
関大一高の前身は関西甲種商業 |
|
中学校に入学できれば押し出しで大学まで。もちろん、内部での試験はあるが、90パーセントは合格するようになっていた。したがって、今の子供のように受験地獄といったものは味わったことがない。 |
初め男女共学、男子校から、また共学 |
|
学校設立当初から昭和29年までは男女共学であったが、それ以降は男子専門の学校になってしまった。毎年十数名の女子学生がいたそうだが、私たちのクラスにも3人の女子学生がおり、紅三点の貴重な存在になっていた。 |
野球。春準優勝、夏八強で有名に |
|
学業成績一辺倒から、スポーツ推薦枠も復活させ、スポーツの強い学校へと変身しているようだ。 |
柔道をやめ、ヨットに専念 |
|
高校ではヨットに入部した。動機は海が好きだったこともあるが、ボートは自分で漕がないと走らないのに対して、ヨットは風の力で走るので身体が楽であろうと、思ったからだ。それに真冬がシーズンオフで練習がお休みになることもよかった。 |
楽だと思ったヨット、期待はずれ |
|
ヨットが楽だと思ったのは、こちらの勝手な想像で、風がないときは重しとして、風下に体を移して舟がいつも風下側に15度ほど傾くようにバランスを取らなければならないし、風が強くなれば舟の外に体を反らし傾きすぎるのを防がなければならない。 |
太平洋横断より辛かった一高ヨットの練習 |
|
ウィークデーは授業があるので、練習ができないため、土曜日の午後と日曜日にする。日曜日は朝早くから西宮浜に出かけなければならない。夏休みはシーズンでもあり、必ず合宿練習が行われた。その練習の厳しさは言葉で言い尽くせないほどである。 |
|
いま活躍しているのはこの人のおかげです オレを世に出してくれた師匠
|
|
堀江謙一 ●ほりえ・けんいち 昭和13年大阪府生まれ。32年関西大学第一高等学校卒。家業の自動車修理工場を手伝いながら、37年世界初のヨットによる単独太平洋横断に成功。38年第10回菊池寛賞受賞。39年イタリア海の勇者受賞。このほか数々のヨットによる冒険に成功。昨年(平成元年)8月に「太平洋ひとりぼっち」の復路横断に成功した。 |
還暦記念? リサイクルヨットで太平洋横断 |
|
平成11年3月29日、米国サンフランシスコを一艘のヨットが出航した。堀江謙一さんが乗っているリサイクルヨットMALT’SマーメイドU号である。 |
「殺される」大学ヨット部に進まず |
|
太平洋を一人で横断するより、関大一高のヨット部の練習のほうがつらかった。この一言で練習の厳しさが判ってもらえるだろう。 |
夏の合宿で日射病、3日意識戻らず |
|
夏休みの合宿練習のときである。かんかん照りの中、朝から連続して練習していた。 |
長尾宏著『 海に、ヨットに魅せられて』(この素晴らしさを子供たちに教えるぞ!)− 川柳から眺めた合宿生活 − |
|
第七回国民体育大会(仙台)に出場 |
|
苦しいことばかりではない。ときには夜のクルージングに連れていってもらうことがあった。舟がするすると海面を滑るように走ると、波間にきらきら光るものが見えてきた。夜光虫である。消えたと思えば別の発光体が出現する。いつまで見ていても飽きない。海の男でなければ味わうことの出来ないロマンである。 |
塩竃町長の「せんすそくん」に大笑い |
|
開会式には高松宮・同妃両殿下出席された。開催地である塩竃町長の「せんすそくん」(選手諸君・大阪の人間にはそのように聞こえた)で始まった東北弁丸出しの歓迎挨拶には思わず吹き出してしまった。 |
変わるヨット、セール、船体 |
|
もちろん今はディンギーも競技艇としては過去のものになってしまっている。 |
親友、岡本との永遠の別れ |
|
昭和28年度卒・第五期生のヨット部員として名簿には横山 敬、松原 博仁、中田
昌史、松竹 毅、伊東 真二、岡本 明の名前がある。山崎勝通もいたはずだが名簿にはない。 |
冬のオフにはアイススケート |
|
12月から2月末まではヨットのシーズンオフとなる。これとは対照的にアイススケートはシーズンインとなる。 |
右、左。二度も眉を縫う負傷 |
|
アイススケートは普通は危険の少ないフィギュアから始めるのだが、私の場合はいきなりホッケーシューズから始めた。フィギュアなら、後ろ向き(バック)で滑っていて転びかけても、ギザギザがブレーキを掛けてくれるので危険なことはない。 |
朝日アリーナの特別割引? |
|
スケート場は中之島にあった。今はフェスティバルホールになっているところが朝日アリーナである。ここでは関西大学のホッケーが練習をしていた。そんな関係で従業員の女の子とも顔見知りだった。 |
爽快だった六甲山頂の天然リンク |
|
真冬になると六甲山頂に出かけたこともある。ケーブルで山頂まで登り、三国池でまず滑る。室内リンクのようにフェンスがなく、持つところもないので、少し恐ろしい気もするが、青天井の見晴らしの良い天然リンクで滑る味はまた格別である。 |
「ダンスパーティ」で資金稼ぎ |
|
フォックストロット、スロー、ワルツ、タンゴ、ルンバ、・・・いわゆる社交ダンスが私たちが高校の高学年のときに流行した。関西大学のヨット部でもヨットを買う資金集めのためにダンスパーティ開いたことがある。 |
「四日で社交ダンスを教えて」 |
|
ダンスパーティのチケットを売り捌くには、自分がダンスができないと話にもならない。しかし、レッスン場はもちろん高校生は入場禁止となっている。 |
ファッションに心惹かれる |
|
親友、おしゃれだった岡本明君に影響されたのかも知れない。男のファッションに大変興味を持っていた。彼は北九州の小倉に大きな家を建てた後、昭和58年に亡くなってしまった。 |
憧れだった服飾評論家 |
|
その当時からメンズファッション雑誌の代表的な存在だった「男子専科」を購読していた。 |
ファッション記者に方向転換 |
|
あるとき、アメリカのメンズウエアという雑誌が目に止まった。もちろん英語での記述であるが、ファッショントレンドについて詳しい解説がなされていた。しかも、イラスト付きで非常に分かりやすく書かれてあった。 |
Fジャーナリスト一筋に生きる |
|
大学の専攻を決めるときに新聞学科を選んだ。ファッションジャーナリストへの第一歩といえるだろう。 |
集団勉強で試験を乗り切る |
|
平常は遊んでいても、試験ともなれば学生の本分である勉強に専念しなければならない。一人で勉強することもあったが、集団で勉強することのほうが多かった。試験の期間中だれかの家に4、5人集まって一緒に合宿勉強するのである。 |
頭でなく、筋肉に覚えさせる |
|
勉強方法にも工夫を凝らした。ひとつは高校の保健・体育の斎藤先生が唱える理論を実行した。筋肉に訴えて記憶する方法である。。「頭で考えようとするからすぐに忘れてしまうのだ。大切なことはメモに何回か書いてみる。筋肉を通して記憶するようにすれば、頭が忘れていても、ペンを持つと自然に思い出してくれる」という。 |