
中学校選びの基準は焼け残り |
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中学校へ入学したのは昭和22年、終戦から2年たったときである。アメリカのお仕着せだといわれながらも日本国憲法が施行された。学校教育法も改正され六・三・三制が実施された。ほとんどの中学校は戦争で校舎を失い、校舎が焼け残ったのは私立では関西大学付属第一中学校(後に付属の文字がなくなる)と摂南工業大学付属中学の2校であった。 |
小、中、高いずれも斎場の横 |
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関西大学付属第一中学の前身は関西甲種商業学校で商業系だった。小学校時代から算盤学校に通い珠をうまく弾く子供が多いのに、私は算盤の「そ」の字も知らなかった。 |
大阪の南から北まで市電でも通学 |
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大阪旧市街の南の端から北の端まで通学するのだから、かなりの距離があった。通学コースは二つあり、一つは市電利用、もうひとつは南海と国鉄・城東線(現JR環状線)を利用したコースである。 |
市電で見付けた関東と関西の気質の違い |
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市電の回数券は10枚分の代金を払うと1回分がおまけに付いてくる。これに目を付けた大阪のおばさん、というよりお婆さんという方がぴったりくる年配のご婦人がこの回数券を1枚ずつ切り離して、停留所で売りだした。11枚売って1枚分の儲けだから、利益は1割弱。乗る人が多い停留所では結構な収入になった。 |
日本で一番長い商店街が通学路 |
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天満駅から日本一長いといわれている十丁目筋商店街を約15分北へ歩いたところが天六である。この商店街は正式には、天神橋筋商店街という名前が付けられているが、堂島川にかかる天神橋のたもとの一丁目から北端の七丁目まで続く。端から端まで2.5キロメートルあり、地元の人は3キロと、少しサバを読んで日本一を強調する。 |
模型からラジオ少年に |
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模型の次はラジオ。鉱石ラジオから始まって電気蓄音機の組み立てまで、いろいろな経験を重ね、知識を増やしていった。銅線をクモの巣状のベークライトに巻き付けたものを二枚用意し、これを少し間隔を空けて向かい合わせに配置する。 |
中学時代の電気知識が後に生きる |
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中学時代は頭が海綿体のようにあらゆる知識を吸収してしまう。このときにいろいろなものに取り組み、経験を積み重ねることが大切だ。 |