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昭和25年〜28年(高校時代)

関大一高の前身は関西甲種商業

中学校に入学できれば押し出しで大学まで。もちろん、内部での試験はあるが、90パーセントは合格するようになっていた。したがって、今の子供のように受験地獄といったものは味わったことがない。

関大一中からすんなりと、関西大学付属第一高等学校に入学できた。校舎は中学と同じ天六にあった。通学路も同じなら、先生の顔もだいたい判っているので、高校に進学した喜び、感動は少なかった。

別の中学校から試験を受けて入学してきたものの方が、明らかに好奇心に満ちたフレッシュな雰囲気を持っていた。一中からの進学組は「何でも知っているぞ」といわんばかりの古狸的な存在だった。

今の千里山に新しい校舎が完成し、引っ越ししたのは、私たちが卒業したすぐ後の昭和28年の秋のことらしい。その一年前に学校名から「付属」が抜けて、関西大学第一高等学校に変わった。

新校舎建設の寄付金だけはバッチリとられ、大学へ通うときに車窓から見える丘の上の建物が新校舎だと知らさただけである。

関大一高の前身、関西甲種商業学校は大正2年(1913年)に設立され、昭和24年(1949年)に関西大学付属第一高等学校と名称を変え六・三・三制にそった体制になった。

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初め男女共学、男子校から、また共学

学校設立当初から昭和29年までは男女共学であったが、それ以降は男子専門の学校になってしまった。毎年十数名の女子学生がいたそうだが、私たちのクラスにも3人の女子学生がおり、紅三点の貴重な存在になっていた。

私たちは昭和28年の卒業で第五期生となるが、次の六期生は女子が1人となり紅一点では居心地がよくなかったのか、途中で転校してしまったらしく、同窓会名簿では昭和28年卒の第五期生で女子の名前が途切れている。

少子化の影響が学校経営をも揺るがす大きな問題になることを予測して、少しでもその影響を和らげようと、最近になって女子生徒にも門戸を広げたそうである。(関大一中が、先行して男女共学になっていた)

校風は今のように学業レベルの高い、坊ちゃん学校ではなく、関西大学の気風を引いた、弊衣破帽とまではいわないが、バンカラ気風に充ちていた。
制服もわれわれの時代の黒の詰め襟から、グレーの国民服スタイル、最近のブレザーコートへと変遷している。

黒色の帽子には二本の白線が入っていた。一高なのになぜ二本線なのか、一度聞いてみたいと思いながら数十年経ってしまった。いまだに解けぬナゾとなっている。

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野球。春準優勝、夏八強で有名に

学業成績一辺倒から、スポーツ推薦枠も復活させ、スポーツの強い学校へと変身しているようだ。

平成10年の春の選抜野球大会では、まさかといわれながらの準優勝、夏の大会でもベストエイトに残った。サッカー、拳法、アメリカンフットボールも強くなった。昔の面影が少し戻ってきた感じである。

同窓会に出席すると挨拶の中に「関大一高の校風を引き継いでほしい」という話しが出てくる。独得の校風を伝えるには卒業生の子弟が一人でも多くballbut入学することが望ましい。
しかし、これまでの一高では入学試験のレベルが高すぎて、その難関を突破すとは至難の業とされてた。スポーツ推薦を初めとするいろいろな推薦枠が増えると、二代、三代と関大一高へ入学させられる可能性が高くなったといえよう。

しかし、スポーツが強くなるとOB会や同窓会の負担が多くなる。地区の予選を勝ち抜いてくると、地区代表として全国大会に出場することになる。現代のスポーツはある面では装備戦の趣がある。持てる技術をフルに引き出すには、、性能の優れたウェア、靴、道具が必要だといわれる。

宿泊、旅費、応援の費用と、算盤を弾いてみると、すぐに1,000万を越してしまう。部費だけでは到底賄いきれない。学校も少子高齢化の影響を受けて予算面では厳しい。
同窓生の浄財提供ということになり、一口ウン千円、何口以上として、振替用紙が送られてくる。
「勝ってうれしい花一万円」、とはいうものの「負けて悔しい、花一匁」。
出るからには勝って欲しいし、そうかといって、それぞれの運動部からの寄付に応じていると家計がパンクしてしまう。

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柔道をやめ、ヨットに専念

高校ではヨットに入部した。動機は海が好きだったこともあるが、ボートは自分で漕がないと走らないのに対して、ヨットは風の力で走るので身体が楽であろうと、思ったからだ。それに真冬がシーズンオフで練習がお休みになることもよかった。

シーズンオフには柔道の練習もできると甘く考えていた。
戦勝国であるアメリカの意向で軍国主義につながる柔道、剣道、空手などの武道は、私が高校に入学するまでは禁止されていたが、正式の部ではなく、同好会としては暗黙のうちに認められていた。その規制が解除されるというニュースも伝わっていた。事実すぐに正式の体育会に所属する「部」に昇格したようだ。

学校に柔道の練習をする道場がないので、曾根崎警察署、大淀署、ニュージャパンなどの道場を借りての練習だった。
同期のものはほとんどが初段となり、二段を獲得したものもいたが、私はずぼらをして昇段試験をすっぽかし、とうとう段位をもらうチャンスに恵まれなかった。初段は一級三人と対戦judouして勝てば初段位がもらえる。

二段は初段を三人倒せばよい。部員のレベルから推察すると、自分の実力は初段と二段の間ぐらいだと思っていたが、いつまでも白帯のままだった。
関大と合同練習をすることも多く、体力のある猛者を相手に練習するので、上達は早かった。
レクレーションに行くのも、大學と同じだった。吉野へ花見に行ったとき、初めて酒を口にした。自分の適量も知らずに飲み過ぎ、前後不覚になり、大學の大先輩に背負われて、家まで送ってもらった。いまなら高校生の飲酒として大問題になるところだ。

しかし、ヨットと柔道は所詮両立するものではなく、ヨットに専念することにした。

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楽だと思ったヨット、期待はずれ

ヨットが楽だと思ったのは、こちらの勝手な想像で、風がないときは重しとして、風下に体を移して舟がいつも風下側に15度ほど傾くようにバランスを取らなければならないし、風が強くなれば舟の外に体を反らし傾きすぎるのを防がなければならない。

これを「ヒール」と呼んでいたが、スキッパー(艇長)からは「ヒール」、「ヒール」と声がかかる。 強風になると、その声は「もっと反れ」「もっと反れ」に変わる。無理を承知でいうのだから、下級生のクルーはたまったものではない。夜になると、腹筋あたりが痛くてたまらない。

クルーの仕事はまだまだある。マストを支えるステイと呼ばれるワイヤーには、風の方向を見定める20センチほどの長さの赤い糸が付けられている。別に赤と決まったことではないが、青空のときも、曇天のときも赤は見やすいので、皆が使うようになったのだろう。夕焼けで空が赤くなったときは見えにくいかも知れないが、それ以外は青、白、グレーのバックで見るケースが多い。

この赤い糸がよくワイヤーに絡んで役にたたなくなる。これを風になびくように直さなければならない。直ったと思えば、また絡む、また直す、の繰り返しである。

当時は木造舟だったのでどこからともなく海水が入ってくる。「ベラ」という塵取りのような格好をした道具で海水を元の海に戻してやる。ワッチといって前方や近くに舟がいないかも絶えず注意しておかねばならない。

追い風になると、水の抵抗を少しでも減らすためにセンターボード(横流れ防止のために水中に突き出ているボードで木製と鉄製のものがあった)を引き上げる作業などもあり、一瞬の暇もないほどの忙しさである。

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太平洋横断より辛かった一高ヨットの練習

ウィークデーは授業があるので、練習ができないため、土曜日の午後と日曜日にする。日曜日は朝早くから西宮浜に出かけなければならない。夏休みはシーズンでもあり、必ず合宿練習が行われた。その練習の厳しさは言葉で言い尽くせないほどである。

「太平洋ひとりぼっち」の堀江謙一君は私の4年後輩になるが、彼の言葉を借りるyochtcと、太平洋を横断するより、関大一高ヨット部の練習のほうが厳しかったという。

一体どんな練習をしていたのか。初めに堀江謙一氏と、関西大学ヨット部で輝かしい成績を上げ、卒業後、関大一高に奉職してヨット部顧問に就任、校長まで昇り詰めた長尾宏氏の関わりを知ってもらうために雑誌「ブルドッグ(平成2年4月号)」に掲載された記事を転載させてもらった。

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堀江謙一の「おれの師匠」

いま活躍しているのはこの人のおかげです

オレを世に出してくれた師匠
ひ弱はだったボクに
ヨットを通じて人生への自信を持たせてくれた
あの先輩


去年(平成元年)の4月16日かな、サンフランシスコ港を出て、ボクの地元の西宮マリーナにゴールインしたのが、8月30日。137日間もあんなちっちゃな(全長2.8メートル)ヨットで太平洋を航海してたけど、その間に美空ひばりさんが亡くなったり、総理大臣も竹下、宇野、海部と三人も変わっちゃってね。「僕が日本にいないと政局が安定しない」なんて思った。(笑い))

でもね、今回の航海でも思ったけど、皆さんは50歳にもなってよくやるよ、厳しいだろうとか、一人ぼっちでさびしいだろうっていうけど、高校のときのヨット部の練習と比較したら全然ラクでしたね。
大学生の先輩、長尾先生にはだいぶしぼられたからなあ。

初めからヨットに放り込まれ、
実践で鍛えあげられた

長尾先生。今もボクの母校関西大学第一高等学校の校長先生をやっているんですが、ボクが高校に入学したときは、たしか関大の三回生だったかな。ヨット部に在籍してて、だいぶシゴかれたんですよ。練習でミスをすると「あの灯台まで走れッ!」って。

当時のヨット部って、野球と違ってタマ拾いのようなことはなく、もうどんどん乗せてくれる。だからシンドイですね。風が強くなると体力が必要だし、カラダは濡れる。ヨットパーカーなんかないし、冬なんか本当寒かった。やたらと練習時間も長いしね。

長尾先生たち大学生の先輩には、いつも叱咤激励された。よくね「おまえたちは幸せだぞ!」って、どうしてかというと「こんなにエネルギーを燃やすことって、一生に何度もない。この練習に耐えれば何でもできるぞ!」ってことなんです。

それに、ボクには目標があった。高校に入学してヨット部に入ったわけだけど、卒業するまでは絶対にヨットはやめないでおこうとね。退部したら自分が自分に負けてしまうぞって。
だいたい当時のボクって、ひ弱な少年だったんですよ。ご飯を食べるにしても他の人の倍はかかる。高校時代なんか、昼食が終わると仲間は校庭でスモウなどして遊んでいる。元気にね。しかし、ボクは仲間が遊んでいる姿をジーッと見ているだけ。教室にいてもカラダがしんどいから、寝てた。

そんな少年だから、なんかひとつだけでもまっとうしなければダメだってね。長尾先生は、僕が脆弱なヤツだってことは知ってたかどうか知らないが、「この瞬間、瞬間をしっかりやっとけよ。きっと将来は役に立つぞ」って、よくいってくれましたね。当時はその意味が理解できなかったと思うけど、いま思うとあのときの叱咤激励が、現在のボクに役立っているんだね。

どんなことにも耐えられる

気力と体力をたたき込まれた

だから、高校三年間にボクのヨットライフの基礎はできたと思う。たとえばね、27年前にボクは「太平洋ひとりぼっち」の航海をやった。そのときだってね。つらいなんてまったく思わなかった。

高校時代の練習から見ると、はるかにラクなような気がしたのね。実際は、だれもヨットで太平洋を横断するなんて考えていなかったことをやったんだから、並大抵のことではなかったけど、頭ん中で「オレは高校三年間、あの練習に耐えたんだ」と思うと、本当につらいなんて考えなかった。

結局ね、ボクは今まで27年前の単独太平洋横断(昭和37年)にはじまって、単独無寄港世界一周新記録(39年)、世界初の地球縦回り一周(57年)、それに世界初のソーラーボートによる太平洋単独横断(60年)などに挑戦し、compas成功してきた。それもこれも、すべては高校三年間、ヨットに青春を燃焼さたからだと思うんですよ。

長尾先生に「お前たちは幸せだ!」「この練習に耐えればなんでもできるとぞ!」
「この瞬間、瞬間をしっかりやっておけよ!」・・・・もう30年も前のことだけど、ボクの耳にタコができるくらいしっかりと残っていますね。

堀江謙一

●ほりえ・けんいち 昭和13年大阪府生まれ。32年関西大学第一高等学校卒。家業の自動車修理工場を手伝いながら、37年世界初のヨットによる単独太平洋横断に成功。38年第10回菊池寛賞受賞。39年イタリア海の勇者受賞。このほか数々のヨットによる冒険に成功。昨年(平成元年)8月に「太平洋ひとりぼっち」の復路横断に成功した。
【月刊誌「ブルドッグ平成2年4月号」第22号より抜粋】

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還暦記念? リサイクルヨットで太平洋横断

平成11年3月29日、米国サンフランシスコを一艘のヨットが出航した。堀江謙一さんが乗っているリサイクルヨットMALT’SマーメイドU号である。
彼が航海を企画立案するとき、必ず時代受けするテーマが付いている。

「エコロジー」をテーマにしたヨットの船体には、使用済みのステンレス製ビア樽528個、セールやデッキにはペットボトルの再生素材を使ったそうだ。全長10メートル、巾5.3メートルの双胴船。このような船体が二つある舟をカタマランと言うが、ビア樽で作ったので、「タルマラン」の愛称が付けられた。

セールやデッキにペットボトルの再生素材をつかうのは理解できるが、船体にビア樽を持ってくるのは、どんなものかと疑問に思った。浮力は充分確保できるが、抵抗が多くて水を切って走るというヨットに一番大切な能力に欠ける点が心配だった。その欠点をあえて知りながら新しいことに挑戦して行くところが、彼の冒険家としての所以であり、偉いところでもある。

建造を担当した鈴木造船所と何回も試行錯誤をくり返し、樽を一つ一つを入念に溶接し、補強も入れて総排水量5トンという前代未聞のヨットが出来上がった。航海中は21メガ帯のアマチュア無線で航行状態を毎日知らせてきていたが、この電源には無公害の風力発電機が使われていた。

7月8日、サンフランシスコを出て102日、予定よりも少し早くゴールの明石海峡大橋に無事到着した。この冒険を機に関大一高ヨット部OB会の念願である国民栄誉賞が貰えれば言うことはないのだが。

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「殺される」大学ヨット部に進まず

太平洋を一人で横断するより、関大一高のヨット部の練習のほうがつらかった。この一言で練習の厳しさが判ってもらえるだろう。

高校だけでは予算も乏しく、ろくに舟も買えないので、大学のポンコツを借りて練習したり、ときには合同練習もするし、関西大学ヨット部は、一高のヨット部出身者が多数派を占めているので、OBの資格で練習を見にきてくれた。

大学ではいじめられるほうの一回生でも、高校ではOB、遠慮会釈のない怒声、罵声がとぶ。普通一高のヨット部員は大学に進学しても、ヨット部に入ることが多い。3年間の練習の成果は相当なもので、大学に入学してから初めてヨット部に入部したものとは、専門用語、操船技術から、レースの展開方法、ルールにいたるまで、かなり有利な立場にあるからだ。

ちなみに当時近畿地区を例に取ると、高校でヨット部があるのは、大阪府では当、関大一高、兵庫県では関西学院高等部だけだった。
関西学院でも高等部から連続してヨットをしていた人が、レースで活躍していた。

ところが昭和28年卒の第5期生のわれわれは、あまりにも練習が厳しかったのと、先輩の威力のあるところをイヤというほど見せ付けられていたので、誰がいうとなく「このままで大学のヨット部に入ると、殺されてしまうぞ?」という話が広がり、全員が怖じ気づいてヨット部に入部しなかった。

一部のものが断るに断れず、入部をしたが、途中で尻を割ってしまったということだ。
これは前代未聞の出来事だったらしく、いまだに語り種になっている。
早く一人前のヨットマンにしてやろうという親心からで、悪意のないことは充分判るが、人間の限界に迫るド迫力は、恐怖心が先に立ち、正常な判断を狂わせてしanchorまう。

関西大学ヨット部OBセーリングクラブの名簿を見ると昭和32年卒の欄がすっぽり抜け落ちているので、目を通すたびに申し分けないことをしたとの思いが走る。

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夏の合宿で日射病、3日意識戻らず

夏休みの合宿練習のときである。かんかん照りの中、朝から連続して練習していた。
汗は瀧のように流れ落ち、喉はカラカラ。水分を補給するには陸に舟を寄せなければならない。もう少しの辛抱だと思っているうちに、頭がポーッとなり気を失ってしまった。
日射病だ。

「大丈夫か」「どうしたんや」という声はかすかに聞こえてくるが、返事ができない。バタバタという音をたてて走る三輪タクシーを呼んで、西宮から一番近い尼崎の吉田隆郎君の家に運び込んでもらった。うわごとばかりいって、意識がなかなか戻らず、回りの人を心配させたが、3日間寝させてもらって回復した。

もう少しヨット部の状態を知ってもらうため、長尾先生の著書から引用させてもらう。先生は何よりもヨットが好きで、ヨットができる職場ということで、関大一高の教員になられ、関西大学第一中学校、関西大学第一高等学校の校長まで昇り詰められた人である。

長尾宏氏はヨットの一年先輩になる。関大一高の先生になってからずっとヨット部の顧問をされていた功労者の一人で、何人もの優秀なヨットマンを育て上げた。

平成10年3月に勇退されたのをきっかけに、「海に、ヨットに魅せられて」と題する本を上梓された。関西大学ヨット部の合宿風景をユーモアに富んだ文章と川柳で活写している。一高の合宿もここに書かれたとおりである。その一部を紹介させてもらうことにした。

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長尾宏著

『 海に、ヨットに魅せられて』

(この素晴らしさを子供たちに教えるぞ!)
− 川柳から眺めた合宿生活 −


カラスのような先輩、上級生

アホ、アホ、アホと烏みたいに罵る先輩、上級生。こりゃどうなっているのと思いながらも、新入生諸君は合宿練習を重ねるごとにヨットの虜にされてしまう。
昔も今も、合宿練習は西宮ヨットハーバーで行われる。

きんちゃくが でかい顔する 西宮

西宮ヨットハーバーといえば聞こえはいいが、ここは、ハイカラな横文字とはまるで反対の薄汚い巾着漁船がわがもの顔に出入りする荒れた漁港みたいな場所である。

その港に、道路ひとつ隔てて合宿所があった。この場所合宿所も学校の建物ではなく、H氏のしもた屋の一部を間借りしていたものである。

失礼を顧みずリアルに表現させていただくなら、バラックみたいな合宿所である。広さ15畳くらい。床に一部だけ敷かれ、窓ガラスの破れたところにベニヤ板がガラスの代わりをつとめている。天井の梁からつまらなさそうにが下がった裸電球、隅には、ティラーやベラ、アンカーにロープ類がぎっしり置かれている。

そんな建物に乞食のような、いや乞食よりも粗末な服装の若い大勢の男が出たり入ったりしている。

むさいのが 出たり入ったり 合宿所

タコ部屋に 度々間違えられる 合宿所

いや、まったく風采が漁師たちと間違えられても無理はない。その合宿所の周りだが。

堤防も 道路もペンキで、べーたべた

どういうものか、ヨットマンは落書きがお好きらしい。関西大学、大阪大学、近畿大学、大阪市立大学など、この付近に合宿所を持つ全ての大学の名前が、防潮堤といわず道路といわず、いたるところにペンキで書かれている。

「眠れないのは今夜だけ」

灯ともし頃になると肩に一週間分の荷物を担いだ部員たちが、この合宿所に集まってくる。毎年4月の新人合宿は最も参加人が多く、その後は、ふるいにかけたように減ってゆく。無理もない。

日曜は 休息日でなく 窮息日

毎日曜日の練習は朝の8時からだ。朝寝をしたり、彼女とデートしたりする楽しみは諦めなければならない。その上、夕方の6時までメガホンで怒鳴られどうしである。

割らぬ奴 よほど惚れたか 意地っ張り

4年間尻を割らずにヨットを続ける奴は、余程の意地っ張りか、ヨットに惚れ込んだ奴であろう。
明日からの練習の準備が終わると、さっそく近くの貸しふとん屋に、今夜から寝るふとんを借りに行く。1日50円也。その安い値段にふさわしく、

ふとん屋は 匂いや垢まで サービスし

薄汚れた、湿っぽいシロモノである。昨日までどこかの飯場へ、貸し出されていたものだろう・・・・。ときにはダニや虱までついてくる。
近所の大衆食堂で夕食とすませ、うちそろって銭湯へ行く。明日からのうち合わせが終わると早10時。消灯。待ち構えていたダニと蚊が総攻撃を開始する。

「号令の速射砲」

朝。発動機船のポンポンポンポンという快調響きが夢の中で聞こえる。clocka
「はよ起きんかいな」と言うより早く、当番の上級生が枕を蹴飛ばしてまわる。

みともなさ、立った○○○を 手で押さえ

パンツの上からピンと立った○○○を手で押さえ、ふとんの上でぼゃっと座りこんでいる奴もいる。
5時である。ここも顔も洗わず浜に飛び出す。朝もやをついてランニング。
柔軟体操、腕立て伏せ、腹筋運動。早くも泣き始めた腹の虫をなだめすかしながらフィッティング、朝食前の港内フリー練習開始。この時間は大抵陸風で微風だ。

雁首を 引っ込めてろと スキッパー

決まってクルーはスキッパーから「雁首!」と怒鳴られるのである。そこで、クルーは

カメの子の ように首だけ きょうろきょろ

このような状態が長く続いていると

舟を漕ぎ 舟の上で 叱られる

つい、うとうととなり、大目玉を食らうのである。

八時前 風より煙が 気にかかり

やがて、8時前、このころになると空腹で目が回りそうだ。気になるのは、風より合宿所の煙突の煙だ。煙突から煙かまだ立ち上っているようでは、当分めしにありつけない(当時はまだプロパンガスはなく、めしはかまどを使って薪で炊いていた)。
(中略)

午前中はマーク回航とスタート練習。監督の号令に従って厳しい基本練習だ。笛とメガホンの号令が矢継ぎ早にとんでくる。
「ラフィング」、「クロスイッパイ」、「タッキング」、「モットソレー」、「コラー」、「アホンダラー」、まるで速射砲だ。速射砲は一門だけではない。スキッパーが追い討ちをかけてくる。
「ジブシメー」、「カザミ」、「センター」、「ギャクヒール」、「ボケー」、「ウエスカポールヨーイセー」、「ナントカカントカ」、それらを正確に判断して、新米クルーはこま鼠のように動く。

マークぎわ ジブに風入れ 蹴飛ばされ

というようなことになる。これがレースのときだと、ティラーを握るスキッパーに秒読みから他艇の現在位置、風の振れから潮の流れまで報告するのがクルーの責任だ。

名クルー 耳をつったて 目を皿に

クルーたるもの頭をフル回転させて、一秒たりともぼんやりすることはできない。まかり間違って、他の艇と接触しようものなら、練習のときといえども許されない。罰則として、灯台まで一キロ近い防波堤上をスキッパーと一緒に裸足では知らされるハメになる。

灯台へ とぼとぼとぼと 二人駆け

練習のときの先輩、上級生ほど怖いものがない。

スキッパー クルーを怒鳴らな 損のよう

口よりも 手が先に飛ぶ ふねの上

クルーを怒鳴ることはあってもクルーの仕事に手を貸してくれることは滅多にない。ヨットは海の上で自然を相手の厳しい競技である。人間の甘ったるいい同情やなれ合いは、大自然には通用しない。

スキッパーとクルーのチームワークの歯車が一つずれても、命にかかわることだってある。その為にも、スキッパーは心をオニにして、自分のクルーを鍛えるのである。
(以上、長尾宏氏の著書より)

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第七回国民体育大会(仙台)に出場

苦しいことばかりではない。ときには夜のクルージングに連れていってもらうことがあった。舟がするすると海面を滑るように走ると、波間にきらきら光るものが見えてきた。夜光虫である。消えたと思えば別の発光体が出現する。いつまで見ていても飽きない。海の男でなければ味わうことの出来ないロマンである。

何よりも期待していたのは国民体育大会への出場である。大阪府の高校でヨット部があるのは関大一高だけである。競争することなく大阪代表となる。三年生になるまでがんばっていると、国体選手になれる。

私たちは昭和27年、第7回夏期国民体育大会(仙台・松島湾)に出場した。湾内には大小無数の島が散在し、風光明媚で知られるところだが、ヨットレースには、必ずしも良いところとはいない。

島が多いので潮の流れが複雑で、風向も定まらない。ことに、西宮湾の強風に慣れているわれわれにとって、池のような静かなところでは、練習の成果が充分に発揮できない。
水深が浅く、藻が多く絶えずこれを取り除かないと舟のスピードが落ちてしまう。これは初めての経験である。スタート前に渡された竹竿の先に針金をつけた道具で舟のバウに引っかかった藻を取り外すのだが、クルーの仕事が一つ増える。

前年に国体を開催した広島などは揃えの制服にフェルトのワッペンをつけて格好が良かったのに、われわれは、てんでバラバラ、いつもの乞食スタイルである。同行してくれた大阪府の職員から渡されたマークは人絹の薄っぺらな布にマークがプリントしてあるお粗末なものだった。

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塩竃町長の「せんすそくん」に大笑い

開会式には高松宮・同妃両殿下出席された。開催地である塩竃町長の「せんすそくん」(選手諸君・大阪の人間にはそのように聞こえた)で始まった東北弁丸出しの歓迎挨拶には思わず吹き出してしまった。
東北弁を馬鹿にした行為ではない。当時は交通機関も、情報網も未発達で、遠く離れた地域の言葉を聞くチャンスには、恵まれていなかった。
反対にわれわれ大阪の人間が、関東地方で「大阪弁」を笑われたこともあった。

選手証を見せると土産物は何割か値引きしてくれる。近くへ出かける交通機関は無料などの特権が与えられ、ちょっぴりエリート意識を感じさせてもらった。

目標としていた3位以内の入賞は逃し、4位となったが、不利な条件を克服してのレースではまずまずの成績だったと思う。

高校生活最後の良い想い出になった。最近、電話で国体の話しをしているときに思い出したが、親友の伊東真二君が盲腸炎を患い、せっかくスナイプ級の選手に選ばれたのに、試合に出られなかった。3年間の苦労も水の泡、幸い手術は無事に終わり、国体競技が終わる頃には元気になっていたが、ご本人にとっては残念至極だったと思う。

競技は2枚セールのスナイプ級とAクラス・ディンギーの2艇種に分かれており、私が乗っていたのは、Aクラスディンギーである。ボートにセールをつけた単純な構造のもので、ヨットの原形といわれている。

何を基準にどちらに乗るかを決めるのか知らないが、入部したときに「お前はスナイプ」、「お前はディンギーや」という先輩の一言で運命が決まってしまう。
基本的な操船技術には共通したものがあるが、セールの数もAクラスディンギーは1枚、スナイプは2枚と違うし、艇の長さも構造も違っているので、あれに乗ったり、これに乗ったりはできない。

風上に向かってヨットを進めるときタッキングを繰り返して、ジグザグ型のコースをとらなればならないが、ディンギーの場合、ガンターというロープを引っ張ってセールの端をマストの風下側に入れ変える作業をするだけで、クルーの仕事は終わるが、スナイプの場合はジブと呼ばれる小さいセールに裏風を入れて、舟の方向転換を助ける作業をしなければならなない。

高校時代にディンギー乗りと決められると、大学でもディンギーに乗せられる。レースともなれば、セールの張り具合、ティラーの微妙な操り方、ヒールのさせ方、風上に対して昇る角度などが、成績に影響を及ぼしてくる。そのため、今日はディンギー、明日はスナイプと器用に乗り回す訳にはいかない。一つのことに集中し、それを長時間繰り返すことにより、職人的な操船技術が身に付いてくる。

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変わるヨット、セール、船体

もちろん今はディンギーも競技艇としては過去のものになってしまっている。
舟の素材も木からFRP(ガラス繊維強化プラスチックス)に変わり、軽くて丈夫になった。水漏れもない。チン(沈没)をしても簡単に復原できる。

面倒なペンキ塗り替えの手間が省かれる。われわれの時代はシーズンオフになると、トーチバーナーでペンキを柔らかくして削ぎ取り、パテを詰め替えて、ペンキを塗り直す。この手入れを怠ると次のシーズンは走らない舟になってしまう。

セールも木綿から化学繊維になった。綿は水を吸うので海水に浸かるとやたらに重くなるし、真水で塩抜きしなければカビが生えたり、腐って破れやすくなる。化学繊維は水を吸わないし、海水に侵されることもない。軽く、薄く、しかも丈夫なセールが誕生した。昔と比べるとすべてが、イージーケアとなった。

ラダー(舵)も良く効くようになった。木造船時代に技術を習得したものが、現代のプラスチック船を走らせると、本人は自覚していないのに、粗っぽい操船をしてるようだ。

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親友、岡本との永遠の別れ

昭和28年度卒・第五期生のヨット部員として名簿には横山 敬、松原 博仁、中田 昌史、松竹 毅、伊東 真二、岡本 明の名前がある。山崎勝通もいたはずだが名簿にはない。

このうち特に親しくしていたのは岡本と伊東の二人だが、岡本は昭和58年5月26日に、肺ガンのため帰らぬ人になってしまった。亡くなる少し前に九州に出張する機会があったので、北九州市小倉区の病院に見舞いに行った。意識はなく、ガンは肺から腰に転移し、次第に全身を蝕んでいった。

大阪に帰って伊東に病状を伝えると、意識がなくても、一度会いに行ってくると出かけた。日を置かず奥さんから残念な結果の知らせがあった。
思い過ごしかも知れないが、親友の2人が会いに来てくれたのを見極めて、旅立っていったように思えてならない。

岡本は兄と共に大阪の西淀川で鉛製品を作っていた。空気銃の弾、散弾銃の弾などである。西淀川は工場地帯で空気汚染がひどく、公害病患者も多かった。
家も、工場も西淀にあるのは健康に良くないと心配していたが、その内に北九州に職場を移転するようになったと聴き、一安心した。

北九州では大成功をし大きな家を建てた。一度見るからに豪華なアメリカ車に乗って大阪へやってきたことがある。友人がこのように成功してくれるのは嬉しいことだ。
仲良し3人組の中では一番背も高く、丈夫な体つきをしていた。

ある時、奥さんが体調を崩し病院へ連れていった。ついでにとレントゲンで胸の検査したところ、思いも寄らぬ肺ガンが見つかり、それも可成り進行したものだということで、即入院となった。
同年輩、それも親友が亡くなるのは、とても辛く、悲しく、ショックの大きなものである。

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冬のオフにはアイススケート

12月から2月末まではヨットのシーズンオフとなる。これとは対照的にアイススケートはシーズンインとなる。
こんな理由からアイススケートにのめり込んでしまった。

スケートシskshooseューズにはフィギュア用、アイスホッケー用、スピードスケート用の3つの種類がある。フィギュアシューズは滑りながら回転したり、飛び上がったりする演技用のもので、刃の先端部分にキザギザがついており、ブレーキの役割も果たしてくれる。

スピードシューズはスピードが出るように、刃が薄く長いものになっている。
ホッケーシューズは文字どおりアイスホッケー用のもので、フィギュアのようにブレーキ装置がない。スピードのように長くないが、ある程度のスピードが出て、方向転換も自由にできる設計になっている。
ブレーキを掛けるときは、エッジを立てて氷を削り取るようにする。

ホッケーシューズは神戸は三宮高架下の商店街に、安くて良いものはあるという噂を信じて神戸まで出かけた。当時の製鉄技術のレベルはまだ低く、刃の摩滅が早く、少し滑るとオイルストーンで研いでやらなければならなかった。

エッジが効いていないとブレーキが掛かりにくくなるので、絶えず研ぐようにしなければならない。左右の刃を合わせると薄い紙がスパッと切れるくらい鋭敏にしておく。

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右、左。二度も眉を縫う負傷

アイススケートは普通は危険の少ないフィギュアから始めるのだが、私の場合はいきなりホッケーシューズから始めた。フィギュアなら、後ろ向き(バック)で滑っていて転びかけても、ギザギザがブレーキを掛けてくれるので危険なことはない。

ところがホッケーシューズで後ろ向きに走っているとき、足が先行してつんのめるような格好になると、もろに転倒して顔を氷に強くぶつけることがある。
私もバックで滑っていて何回か転倒したことがある。

ある日、ちょっと気を抜いたときに転倒し、眉を氷に思いきりぶつけて、かなり出血した。アリーナの医務室で手当てをしてもらったが、氷の冷たさもあり、さほど痛さを感じなかった。2針縫う傷を負っていた。傷が汚いので眉毛が生えてこないかも知れないと、お医者さんに脅かされた。

包帯姿で家に帰ると、両親が驚き、二度とスケートには行けないように、靴をどこかに隠してしまった。
それを探し出して、懲りることなくスケート場通いを続けるくらいのめり込んでいたのだ。

前回の怪我をしたときと同じようにバックで滑走中にまた転倒した。今度は反対側の眉毛に怪我をして3針縫った。初めの怪我より少し大きかったのだろう。ちょうど卒業式前の出来事である。仕方なく包帯を巻いたまま式に臨んだ。

友達からは「どうしたのだ」と聞かれるし、幸いなことに学業成績は全学年中の15番以内に入っていたので、優等賞をもらうことになったが、「包帯姿で賞状を受け取ったのはお前が初めてだ」と担任の先生にひやかされた。

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朝日アリーナの特別割引?

スケート場は中之島にあった。今はフェスティバルホールになっているところが朝日アリーナである。ここでは関西大学のホッケーが練習をしていた。そんな関係で従業員の女の子とも顔見知りだった。

時効になっているので白状するが、3、4時間も滑って、まともにスケート料金を払うとかなりの金額になる。
それが毎日のように続くので、高校生の身分ではすぐに資金ショートを起こしてしまう。

悪いこととは知りながら、入場するときはタイムレコーダーを押さずに入場して、帰る一時間前にガチャンとやってもらう。一時間だけの料金を払えばよいので、経費の節減ができた。もちろん入り口でチェックしている女子従業員と顔見知りでないとできないことで、それ故アサヒアリーナの存在はありがたかった。

少し遅れて難波の大阪球場の近くにスケート場が出来た。さらにスケールは小さいが桜ノ宮にもにも冷凍会社が経営するスケート場があった。阪神国道線の森駅の近くにもリンクがあり芦屋のお嬢さん方がたくさん来ているというので、野次馬根性を発揮して一、二度滑りに行ったことがある。

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爽快だった六甲山頂の天然リンク

真冬になると六甲山頂に出かけたこともある。ケーブルで山頂まで登り、三国池でまず滑る。室内リンクのようにフェンスがなく、持つところもないので、少し恐ろしい気もするが、青天井の見晴らしの良い天然リンクで滑る味はまた格別である。

時間がたつにつれ気温が上昇して氷が薄くなってくる。厚みが五センチ以下になると危険だ。2、3人の人が集まるとバリバリと音をたてて氷が割れる。
実際に氷が割れて池にはまった人もいる。

あわてて氷の上に這い上がろうとするが次々に氷が割れてなかなか上がれない。その滑稽な姿に思わず笑ってしまうが、厳寒の池に落ちた当の本人にとっては、笑いごとではない。そんな危険の多いスケーティングがまた面白い。

三国の次は瓢箪池、さらに地蔵池と氷が薄くなるにつれ、厚い氷の張っている池へと移動していく。それでも午前中か、せいぜい二時ごろまでしか滑れない。

よく手入れの行き届いた有料の天然リンクもあったようだが、われわれは無料のところを選んで滑った。ケーブル代と電車賃ぐらいしか持ち合わせがないので仕方がなかった。六甲で滑られるのは年間で2、3回だけで、あとは街中のリンクのお世話なった。

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「ダンスパーティ」で資金稼ぎ

フォックストロット、スロー、ワルツ、タンゴ、ルンバ、・・・いわゆる社交ダンスが私たちが高校の高学年のときに流行した。関西大学のヨット部でもヨットを買う資金集めのためにダンスパーティ開いたことがある。

どこの体育部も資金の乏しい事情は同じでダンスパーティで稼ごうとする。関西大学だけではなく、他の大学でもパーティを企画する。他の学校の者に券を買ってもらうと、その学校がダンスパーティを開いたときにはおつきあいで券を買わなければならdanceない。
こうした循環作用である時期はダンスパーティ・ブームのような形になった。

当時ミナミに数軒あった大きなダンスホールを借り切っての催しであるが、入場料は確か300円ぐらいだったと思う。ホールの借り賃、バンドに払うお金、その他の諸費用は決まっているので、フロアーはダンスを楽しむ人でいっぱい、座席も満席状態で空きがない、立ち見している人が出るくらいに人が集まれば大成功である。

とにかく1枚でも多く売れば、収入が増える。
それには女の子にできるだけたくさん来てもらわなくてはならない。男だけがやけに目立つパーティになると、たちまち悪評が立ち、次に企画してもチケットを買ってくれなくなる。

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四日で社交ダンスを教えて

ダンスパーティのチケットを売り捌くには、自分がダンスができないと話にもならない。しかし、レッスン場はもちろん高校生は入場禁止となっている。

国鉄城東線(現JR環状線)の京橋駅の裏にマーガレットというダンスレッスン場があった。入るとき学生服ではまずいので、詰め襟のカラーを内側に折り曲げ、ボタンをはずして一見背広のような格好にして中に入った。
ダンスが正式に踊れるぎりぎりのフロアーがある小さなところで、あまり繁盛していなかった。

クイックステップ、タンゴ、ワルツ、ルンバをそれぞれ一日で教えてほしいとムチャクチャな要望を突きつけた。ダンス教師は目を白黒させて驚きながら、そんな無理なことをいわれては困ると取り合ってくれなかったが、熱心に頼むのにこたえてくれたのか、「まあなんとかしましょう」ということになった。

練習が始まった。一曲6円のレッスン代だが4、5人でまとまっていくので、1人が教えてもらっている間は、じっとその足の運びを見て覚える。4日で完了したのか1週間ぐらいかかったのか、はっきりした記憶はないが、それほど長くは通わなかった。

窮すれば通ず・・・とはよくいったもので、何冊かの本も読み、ダンスの何たるや、くらいは分かった。大学に入ると周囲を気にしなくてもレッスン場やダンスホールに入れるし、後は「当たって砕けろ」の精神で、南のダンスホール、富士、ユニバーサル、メトロ、クイーン、パラマウント、花園、ワールド、美人座など、レッスン場では、本町のOBK(大阪舞踏会館)、日本橋のレインボーなどを道場荒しよろしくかけ巡って実績をつんでいった。

小学校の同窓生の橋本がダンス教師をしていると聞いて、自宅で指導してもらった。家の2階の2部屋がフローリングになってたので、ダンスのレッスンににはちょうどよかった。

初めのうちは音楽を聴いても判らなかったものが、これは三拍子だからワルツ、これはタンゴ、フォックストロット、ルンバ、ジルバ、サンバ、マンボ、チャチャチャと聞き分けられるようになった。ダンスも続けていないと細かいバリエーションは忘れてしまうが、基本のステップは水泳と同じで一旦身に付いたものは忘れないものである。

稽古事、レッスン、勉強、武道、趣味、自動車の運転、飛行機の操縦,モールス信号、スキー、スケート、ゴルフ、囲碁、将棋、麻雀などマスターするのにある年期を要するものは、できるだけ若いうちに覚えておいたほうがよい。
短時間で覚えられるし、チャンスがあったときは尻込みせずにお付き合いが出来る。人間としての振幅も広くなる。知っておれば、いろいろなライフシーンで、役立つことが多いからだ。
ダンスは意外なときに役に立つもので、今の妻と出会ったのもダンスのおかげである。

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ファッションに心惹かれる

親友、おしゃれだった岡本明君に影響されたのかも知れない。男のファッションに大変興味を持っていた。彼は北九州の小倉に大きな家を建てた後、昭和58年に亡くなってしまった。

黒地に赤、青、緑、黄などの小さいネップの入った生地を探してきて、洋裁の上手な岡本の義理の姉さんに、伊東と私の三人が揃えのカラーレスジャケットを縫ってもらい得意顔で着たこともある。
紺地に白の小さい水玉柄のワイシャツ地を買ってきて、仕立屋さんに前立てのミシン目は端から一ミリ以内に掛けてほしいなど好き勝手な注文を付けた。
見ているだけで目が回りそうな小さな水玉柄の生地だったので、縫う職人さんは苦労したことだろう。

関大一高の詰め襟の制服は、上本町六丁目に店を持つ長谷屋が一手で受けていたが、一般のパターンではもの足りず、上着丈、ズボンのすそ巾、襟の高さなど、細かい点まで注文を付けた。それはまだ良いとして襟の高さを、前も、後ろも同じにしてほしいと言う注文には、先方も困ったらしい。普通は後ろが高く、前が少し低くなっている。

同じ高さにするとあごに引っかかる感じで着にくいというのを聞かず強引にやってもらった。その襟も標準よりかなり高いもので、襟の裏につけるセル板(カラーキーパー)を上向けに1枚、下向けに1枚、合計2枚も付けるのだから、首回りは、交通事故でむち打ち症になった人がギブスを付けたように窮屈になるが、これこそ「ハイカラ」と粋がっていた。

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憧れだった服飾評論家

その当時からメンズファッション雑誌の代表的な存在だった「男子専科」を購読していた。
「男子専科」にはファッショントレンドから着こなし、コーディネート、服地の知識など男のおしゃれ全般についていろいろな記事が掲載されていた。

特に興味があったのは次のシーズンのファッショントレンドを予測する記事であった。次の春・夏にはこんな色彩のこのような柄が主流となるだろう。シルエットの傾向はタイトフィットになり、ズボンのすそ巾は細くなる・・・・。

一年も前に流行予測として雑誌に発表される。そのとおりの商品が、シーズンになれば店頭に並ぶ。これが不思議で仕方がなかった。
流行というものは文字どおり、流れゆくもので、まるでつかみようがない。それを的確に当てる人はどんな勉強をしているのだろうと、思いながら雑誌を隅々まで読んだものである。服飾評論家として活躍していたのは、石津健介、青江耿介、星野醍悟朗、大石郁などの各氏である。

服飾評論家になってファッション界で活躍してみたいという思いは、高校の後学年になるほど強くなっていった。人にも相談してみたが、服飾評論家は一見格好良く見えるがなかなか大変な仕事らしいことが分かった。

一流になって雑誌に名をとどめるようになるのは、ごく一部の人で、仮に有名人になったとしても、服飾評論家だけではメシが食えないよ、とのアドバイスを受けた。
そのうちの一人は「ボクだったら服飾評論家になるよりもファッションジャーナリストになるなァ」と言い切った。

服飾評論家は雑誌社の依頼を受けて記事を書く。それなら依頼するほうの立場に立ったほうが、広い範囲で活躍できるのではないかというのである。なるほど一理ある説明だ。

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ファッション記者に方向転換

あるとき、アメリカのメンズウエアという雑誌が目に止まった。もちろん英語での記述であるが、ファッショントレンドについて詳しい解説がなされていた。しかも、イラスト付きで非常に分かりやすく書かれてあった。

早速、本屋さんへ行って購読の手続きをした。それはIACD(国際衣服デザイナー協会)が発行しているもので、アメリカの既製服会社に勤める、デザイナーを対象にしたものであった。辞書を片手にむさぼるように読んだものである。

少し遅れて「男子専科」に有名服飾評論家の名前で掲載されていたファッション・トレンドは、アメリカの「メンズウエア」で読んだものとほとんど同じ内容だった。
手品と一緒で「ネタ」が割れてしまうと「何だそんなことだったのか」と、いっぺんに興ざめ。これをきっかけにして服飾評論家志望はきっぱりあきらめ、ファッション・ジャーナリストを目指すことに心を決めた。

ネタ本は他にもあった。ドイツの「ヘレンジャーナル」、オランダの「サー」、イタリアの「アルビッテル」、アメリカの「エスクワィアー」、イギリスの「テーラー・アンド。カッター」などであるが、男性対象の服飾誌は殆どが、経営に行き詰まり今日に生き残っているものは少ない。

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Fジャーナリスト一筋に生きる

大学の専攻を決めるときに新聞学科を選んだ。ファッションジャーナリストへの第一歩といえるだろう。

結果、日本毛織新聞社に短期間勤めた以外は、日本洋装新聞(社名は日本洋装新聞社から株式会社日装に変わったが、新聞名は創刊以来「日本洋装新聞」のまま)で39余年の長きにわたり仕事ができたのは幸運だった。
ファッションジャーナリストは私の「天職」だと思っている。

海外旅行も26回を数えた。講演やゼミナールで、また、インターナショナル・テーラーズクラブの事務局として、日本各地へ旅行もした。

海外取材ではそれぞれの会社に「プレス・アタッシェ」がおり、資料の提供、写真取材にも特別な便宜を与えてくれた。ファッションという世界共通の価値観をベースにした仕事に就けたのはしあわせだった。

また、ファッションの分野が服飾だけではなく,「生活すること、そのものがファッション。」といわれるように拡大解釈されるようになり、守備範囲が広くなったのも幸運だった。

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集団勉強で試験を乗り切る

平常は遊んでいても、試験ともなれば学生の本分である勉強に専念しなければならない。一人で勉強することもあったが、集団で勉強することのほうが多かった。試験の期間中だれかの家に4、5人集まって一緒に合宿勉強するのである。

よくお世話になったのは玉造の柳田正雄君の家だ。ここは一階が店舗になっており、乳母車、三輪車など主として幼児用の乗り物を販売していた。その二階の広い部屋を合宿勉強の場に提供してもらった。

この家の前の道は市電が走っていた。その市電の軌道をはさんだ道路の向かい側に玉造温泉という風呂屋があった。
普通の銭湯だが二十四時間営業をしており、薬湯、電気風呂、水風呂などがあったので、勉強に疲れると、この風呂屋さんへ行き、リラックスした後でまた勉強を始める。ギターを持ち込んで勉強の合間には、ポロリン、ポロリンと弾いたりもした。

瓢箪山にあった中田昌史君の家もよく使わせてもらった。彼の父は後に東大阪市の市長を務めた大物で、ミナミの畳屋町で「暫」という料亭を経営し、あちこちに広い家を持っていた。当時は海水浴場として知られていた堺の大浜の家もよく使わせてもらった。

どこの親でも合宿勉強をするために使うのだというと、嫌な顔をすることもなくOKを出してくれた。

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頭でなく、筋肉に覚えさせる

勉強方法にも工夫を凝らした。ひとつは高校の保健・体育の斎藤先生が唱える理論を実行した。筋肉に訴えて記憶する方法である。。「頭で考えようとするからすぐに忘れてしまうのだ。大切なことはメモに何回か書いてみる。筋肉を通して記憶するようにすれば、頭が忘れていても、ペンを持つと自然に思い出してくれる」という。

確かにこれは効果があった。自然に頭の中に入ってしまうようだ。試験問題を見た瞬間答えが出てこなかったが、鉛筆を持ってしばらく問題をにらんでいると、するすると手が動く感じで、なんとなく解答が書ける。心理学でいう自動書記に似た現象ではないかと思う。

試験には「ヤマ」をかけることが多い。ここから問題が出るだろうと予測して、重点的に勉強するわけだが、一人の「ヤマ掛け」は偏見もあり危険性が多い。4、5人集まると、「ヤマ」が一致するところと、そうでないところが出てくる。

そこで、なぜここに「ヤマ」を掛けたのか、一人、一人の意見を聞いていく。授業中先生がこういったから、先輩がここは大切なところだと教えてくれた、参考書に重要ポイントとして紹介されていた、などなど、いろいろな根拠が出てくる。それらの意見を集約すると「ヤマ」が当たりやすくなる。まさに集団学習のメリットといよう。

大学になると学部がそれぞれ違っていたので集団勉強は次第に減っていったが、共通の科目のときには、この良き習慣は続けられた。
その頃にはもう一つの秘密兵器であるテープレコーダーが加わった。当時テープレコーダーは高価であまり市場に出回っていなかったが、キットを買い求めて組み立てたものを持っていた。

講義録、ノートや参考書のポイントになるところをテープに吹き込み、それを何回も何回も繰り返して聞くようにする。座っていても良し、寝転んでいても良し、食事中でも聞くことができるので頭に入りやすい。


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