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昭和22年〜25年(中学時代)

中学校選びの基準は焼け残り

中学校へ入学したのは昭和22年、終戦から2年たったときである。アメリカのお仕着せだといわれながらも日本国憲法が施行された。学校教育法も改正され六・三・三制が実施された。ほとんどの中学校は戦争で校舎を失い、校舎が焼け残ったのは私立では関西大学付属第一中学校(後に付属の文字がなくなる)と摂南工業大学付属中学の2校であった。

小学校までの成績はお世辞にも良いとはいいがたいのと、戦争のドサクサでろくに勉強をしていないので、公立の中学校に入れると、高校、大学に入学するときは試験で苦労するだろうという親心が、この二つの中学校を選ぶ原因となったのだろう。chikuonki

私はどちらかといえば理科系が得意だった。家にあった蓄音機を分解して中に入っていたスプリングを取り出して、元に戻すことができなくなるなど、不思議に思うものはばらして、中を見たくなるという好奇心豊かな子供であった。

とにかく2校受けて後からじっくり考えようということになった。結果、関大、摂南とも通ってしまった。自分では得意な理工系を生かすため、摂南を選ぶつもりだったが担任の辻本先生が、なぜか関大ひいきで強力に関大付属を押してくれた。

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小、中、高いずれも斎場の横

関西大学付属第一中学の前身は関西甲種商業学校で商業系だった。小学校時代から算盤学校に通い珠をうまく弾く子供が多いのに、私は算盤の「そ」の字も知らなかった。

理工科系への進学を諦め、先生の推薦にしたがって関大を選んだ。人生の分かれ道だ。
関大一中の面接試験官は偶然にも吉川(きっかわ)という理科の先生だった。どんな質問がでるのか、胸をどきどきさせながら面接試験に望んだが、「電気はどのようにして発電するのですか」と質問された。これは得意中の得意で、水力発電を例に取り、ダムに水をため、落差の力でタービンを回しこれに直結された発電機を回し電気を起こす、と答えた。

関大一中は現在、関西大学に隣接した「千里山」にあるが、われわれが入学した頃は、天神橋六丁目と長柄橋の間にあった。建物は「コ」の字型に立てられ、古色蒼然とは言い過ぎだが、年代を感じさせる独得の雰囲気を持っていた。

金塚国民学校は、阿倍野斎場の近くに位置し、関大一中、関大一高は、ともに長柄斎場のすぐ側にあった。10年間斎場の横手で学業に励んだ。よほど斎場に縁があったのだろう。

人は「長生きするよ」と、慰めの言葉を掛けてくれるが、風向きによっては人を焼く臭いが窓から入ってくる。
霊が霊を呼ぶのか、阿倍野斎場では首吊り自殺をした死体を何人か見た。お金持ちの大きい墓は鳥居のような石の門がある。首吊り用の紐が掛けやすいのだろうか、それとも墓の主に死んで恨みを晴らしているのか、ここで首を吊って自らの命を絶ってしまう。場所はいつも同じところだった。

恐いもの見たさで、何回か見にいった。鼻の穴から、粘りけのある鼻汁が、だらりと垂れ下がり、身体の重みで首が伸びたのかと思われる程長くなっていた。顔は苦しさというより、恨めしそうな表情をしていた。これは阿倍野斎場だけで、長柄では自殺や首吊りの話は聞いたことがない。

日常会話の中にの「阿倍野」は良く出てきた。死んでしまうこと、駄目になること、倒産することなどをひとまとめにして、「阿倍野行きや」という言葉で表現していた。別な言葉でいえば「お釈迦になる」のと、ほぼ同じ意味を持っていると思えるが、大阪の特に南部に住む人には「阿倍野行き」の方が、内容はきつい話なのに響きが柔らかに感じられるようだ。

しかし、都市の発展と共に斎場の機能をよそに移したり、再開発の話が出るなどの影響を受け、この言葉も死語になりつつある。「死」を現す言葉が「死語」になるのは、嬉しくもあり、悲しいことでもある。

夏の夜、肝試しを兼ね腕白仲間と墓の中を歩いてみたこともある。井戸の中を覗いてみると、燐がちらちら光っている。骨の中に含まれている燐が水に解けだし井戸に入り込んだのだろう。これが空気中に飛び出すと人魂になるのだと思う。

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大阪の南から北まで市電でも通学

大阪旧市街の南の端から北の端まで通学するのだから、かなりの距離があった。通学コースは二つあり、一つは市電利用、もうひとつは南海と国鉄・城東線(現JR環状線)を利用したコースである。

【市電コース】
霞町から長柄橋行き、あるいは都島車庫行きに乗車する。霞町車庫から出05citytrin発して(阿部野橋発もある)恵美須町、日本橋三丁目、同一丁目、長堀橋、久宝寺町、本町二丁目、高麗橋、北浜二丁目、ここで堺筋に別れをつげ大川に架かったライオン橋で知られる難波橋を渡り、東に直角に曲がる。
天神さんで有名な樋上町で再び北に転じて、南森町、扇町を経て、、天神橋筋六丁目(天六)で下車、さらに北へ徒歩5分、長柄橋と天六の中間に学校はあった。

今のように交通渋滞はなく市電はスムーズに走るが、なにぶん、駅と駅の距離が短いので、乗降客がない停留所は、車掌がロープを引っ張って運転手に「チン、チン、チン」3回鐘をならして、通過するのだが、45分以上の時間がかかった。
長いロープと鐘による車掌と運転手のコミュニケーション。2回の「チン、チン」は発車良し、1回は停車、乱打は緊急と決められていたようだ。

車掌の仕事は結構忙しい。お臍の辺りに、普通の切符、回数券、お釣り、切符に穴を空けるハサミを入れたポシェットをぶら下げ、駅名の案内、乗降客の有無、を確認ながら、切符の販売もしなければならない。

その頃の市電は道路上に張られた架線からポールを経て、プラス、マイナスの電力を得ていた。交差点の通過時、路線を入れ替えるポイント、急なカーブでポールが架線から外れることがある。外へ出て元に戻さなければならないが、細い架線にポールの先についた滑車をはめるには、ちょつとした技術が必要だ。

電車が終点に着くと、進行方向が逆になるので、前のポールを降ろして、後ろのそれを上げる。一人か二人、上手な車掌さんがおり、架線から1メートルほど離れたところから狙いを定めて、スパッとはめ込んでしまう。この手品師のような車掌さんの電車に乗り合わせるのが楽しみだった。

大阪の人はせっかちだ。地名を略して使うことが多い。上本町六丁目・上六、日本橋一丁目・にっぽんいち・ぽんいち、松屋町・まっちゃまち、天神橋筋六丁目・天六と、いった調子だ。

東京の友人が大阪の市電に乗って車掌が、「次はにっぽんいち」と略称で駅名案内をしているのを聞き驚いたという。大阪に住んでいる人はそれで判るだろうが、東京の人間にはサッパリ判らないとぼやく。

現在でもエスカレータや動く歩道で立ち止まるときに大阪では右に立って左を明けるが、東京はその反対で左に立って右を急ぐ人にゆずる。自然発生的にその様になってしまったのである。
東京は武家社会、大阪は町人文化から発達した。街の発生過程の差が出ているのだという。他にも理由があるかも知れないが、東京を中心とした関東と大阪を含めての関西地方では、言葉、文化、習慣、思考に差があることは、間違いのない事実である。

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市電で見付けた関東と関西の気質の違い

市電の回数券は10枚分の代金を払うと1回分がおまけに付いてくる。これに目を付けた大阪のおばさん、というよりお婆さんという方がぴったりくる年配のご婦人がこの回数券を1枚ずつ切り離して、停留所で売りだした。11枚売って1枚分の儲けだから、利益は1割弱。乗る人が多い停留所では結構な収入になった。

関西の人は抵抗なくおばさんから切符を買う。「同じ値段なら寒いのに頑張っているおばさんが儲かるように買ってやればいいじゃないか」とその理由を説明する。

ところが関東の人は「値段が同じなら汚い婆から正規ではない切符を買うより、車掌から求めた方がよい」となる。どちらが良くて、どちらが悪い、という問題ではない。考え方に差があるというだけのことである。

こんなエピソードまで乗せて走っていた市電も自動車が増えるに従い邪魔者扱いをされレールが取り払われた。しばらくトロリーバスがその代役を果たしていたが、これも廃止になり、バスと地下鉄が市内の主要交通機関になった。

市電のホテルであった霞町の車庫は遊園地に姿を変えて、若者に人気のある大阪の新名所フェスティバルゲートとして、近くにある通天閣とともに脚光を浴びている。

【南海、国鉄城東線コース】
今は地下鉄・堺筋線が天下茶屋まで延びたので廃線になってしまったが、南海電鉄の支線・天下茶屋線が天王寺から天下茶屋まで走っていた。地元では「一本線」の通称で呼ばれていた。複線なのに一本線と呼ばれるのは、何故か知らない。その昔、単線の時代があったのではなぃかと想像している。中間に「今池」という駅がひとつだけあった。

ここから天王寺まで出て、国鉄城東線(現JR環状線)に乗り換える。寺田町、桃谷、鶴橋、玉造、森之宮、桜ノ宮、天満。ここで下車する。

当時は大阪城駅はなかった。というより、砲兵工廠後で米軍の爆撃機に徹底的にやられて、一面瓦礫と化し、市内では一番開発の遅れていたところであった。その瓦礫が見事な変身を遂げた。大阪で一番進んだビジネスゾーンOBP(大阪ビジネスパーク)に変身したのだ。そして大阪城駅や高級ホテルもできた。

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日本で一番長い商店街が通学路

天満駅から日本一長いといわれている十丁目筋商店街を約15分北へ歩いたところが天六である。この商店街は正式には、天神橋筋商店街という名前が付けられているが、堂島川にかかる天神橋のたもとの一丁目から北端の七丁目まで続く。端から端まで2.5キロメートルあり、地元の人は3キロと、少しサバを読んで日本一を強調する。

大阪の人はユーモアを含めてサバを読むのが好きだが、距離だけではなく、七丁目までしかないのに十丁目筋というのは「サバ」なのか、「タイ」が有ってのことかは知るところではない。
その長さは商店街としては日本一と自称している。あらゆる種類の商店が道の両側に軒を並べ、朝から晩まで人通りが絶えない賑やかなところである。城東線(現JR環状線)の天満駅は丁度商店街の中央にあった。

われわれが通っていたときは衣料品の店の数が圧倒に多かった。
殊に紳士服の店はこの十丁目筋、飛田本通り、九条商店街など下町の商店街に集まっていた。ご多分に漏れず、この商店街も凋落の色が隠せず、最近は人通りか減っているので、端から端まで歩いた人には「満歩状」をくれるそうだ。

小学校時代はどちらかといえば内向的な性格であった。中学校ではこれを務めて外向性に変えるように努力した。スポーツクラブに属するのが早道だと考え、卓球部に入ったが長続きしなかった。

それよりも模型の電気機関車を作るほうに興味があった。ED14という電気機関車が一番格好が良かった。
Eはエレクトロニクスの略で、Dは四輪駆動を意味する。つまり四輪駆動の電気機関車というわけである。

同じように模型が大好きな伊東真二君の影響が強いかった。乏しい小遣いから部品を買うので、今日は車輪だけ、次はパンダグラフ、その次はコレクターといった小口分割買いだ。したがって完成までにずいぶん時間がかかったが、それだけに完成の喜びは大きかった。
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小さなボイラーをアルコールランプで加熱し、蒸気を発生させてピストンを動かす蒸気機関を利用した列車、機関車も走らせてみたかったが、ボイラーが大きなスペースを占めるので機関車はあきらめ、船に応用することした。
うっかりすると、ボイラーの水がなくなり、空炊きしてしまう危険性もあり、電気機関車ほど面白くなかった。

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模型からラジオ少年に

模型の次はラジオ。鉱石ラジオから始まって電気蓄音機の組み立てまで、いろいろな経験を重ね、知識を増やしていった。銅線をクモの巣状のベークライトに巻き付けたものを二枚用意し、これを少し間隔を空けて向かい合わせに配置する。
後は鉱石とバリコンがついているという至極簡単なものである。

アンテナとアースを接続するだけで電源もないのにラジオが聞こえるのが不思議だった。当初は鉱石のかけらを針で、一番感度の良いところを探りあてる、原始的なものだったらしい。

私たちが始めたときは長さ3センチ、直径1センチほどのチューブの中に鉱石を詰めたものが販売され、感度もずいぶんよくなった。中を分解してみると、小さな石のかけらとスプリングが出てきた。

やがて真空管式の受信機が出回るようになり「並四」と呼ばれる新型が出現した。検波、再生、増幅、出力などの動作を4つの真空管でまかなうため、このような名前がつけられたのだろう。「並四」は再生回路がついているので、まず大きなバリコredioンでチューニングをとってから、小さなバリコンで上手に調整してやらないと「ピィピィ」と発信音が入り肝心の放送が聞こえなくなってしまう。

学校でも「並四」ラジオの原理は習ったが、ごく専門的な知識、情報は先生を追い越していた。中学生は恐るべき存在といえよう。

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中学時代の電気知識が後に生きる

中学時代は頭が海綿体のようにあらゆる知識を吸収してしまう。このときにいろいろなものに取り組み、経験を積み重ねることが大切だ。

こうした電気知識が役にたち、後に電気蓄音機を作ることができた。俗に「電蓄」と呼ばれていたものである。当初はカフェとか喫茶店などの客商売にしか電気蓄音機は置かれていなかった。「ボン、ボン」と腹に響く低音が何としても魅力だった。

電蓄は背の低い小型冷蔵庫のような大きさで、上のふたを開けるとターンテーブルとピックアップがある。レコード盤は78回転のSP版である。
ピックアップに針をつけて、これをレコードの一番外側の溝に置くと「スウ、スウ」というスクラッチ音の後に音楽が聞こえてくる。

電蓄の中間部分にはチューナとアンプが入っている。チューニングはつまみを回すと針が左右に移動し、受信周波数がわかるようになっている。針を動かす糸を張るのに大変苦労をした。しかし、ここは電気蓄音機の顔に当たる部分で、内部の照明によってボウーと浮かび上がってくるグリーン色のパネル板の数字と、赤色をした指針、自動車のフロントパネルを思い出させる、何ともロマンチックなものであった。

一番下の部分はスピーカーの収納スペースである。どこのスピーカーがよいか、バッフル板は桜が一番、厚みをどうするなど、こだわりにこだわって作り上げたものである。パイオニア、松下の工場をわざわざ訪ねて、商品についての知識や情報を得たことある。

また、戦後でラジオがなかった家庭が多かった。ラジオがあっても昔のもので音質、性能ともに悪いものであった。そこにスーパーヘテロダインが登場した。高周波を検波した後、一旦、中間周波数に変換して増幅するため、再生の雑音・ピィピィがなくなり、音質がよくなった。
GT管、ミニチュア管など小さい真空管も登場してラジオは小さくなった。

中学時代に仕込んだラジオの知識が役に立ったことは他にもある。近所の人の要望で電気街として知られる日本橋でリンカーンいうブランドの小型で性能の良いラジオ・キットを買い求め組み立ててあげた。製品になったラジオには組み立ての手間賃とそれなりの利益、さらに物品税がかかっていたので、高い値段がつけられていた。

組み立てキットには物品税がかからず、手間賃もかかっていないので、その価格差は大きかった。電気部品屋さんの領収証を見せて、その実費だけお金を頂くようにしたが、「それだけでは気の毒だ」と、幾ばくかのお金がお礼として返ってくる。
あちら良し、こちら良しの、両方良しで小遣い稼ぎもできた。

ある時はアマチュア無線で友人の輪を広げたし、パソコンが登場するとこれをマスターし、会社のOA化をいち早く達成できた。
インターネットにも加わることができた。いずれも中学次第に習得したラジオの技術がベースになっている。

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