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昭和28年〜32年(大学時代)

ジャーナリスト目指して関大・新聞学科へ

関西大学まではトコロ天方式だった。後ろから押し込んで、前へ突き出すあの方式で、中学、高校、大学と進学していったので、入学試験には悩まされることはなかった。

関西大学といえば法学部が一番よく知られている。法曹界にも関西大学法学部出身者がたくさんおり、それぞれの分野で活躍している。その他の学部としては文学部、経済学部と、商学部の四つの部があり、その下にいろいろな科が属していた。

外部からの受験生と違って自分の好きな学部を決めることができた。中小企業の経営者を父に持つものは経済か商科を望み、色白でいかにもひ弱そうな者は文学部を選んだ。

一番の人気は世評の高い法学である。あまり一つの学部に偏るのも、他の高校から入学してくる人にしわ寄せが行くので、成績によりある程度の振り分けがなされた。

私はファッションジャーナリスト希望だったので、文学部に新設された新聞学科を選んだ。
昭和28年当時は新聞学科のある大学は東京の上智大学だけで、東京大学には正式の学部ではなく、新聞学研究所があった程度である。
ここでいう新聞学は広義の解釈をしたもので、マスコミ全般を指すものと考えてよい。

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体育部に属さず「アルバイト」に

父も新しいものが好きだったので、新聞学科への進学には賛成してくれた。これからは必ず情報化時代を迎え、マスコミが注目されるだろうと、アドバイスまでしてくれた。4つしか部がなかったので、便宜的に文学部の所属にされたのだろうが、本来は社会学部か情報学部という名称にすべきではなかったかと思う。

運動部としては、高校時代にやっていたヨットを当然続けようと考えていた。todai高校時代のあまりにも厳しい練習と、先輩の恐ろしさは身にしみていたが、大学の練習は高校どころの程度ではないと脅かされ、高校でも限界に近い鍛え方をされてきたのに、それより数段厳しいというのでは、本業である勉強もできないし、体も壊してしまう。

誰がいうとなく「ヨット部に入ると殺されてしまうぞ」という話が流れ、全員が入部取り止めということになってしまった。実際には厳しくても死ぬほどのことではなかったのだが、高校3年といえば19歳。まだまだ考え方には幼さが残っていたのだろう。恐怖感が先に立ってしまった。

結局大学では正式の体育部にはどこにも所属しなかった。その時間が空いた分を小遣い稼ぎのアルバイトに当てたような形になった。

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三輪の運転手からパチンコ屋の「サクラ」まで

アルバイトいろいろ

夏休みと冬休みは暇がありすぎるほどある。いろいろなアルバイトをして小遣いを稼ぐこともできたが、それ以外にも将来の人生設計に役立つことを実地に勉強をさせてもらったことが一番の収穫だった。

業種はさまざまだ。砂糖の卸屋、カレーのメーカー、古缶回収業、家具製造業、ゴム製品製造業、紙製品卸屋などである。まだある。大掃除手伝い、麦茶の製造、変わったところでは、パチンコ屋のサクラがある。
大掃除はギャラがよかったが、その分労働条件は厳しくなる。身体が余りにも疲れるのでやめてしまった。

アルバイトとは云え労働を提供して、その代償としてお金をもらうのだから、多くのお金を得ようとすれば、人一倍汗を出すか、知恵を出さなければならない。職場の雰囲気になれていない初めの1週間は、必要以上に疲れる。そこへ人間関係が絡まってくると、精神的な疲労も加わる。

幸い日本の経済が急成長している時でもあり、アルバイト学生を雇ってくれる会社はいくらでもあった。くたくたに疲れて家に帰ると、「そんなに仕事がしんどいのならやめてしまったら」と私の身を案じて両親がアドバイスしてくれた。しかし、何処へ行っても、初めの何日かは疲れるし、家にごろごろしていても気分がすっきりしないので、余程のことがないと続けていくようにした。

環境の変化に順応してくると、あれだけきつかった仕事も何の苦痛にも感じずにこなせるようになってくる。人間の順応力と、「慣れ」による仕事を能率的にこなしていく能力は素晴らしいもだと、自分自身の体験を通じて知ることが出来た。

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「おはようございます」の良い習慣を残し

ゴム製造

ゴム製品を作っている会社は、長い間、高校野球のテレビ放送のスポンサーをしていた十川ゴムである。この会社は神道を経営に取り入れており、朝の始業前に社員が集まって簡単にお祈りをした後、工場長があいさつをする。

アルgoodmorningバイトの人間もこの儀式に加わるようにいわれた。工場長はあいさつの前に「おはようございます」と、全社員に声をかけた。
反射的にわれわれアルバイト組は大きな声で「おはようございます」と返した。体育部では当たり前のことである。
ところが、一瞬全会場が笑いの渦に巻かれた。何で笑うのか不思議に思ったが、いつもは黙って聞くだけだという。それが大きな声で返事が帰ってきたので、思わず笑ってしまったらしい。

後になって、労務のお偉方から「今日はアルバイト学生に良いことを教えてもらった。これからはお互いに『おはよう』の声を掛け合うようにしようと思う」とお褒めの言葉をいただいた。
朝礼が終わると全員が駆け足で自分の職場へと向かう。高校野球の打撃と守備の入れ替えのようにきびきびした動作は気持ちが良いものだ。もちろんわれわれアルバイト組も彼らに負けないスピードで、職場まで走っていった。

この工場では電車の連結用のエアホースを製造していたが、ミリ単位の検査をすると、寸法の不揃いが多く、かなりの数の製品が返品されてきた。職場ではなんとか「ペケ」を出さない方法はないものかと、話し合いが持たれていると聞いた。

黒色のホースには鉛筆やペンで印を付けても見えない。キリでやっても同じだ。仕方がないのでチョークの先を尖らせて印を付け、カッターで切り落としていた。チョークだから先を尖らせても太い線になってしまうので、ミリ単位の検査では不合格になるものが多かった。

そこでわれわれはホースにチョークの腹で太い帯状の白地の部分を作り、キリでその上に正確な寸法の目印を付けるように進言した。この方法なら白の地に細い黒のラインがくっきり引け、それを目印に正確にに切り落とせば、手仕事でも零点何ミリ程度の狂い以内に収まる。以後の返品率が大幅に減少したということだ。

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立派な木材も表面一ミリだけ

木材加工

高島屋製作所はデパートの高島屋系列の工場で高周波で曲げにくい木を見事に曲げるなど、独自の技術を持っていた。階段に取り付けられる木の手すりは踊り場の部分でぐるりとUターンするようにカーブしている。あのような太い木がどうして曲がるのか不思議でならなかったが、ここに来てその謎が解けた。高周波と水と原型があればどんな形にでも変化させられるということだ。

外見は立派な木材に見えるものでも、ベニヤ板に1ミリぐらいの薄さに切った木目の美しい別の木を張り付けてあるものが多いこともここで知った。人間様と同じで外見だけでは中身が判らなくなっている。

トリック的な要素もなきにしもあらずだが、限られた資源を大切に使い、心の豊かさを味わってもらうための技術だと説明されると、それも一理があると納得しなければならない。
自然保護の立場からしても、柾目の通った大きな板を作るには、樹齢何百年の木を切り倒さなければならない。
ことに天井板のように、見た目の美しさは要求されるが、手が届かないところに使用する素材としてはうってつけのものだ。価格も安いので市場からも歓迎される。

劇場やホールの扉はこの会社の独壇場で、その取り付けについて行くこともあり、新しい施設がオープンするといった情報がいち早く入手できた。

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サクラがきっかけで「好き」が「嫌い」に

パチンコ屋

変わり種のアルバイトとしては、パチンコ屋の「サクラ」がある。ある日、大学就職科の掲示版でアルバイト情報を見ていると、「パチンコ屋のサクラ」と書いてあるではないか。当時パチンコが好きでよく負けたり、勝ったりしていた。

今のように自動で球が弾け、大量の球が出てくるギャンブル性の高いものと違って、打った球が当たりに入ると倍の二個になって出てくる可愛いもので、勝っても負けてもたいした金額にはならない。

それにしても学校にサクラを頼みにくるなんて本当かな?と、疑問に思った。
当時、後に阪神タイガースの名ピッチャーになった村山のお兄さんが、就職課に勤めていたので、「サクラって何ですか」と聞いてみた。「お前らアホちゃうか。サクラ云うたら客でもないのに、客のように装っている人間のことや。」やはり思っていたとおりのサクラだった。

好きなことをしてお金がもらえるなら、こんな結構なことはないと、このバイトに飛びついた。
上本町六丁目、近鉄電車の終点(今は難波まで乗り入れているが)駅前・小公園の側に、「桃◎◎」という名前の店であった。

まず、店で軍資金の100円をもらって、しばらく公園でぶらぶらしていると、軍艦マーチが聞こえてくる。開店の合図である。一人ずつ少し間を空けて店に入る。軍資金としてもらった100円で玉を買い、好きな台の前に立って球を弾く。あまり入らない台だとすぐに100円分の球はなくなってしまう。

「花ちゃん出ないよ」、「ミヨちゃん詰まっているよ」。
その日に決めた暗号を大きな声で伝えると、球がガラガラと出てくるシステムになっているので、いつまでもパチンコが続けられる。そのころはパチンコ台の後ろに人間が入って、出球を積んだり、故障を治したりしたものである。

今のようにコンピューターコントロールになると、こんなこともできないが人間が裏にいるので何とでもできる。サクラ以外で球がよく出る台があれば、なんとか入らない様にいろいろ細工をする。

スプリングを少し緩めたり絞めたりする。それでも球の出が止まらないときは、湿った雑巾を台の裏の木部のところに置いたりもしていた。効果のほどは知らないが、湿り気が釘の反発力に微妙な影響を与えるのが目的とか。片側に厚紙や薄い木片を挟み込み、傾斜を変えるなどいろいろ試みられたようだ。

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景品のないパチンコはやっておれない

パチンコ屋続き

景品のかかっていないパチンコなんて、クレープの入っていないコーヒーよりも味気ないものだ。
いつもなら瞬くのうちに過ぎる時間も、昼の休憩までの長かったこと。昼食から夕方の退店までの時計の針の進まないこと。一度にパチンコが嫌になってしまった。

学生服ばかり着ていると「サクラ」ということがすぐにばれてしまうので、毎日服装、履物を変えてほしいと、注文が付けられた。学生の分際でそんなに服や履物をたくさん持っているはずはない。このアルバイトは4、5日ぐらいしか続かなかった。

人間の心理は面白いもので、人が誰も入っていない店には入りにくい。またどの台も球が出ていないようでは、お客さんはすぐに帰ってしまう。
「サクラ」につられて店に入ったきた客もアホなら、学校にサクラの募集を依頼する店主もアホ、少しばかり高いギャラにつられて「サクラ」になる学生もアホである。

同じアホでも一番得をするのはいうまでもなく、店主である。かくしてパチンコ屋はいつの時代でも商売繁盛。損をするのはお客だけ。
どんな世界でも裏を見てしまうと興味が半減してしまう。知らずにだまされている方が夢もあり、幸せかも知れない。

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稼ぎが良かった三輪の運ちゃん

三輪自動車運転手

稼ぎがよかったのは車の運ちゃん。昭和28年、関西大学のピカピカの一年生のときに自動二輪と自動三輪の運転免許を取得した。当時はタクシーでも自動三輪を使っていた。走るとき「バタバタ」と音がするところから「バタバタ・タクシー」と呼んでいた。

荷物運びはもちろん三輪が主体だった。四輪トラックを持ってっている会社は少なく、中小企業では三輪が輸送手段のチャンピオンだった。
ダイハツ、マツダ、クロガネなどの車がよく走っていた。ダイハツは実用的で底力があり、故障も割合少なかったが、スタイルは決して良いとはいえなかった。

エンジンの上にガソリンタンクがありその後ろが運転席、というよりサドルになっている。ハンドルはバイクのような枝ハンドル。単車の後ろに荷台を付けて後輪を二つにしたものだと考えればよい。エンジンが運転席の下にあるため、夏など交差点で信号待ちしていると、下から熱が上がってきて暑くて仕方がなかった。
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エンジンをかけるのはもちろん人力。まずチョークを絞り、電気位置を下げ、ペダルに足を掛け、全身の体重をペダルにかけて、足で踏み下げ、エンジンをかける。このときエンジンが反対に回り、ケッチを食うこともしばしばあった。ケッチの衝撃を和らげるため、ブーツ形式の靴を履いている人もいたが、金欠学生の分際ではそんなものがないので、雨降り用の長靴を履いて乗車したものである。

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胃下垂防止にと腹にさらしを巻いて

三輪自動車運転手続き

振動がひどいので、鉄火場のやくざのように腹にさらしを巻いて車に乗った。そうしないと胃下垂になってしまうからだ。街の中は別として主要道路でもちょっと郊外に出ると、未舗装の道が多く、あちらこちらに凸凹あるので、雨が降れば水たまりができるし、クッションの悪さも加わって車は揺れに揺れた。

今の車と比較すると性能は大変劣っており、故障はしばしばおこる。ゴムの質が悪いのでよくパンクした。プラグの点火に必要な電気をタイミング良く供給するポイントをよく磨いておかないとエンストの原因を作ってしまう。

ガソリンの質が悪かったので、プラグが汚れて火花が飛ばなくなる。寒い冬にエンジンを始動するとき、チョークを絞るだけではなく、キャブレータを手で覆いながら、空気の量を調整するなどのテクニックが要求される。メカに詳しくなければ乗れなかった。

50キロ程度しかスピードが出ないが、その程度のスピードでも連続して走ると、マフラーが真っ赤に焼けるほどオーバーヒートした。ちょっとした故障やバンクなどは自分で対処したが、ときには手に負えない故障で、車が動かなくなり、現場に置いて帰ったこともある。

スタイル面ではマツダが一番進んでいた。三輪に丸ハンドルを採用したのも、チェンジレバーをH型のコラムにしたのも、ヘッドライトに明るいセミシールドビームを付けたのもマツダだった。スピードもよく出た。実用一点張りのダイハツばかりに乗せられている身にはマツダ車は憧れの的であった。

クロガネは水平対向の2気筒の三輪を販売していた。単気筒と比べると音が静かで振動も少ない。高級志向だったためか台数はあまり出回っていなかった。

どちらにしても性能は悪く、交差点の真ん中でエンストすることも度々あった。慌ててエンジンをかけたものだが、そんなときに限ってケッチを食らい、アキレス腱のところをいやというほど金属製のぺダルで打ちつけられた。それでも、車の通行量が少ないため、警笛を鳴らして慌てさせる車もなく、のんびりしたものだった。

車の運転手は年末になると1日で1,000円になった。「にこよん」時代から少し経ったときのことである。肉体労働者が1日働いて約300円位しかもらえないときのことだから、1日運転すると3日分程度のお金が入った勘定になる。。それだけ運転免許保持者が少なく、貴重な存在で、運転手が休むと代わりの人を探すのに苦労したという。

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主、従の差別に怒り感じる

紙製品卸

近鉄と国鉄(現JR西日本・環状線)が交差する鶴橋駅近くの紙製品の卸屋さんがあった。ここでも運転手のアルバイトをさせてもらった。
商品を積めるだけ積んで、注文があった品を小売店に配達するのだが、今日は奈良方面、明日は京都方面と方向を決めて車を走らせる。

住み込みの従業員が助手席に乗っていくのだが、紙屋の主人は河内の出身で、朝は茶粥を食べる習慣がある。若い従業員は茶粥ではすぐにお腹が減るらしい。
いつも「腹が減った」と口癖のようにいっているので、10円のパンを買ってプレゼントすると、涙を流さんばかりに喜んでくれた。

広島のお寺の息子で、住み込みで2,000円ほどの給与をもらっているだけなので、パンを買う金にも窮するらしい。(大卒初任給で8,000円程度)
夕方遅く店に帰ると店で食事をすることになるが、主人は畳の上、従業員とアルバイトは板の間で正座をして食べる。その足の痛いこと。

こんな差別があたり前のように行われていた。「悔しければお前も頑張って自分の店を持つことやなぁ」店主の態度がそういっているように感じたし、実際にそんな話も聞かされたことがある。

短期間のアルバイトならその期間だけ辛抱すればよいが、住み込みで働いている従業員は少なくても数年間は親元を離れ、寂しい思いをしながら差別に耐えていかなければならない。人には言えない屈辱感を味わったことだろう。将来、人を使う立場になったら絶対このような差別はしないでおこうと心に誓った。

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リサイクルは昔からあった

古缶回収

古缶回収業の運転手も面白いものであった。助手席に乗るのはこの店のベテラン番頭である。空き缶がたくさんあると思える西区、港区の工場街を適当に走ってほしいという。工場の塀のそばで車を止めると、ヒョイと身軽に塀をよじ上って中を覗く、ドラム缶や石油缶が積んであれば、正面入り口に車を回して、空き缶を売ってほしいと申し入れる。
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買い取るとすぐに会社で待機している社長に電話で、「こんな缶を何個買い取りました」と連絡を入れる。連絡を受けた社長はあちら、こちらに電話を入れ、売り先を探す。うまく売り先が見つかると、車をそのまま売り先に走らせることもある。「右から左へ」の商売を地で行ったものである。

すぐに売れなかった缶は一旦会社に持ち帰り、奇麗に洗浄し、買い手が見つかるまで、在庫として保管される。
ドラム缶や一斗缶は天板に付けられているキャップを押したり、回したりして内容物を出し入れするようになってる。直径五センチか十センチぐらいしか開口部がない。
缶の内部をどうして洗浄するのだろう。不思議でならなかった。
車の故障で運転の仕事が出来ないときは洗浄作業を手伝った。その時にナゾは解けた。

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一斗缶は四、五回よみがえる

古缶回収

一斗缶の場合はまず、苛性ソーダを溶かした湯槽に缶を浸けて表面を洗う。
次にキャップをはずして、そこから苛性ソーダ液を注入する。そして、缶を思い切り振り回す。この作業を何回か繰り返すと、缶の中は奇麗になる。最後に水洗いをする。注入した水が出易いように、キャップの反対側に空気穴を空ける。充分に乾燥させた後、ハンダで穴をふさぐ。空気穴一つのものは「一空き」、二つのものを「二空き」と呼ばれていた。
「三空き」ぐらいまであり、缶の値段も「穴」の数が増えると安くなる。中に入れるものによって、使い分けられていた。

どうにもならないものは、天板を切り取ってしまい、火で焼いて缶を黒くして「天空き」という名前で、お菓子の入れ物として使われた。
衛生面でも注意しなければならない身近な食べ物であるお菓子の容器が四、五回リサイクルした物とは皮肉なものである。
普段何気なく見ている一斗缶もプロが見れば何回リサイクルされたものか判る。

では、ドラム缶の場合はどうするのか。缶の中に苛性ソーダ液を入れるのは同じ。
そのとき、鉄製のチェーンを一緒に放り込む。店の前がちょうど坂道だったので、ドラム缶をゴロゴロ転がすことが出来る。チェーンが缶の内部を擦って汚れを取ってしまうのだ。

使い物にならないと思われてたドラム缶がよみがえる。限られた資源を有効に使おうとする人間が生み出した生活の知恵である。

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吟詩は三段、号は「春島」

腹の底から大声を出し詩を吟ずる。自宅の近くに松村という先輩がいた。家業は染め工場であったが、二階の居間を週に1回、吟詩の練習場として提供してもらっていた。関西大学の吟詩部にしばらく所属していたことを誰かに聞いたのか、この先輩にやや強引に練習にくるように誘われた。

流派も同じ関西吟詩同好会(現在は関西吟詩文化協会)だという。保田哲洲という年配の男の先生であった。五言絶句の短い簡単な詩から始まって、七言絶句、律詩、連句、と、長く難しい詩に進んでいく。初めに先生が模範吟を披露する。

これで全体の調子を大まかにつかむ。次に一行ずつ先生の後について発声する。最後に詩全体を通しで吟詠する。ここまでは団体の練習だが、次が恐い。一人で吟詠するのだ。うまく行かないところは先生が何回もやり直しを命ずる。

最近資料を整理していると、かって習った吟詩の教本が出てきた。改めて読み直してみると、実に言葉が上手に使われている。中国の李白、杜甫を初めとする名の知れた人の詩はいう及ばず、上手に作られた漢詩は独特の響きというか、リズムを持っている。韻を含んでいるので耳に快く感じる。

日本人でも頼山陽、広瀬淡窓、乃木希典などは中国人に負けない立派な漢詩を残している。明治の政、財界人、軍人には難しいといわれる漢詩をものにする偉人が少なくなかった。いま読んでみてもある種の感動を覚える立派な詩がある。

吟詩の練習は週に1回、年に2回はその成果を発表する会が開催された。先生のお情もあって3段まで昇段し、関西吟詩同好会本部から「春島」という号も頂戴した。4段、5段と段位を上げていくには、まず漢詩の作詞ができなくてはならない。同好会の組織拡大にも協力して、支部を新たに開設するとか、会員を増やすことに尽力するなど、いろいろな条件が付いてくる。

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漢詩、表現の豊かさに教えられる

漢詩は独特の韻を含んでいる。張継作の七言絶句「楓橋夜泊」例を取ると、

楓橋夜泊 張 継 作
月落烏啼霜満天 つきおち からすないて しもてんにみつ
江楓漁火対愁眠 こうふうぎょか しゅうみんに たいす
姑蘇城外寒山寺 こそう じょうがい かんざんじ
夜半鐘聲到客船 やはんの しょうせい きゃくせんに いたる

1行目の最後の語「天=テン」、2行目の「眠=ミン」、4行目の「船=セン」と韻が揃っている。
修飾語の上手な使い方には感心する。表意文字の良さをフルに発揮、言葉の後ろに隠された雰囲気や情況を的確に表す語を用いている。他のどの語に置き換えても、ぴったりした表現ができないだろうと思われるほど慎重に選択されている。

例えば「見る」と「看る」ではニュアンスが違っており、作者の気持が読みとれる。
ボキャブラリーが豊富で、繊細な感性、何にでも感動する柔軟な頭脳がなければ、漢詩など作れない。

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実際の寒山寺には期待外れ

社員旅行で中国の上海に旅行したとき、蘇州の寒山寺を訪ねる機会があった。張継のすばらしい漢詩を思い出し、大いなる期待を描いていたが、これは見事に裏切られてしまった。

月は冴えて水の面に映り、夕闇に烏は鳴いて肌寒い霜気が天に満ち来る。
見れば江上には漁船のかがり火が岸の楓葉に輝いてちらちらと光っていて、旅路の心も落ちつかずして、うつらうつらと眠るともなく眠らぬともなき眼に映じて
来るところへ姑蘇城外の寒山寺から打ち出す鐘の音は早くも夜半を告げて客船に響いて来た。(訳=関西吟詩同好会教本より)

夕方から夜半にいたる寒山寺周辺の情況を読んだ詩としてよく知られているが、あまりにも情況描写が上手なので、寒山寺もさぞかし立派なお寺であろうと勝手kanzanjiな想像をしていたが、行ってみると何の変哲もないお寺であった。

詩の詠み手は夜、私が訪れたのは昼間。
作詩者は船の上、こちらは陸上に。感性の鋭い人と、鈍感人間。詩心のある人と、無い者。彼我の差が同じ物を見ても、片や感動、片や失望を生んでしまったのであろう。

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稽古事は長く続けることが勝ち

吟詩をやったおかげで、人前で話をするときも上がらなくなったし。親しみにくかった漢詩を身近に感ずるようになり、その良さが再発見できたこと、腹式呼吸による発声の大切さを知らされ、難しい漢字や熟語を覚えたこと、字源、原典などの理解が深まったことなど、その後の人生に役立つことを数多く学んだ。

稽古事はやれる暇があればあまり気が進まなくても、ある程度のレベルまで続けることが大切だ。
いま、中国に関係の深い「気功」と「太極拳」を習うようになってから特にその思いを強くしている。若いと覚えが早い。一度身につけると完全に忘れてしまうことはない。ところが歳を取ってから始めると動きはぎこちないし、物覚えも悪くなる。覚えたつもりがすっかり忘れてしまっている。

習い事に一番大切な集中、持続だが練習する根気が無くなっている。若い頃なら失敗を恥じずに大胆に取り組めるが、歳を取ると恥をかきたくないというプライドが先に立ち、上達を妨げる。

吟詩の会場を提供してくれた松村先輩は、小柄ながらがっちりとした体で、応援団長をしていたくらいで、体力、気力とも全身にみなぎるほど元気だったが、片方のお乳だけが女性のように大きく腫れあがる奇病のため、若くして急死、詩吟教室は自然解散になってしまった。

そのうちに大学も卒業、吟詩と縁が切れたかと思っていたら、洋服業界の吟詩好きが集まって高野山で発表会をするというので、2回ほど出席した。
しかし、日ごろ練習をしていないとロクに声も出せないので止めてしまった。今は時折懐かしい青春時代に思いを巡らせながら、茶色っぽく変色した教本を見るだけだ。そのうち漢詩の本を買ってきてもう一度、勉強をし直そうかと思っていた。人の心の微妙の「あや」を伝えるには、漢詩は大いに役立つと思うからだ。

意は天に通じるのか月に2回詩吟の練習会が開かれるというので、参加することにした。全員が年輩の初心者である。心配していた声もやってみると何とか出るものだ。45年前に習った発声法が、いま役に立っている。

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入るはヨイヨイ、出るはコワイ

大学生活の最後の難関は卒業論文である。入学は中学校からの押し出し式で大学まで来たので苦労はしなかったが、出るときは大変。なんだか、アメリカの大学のような感じである。アメリカでは「入るはヨイヨイ、出るはコワイ」といわれている。
入学時は門戸を広く開けて歓迎するが、卒業は所定の単位を習得し、卒業試験にパスしなければならない。

日本の大学とは反対のようである。日本では入試が難しいので一生懸命に勉強するが、入学すると、麻雀、パチンコ、デート、バイトと学生の本業である勉強をあまりしないものが多い。
アメリカではこうは行かない。

アメリカ人に「どこの大学を卒業されましたか」と聞くことはまことに失礼で、「どこの大学へ行っておられましたか」と聞くのだという。つまり、卒業できずに中退することが多いのだ。

ところで卒業するにはどうしても卒業論文を書かなければならない。
新聞学科を選択したのはファッションジャーナリストになりたいからだ。将来マスコミがもっと世間一般から重要視されるだろうということに大きな期待を懸けてのことである。

しかし、正直に言って新聞学というものが、いまだにしっかりと確立していなbookいことが入学して判った。新聞学科を持つ大学は東京の上智大学、大阪の関西大学の二校だけで、教育カリキュラムをどのように組み立てていいのか、暗中模索している段階だったのだろう。文学部に属していたことが、それを如実に物語っている。

専攻としては、新聞学概論、編集論、新聞英語、社会心理学など新聞人として必要な講座があったが、他の講座は法学部、経済学部などに出向いて受けたこともある。
新聞学科の担当の先生はどういうわけか毎日新聞社出身者が多く、いずれも現場を歩いてきたベテランを揃えていた。

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卒論は法科なみ「新聞の名誉毀損について」

厳しい現場経験を経て新聞社の幹部になった錚々たる経歴を持つ教授に対して、新聞をまともに卒業論文として取り上げると、口頭試問でこっぴどくやっつけられるだろうと考え、新聞学科より法学部の卒論に近いテーマをわざと選んだ。「新聞記事による名誉毀損の罪について」というものである。

芸能人、政治家などのゴシップは読者の関心を引きやすいので、新聞紙上を賑わせることが多い。週刊誌はその最たるもので、面白、おかしく、やや誇張して書かれているケースも見受け受けられる。

ビジネスの社会では必ずライバルがあり、一方の会社に有利な記事はライバル会社に多くの損害を与えることもある。同じ記事でも政治家や官僚のように公と関係の深い人は、プライベートと公人の分野を明確に区別することは難しい。時代によっても名誉毀損の判断基準が当然違ってくる。今後人権意識が高まってくると、この種の争いはますますひどくなるものとされる。報道の自由、表現の自由と個人のプライバシー保護とのせめぎあいである。

わいせつの判断と同様に時代とともに人権意識も変化するので、ある時は無罪、また、ある時は有罪の判決が降りるかも知れない。個人ばかりではなく法人との争いになる場合もある。
報道側にも看過できない重大な問題である。と、大上段に振りかぶり、このlampテーマに取り組んだ。

図書館で判例集を調べて、過去の名誉毀損の判例を調べ上げた。幾つかの判例から公人としてのプライバシー、読者が成り行き、動静を知りたがっている有名人、芸能人と、報道価値のあまり無い一般人では、プライバシーについての判断が、変わってくることも判った。

週刊誌はよくゴシップ的な記事を好んで書く。ちょっとした言葉じりを捕まえて、推理、推察を織り交ぜ、当の本人をカンカンに怒らせる記者もいないとはいえない。初めからストーリーを作っておいて、インタビューの名を借りて、誘導審問をする手法もある。が、中には人気の低迷から抜け出したいがために、記者と結託をしてプライバシーまで踏み込んだ記事をわざわざ書かせる(いわゆる「やらせ」)こともあるから話は複雑になる。

この作戦は見事にあたり、「卒論のテーマを法学部のようなものにしたのだなぁ。よく調べてあるので結構です」と意地の悪い質問もされずに済んだ。もし法学部の教授がこの卒論を見たら、なんて幼稚なことを書いているのかとクレームがついたのではないかとか思っている。
無事4年の所定の期間に卒業できた。昭和32年のことである。



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