り損ねたり、乗り手をすべて乗せても馬が崩れなければ交替する。
さむい冬でも「押しくら饅頭」と同じですぐに体が温まった。

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男の遊びは「外」、女は「内」が中心

折り紙の手法で作る紙飛行機、竹籤(ひご)をローソクの火で曲げ、薄紙を貼って翼をつくり、ゴムでプロペラを廻して飛ぶライトプレーン。

蜜柑の皮の液で文字を書き乾燥すると見えなくなるが、火で炙ると文字が浮き上がってくる「あぶり出し」、ネガの役割を果たす図柄の入った硫酸紙の後ろに印画紙を置き太陽光を一定の時間当てると、くっきり図柄が焼き付けられる「日光写真」。

磁石に紐を付けてあちこち歩き、砂鉄を集める遊び、タイヤ、チューブのはずれた自転車自転車のリムに棒を後ろから当てがって廻しながらスラロームをしたり、細いところを通り抜けたりする遊び、市販の奴ダコながら、新聞紙を帯状に切った紙を手足に付けて安定を図り、どこまで高く上がるかを競った「凧揚げ」、かくれんぼ、鬼ごっこ、缶けりなど、一つを思い出すと薄れかけていた記憶の中から、引き出しをあけるように一つ、また一つと想い出されてくる。

  ゲタ隠しちゅうれんぼ          橋の下のネズミが
  草履をくわえてチュッチュクチュ    チュッチュク饅頭は誰が食た
  誰も食わないワシが食た        表の看板三味線屋
  裏から回って三軒目

文脈の繋がらない、訳の分からない歌詞だが、リズムが良かったためなのか、子供達の頭にはなんの抵抗もなく入り込んだ。
数十年経っても淀みなく思い出されるのだから、子供の遊びも「たかが」と馬鹿に出来ない。歌を口ずさんでいると、純真な気持ちで遊びに夢中になっていた幼い頃の姿がよみがえってくる。そう言えば必死になって隠した自分の下駄が見つからず、泣き出したこともあった。

女の子は、手をつないでおなじ人数が対面できるように横一列に並びタンス長持ち、どの子が欲しい、あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、ジャンケンポン、勝ってうれしい「はないちもんめ」、負けてくやしい「花一匁」。
指名された子はジャンケンに負けると相手のチームへ移る。貧しい農民が娘を売りに出す悲しみを歌ったという説もあるが、子供はお嫁入りの予行練習をしているかのような軽い乗りで遊びを楽しんでいた。

遊びのバラエティの豊富さに今更ながら驚かされる。物資がないときだけに、身pair近にあるものはすべてが遊び道具になった。昔の子供はよく遊んだ。
遊びの中で知識、運動能力の向上、友情、助け合い精神、社会のルール、地域の特性などを理屈ではなく身体で覚えていった。

遊びというよりもおもちゃに属することかも知れれないが,セルロイド製の小さい船の後ろに樟脳を乗せて洗面器の中をくるくる走る舟を祭りの露天で見たときは、いつまでもその場を離れられなかった。

ブリキで出来た船のタンクに水を入れ、下からローソクでタンクを暖めると、焼き玉エンジンのようにポンポンと音を立てて進む舟にも心を奪われた。
不思議に思うと子供は動いたり、走ったりする理屈を知りたくなる。理科の学習が自然に始まる。

男の子の遊びは野外でするものが多かったが、女の子の遊びは、羽根突き、けんけん、花一匁などの他は室内向きのものが多かった。おじゃみ(お手玉)、折り紙、おはじき、あやとり、着せ替え人形などである。


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