
幼稚園で「紀元二千六百年」 |
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私は生まれて四歳ぐらいまでは、よく病気をした弱い子供らしかった。兄のように病気で死んでしまうのではないかと、両親を心配させたが、幼稚園に行く頃には元気になった。 |
頭にしみ込んだ幼少期の想い出 |
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飛田本通商店街を動物園前に向かって行くと右側に木村屋のパン屋があった。そこを少し入ったところが幼稚園で、このパン屋で確か十銭だったと思うがアンパンを買って弁当変わりにしたこともある。時折ぐずって登園拒否をしたことがあるらしく、その都度おじいさんやおばあさんに送ってもらった。 |
「国民学校」へ入学、「小学校」で卒業 |
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これまでの小学校という呼び名が、私が入学する時に国民学校と変わった。金塚国民学校へ入学したのは昭和16年のことである。日本軍がハワイの真珠湾を攻撃、マレー半島に上陸して太平洋戦争が始まった。 |
「めんこ」を「ベッタン」と呼んで |
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子供のころの遊びといえば、東京式では「めんこ」、われわれの地域では「ベッタン」と呼んでいたものがある。厚紙に風景や人物を印刷したカードを地面に置き、これを別のカードで地面をはたくと風圧でカードがひっくり返る。裏返るとそのカードはこちらのものになる。返らなければ攻守所を入れ替える。相手のカードの下に自分のカードが潜り込むと、もう一度攻撃できる。と、いう単純な遊びである。 |
「ビー玉」も学習効果で上達 |
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子供の遊びの中のでも、ビー玉も面白いものだった。3メートルほど離れた先に一辺が30センチ程度の三角形を地面の上に白墨で描き、その中に指定された点数のビー玉を入れる。何も模様の入っていない玉は、主としてブルーまたはグリーン色に染められていた。 |
火花を散らす「バイコマ」 |
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バイコマも遊び道具の一つだった。鉄製の円錐型のコマはバイ貝に似ているのでこの名前がつけられたのだろうか、それともベイコマがなまって子供世界に入り込んできたのか定かではない。一説によるとバイ貝の殻に金属を流して作ったからだともいう。 |
夏は橋の上から池に「ドボン」 |
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夏といえば、都会の中でも自然が残っている近くの天王寺公園へ遊びにいった。この公園は植物園、美術館もあったが、お目当ては大坂夏・冬の陣の拠点となった茶臼山である。広く美しい庭園で、豊かな水を貯えている大きな池があり、中には小島が浮かんでいた。 |
カエルを釣ったり、魚を釣ったり |
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この池には食用カエルが住んでおり、「ウワーン、ウワーン」と、大きな声で |
「ラッポーエー」でトンボ取り |
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家の近くに空き地があり、夏の夕暮れにはトンボ捕りを楽しんだ。空が少し暗くなるころ東から西へトンボが群れをなして飛んでいく。10メートルから15メートルの上空を飛んでいるので、昆虫取りの網では捕ることができない。 |
焼けたベアリングでゴーカート |
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戦後一番スリルを感じた遊びは、自作のゴーカートである。焼け跡から拾ってきたベアリングを金槌叩いてサビを落として油を差すとまたスムースに動くようになる。木で台車と車軸をつくる。車軸にベアリングをはめ込みゴーカート形式の四輪車にしたものだ。前の車軸は足で操作でき、方向を決められるようにしてある。ブレーキは引くと地面をこするようになっており、その摩擦でストップする。 |
竹馬、パチンコ、水鉄砲、そして胴馬 |
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他にも遊びはいろいろあった。「缶馬」、アキカンポックリともいった。アキカンに二つ穴を空け、そこに紐を通す、履き物の下に缶を置き手で紐を引っ張り、缶の上に乗ったまま歩く。ただそれだけのことだが、急に背が高くなり、視野が開けるのが嬉しかった。 |
男の遊びは「外」、女は「内」が中心 |
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折り紙の手法で作る紙飛行機、竹籤(ひご)をローソクの火で曲げ、薄紙を貼って翼をつくり、ゴムでプロペラを廻して飛ぶライトプレーン。 |