08kakedashi

08kakedashi

昭和32年〜33年(駆け出し時代)

アルバイト先が就職先に

大学も4回生にもなると必要単位すべて取り尽くして暇になる。友人の呼びかけで卒業前に日本毛織新聞社へアルバイトに行った。
大阪支社は船場のど真ん中、その名も「船場ビル」の一階にあった。ひょんなことでアルバイト先が、就職先になってしまった。お世辞にも立派なビルとはいえないが、何となく日本離れした雰囲気が漂っていた。

入り口を入ってすぐのところにヨーロッパでよく見かける手動式、蛇腹の扉がついた古いエレベータがあり、女性のオペレーターに行く先の階を告げる。何階だったのか忘れていても会社名をいうと正しい階で止めてくれる。入居している会社の名前と階数が、頭の中にインプットされているのだろう。プロはこれじゃないといけないと思った。

ビルの真ん中は吹き抜けとなっており、両側に廊下をはさんで部屋が作られている。
ビル全室に交換電話がつながっていた。直通の電話も各社がそれぞれに引いていたが、ここの交換手の対応が実にすばらしいので、面倒な交換台経由の電話も良く利用されていた。

その後にこの交換手が辞めるまで、ビルの名物的存在だった。留守中telwoman電話があると、××会社の○○さんは何時も何時頃に帰社するのかを覚えておき、帰るのを見届けて伝言してくれる。常時かけているところなら、社名をいっただけで、相手の名前をいうよりも速く「○○さんでしたね」と聞いてつないでくれる。

不便な交換台経由の電話もここまでサービスされると、値打ちもので、他のビルでは交換台による電話サービスをやめ、直通電話ばかりになる中で、しばらく交換台は生き続いていた。

arowuparowdown

優秀な先輩に多くを教わる

日本毛織新聞社の大阪支社長は、佐藤を名乗るおとなしく真面目な人で、本社は名古屋にあり、折戸という人が社長をしていた。

営業は後日、竹馬産業の課長へ転出していった中村元一氏が中心的な存在だった。この頃は集金してきたお金を会社に入れなかったり、持ち逃げが日常茶飯事となっていたが、営業では彼の真面目さは光っていた。

編集が取材してきた新しい情報で、自分の担当会社に関係がある思われることはいち早くスポンサーに伝える。その会社に不利な情報、有利な情報をすべてを伝えるため、相手企業はありがたい情報源として大切にしてくれる。
この人からは本当のサービス精神とはどんなものなのかを学ばさせてもらったた。

編集部には須藤、村井いう二人のベテラン記者がいた。須藤氏はどちらかといえ08enpitsuば左翼思想の持ち主で、詩人の小野十三郎氏の門下生だった。文学青年の気風が残っており、よくミナミの中華料理店で、文学論、人生論などを論議していた。この人には文章の書き方、新聞記事のまとめ方を教えてもらった。

村井氏は四条畷学院という女子校の図書館勤務の先生だったが、生徒のお尻をなでるので有名な、ひょうきんさが売り物の面白い先生だった。今ならセクハラで訴えられるところだが、当時は、おおらかなもので、それで先生を有名にしてしまった。

インテリには珍しく行動派で、主として毛織物の原材料を取材の対象として伊藤忠、丸紅、兼松、岩井などの商社を守備範囲にしていた。明るく朗らかな性格から取材先でもモテモテの人気者だった。
のちに毛類情報という信用興信所が発行しているタイプ打ちの速報版形式の情報誌を発行する会社の社長に転出していった。
この人からはジャーナリストには行動力が大切な要素であることを知らされた。

arowuparowdown

いきなりの取材に足すくむ

日本毛織新聞は愛知県一宮市に多く集まる毛織メーカーを中心に、原毛から紡績、織物、染色・整理、卸問屋、切売商、既製服メーカー、小売店などの全段階にわたるニュースを毎日届けるのがその役割だ。

毛織物の流通段階はこのような構成になっている。今この業界が注目されているのは、こんな理由からだなど・・・・・、業界の基本的な説明と会社の役割につてのレクチュアを受けた後に、いきなり取材してくるようにいわれた。

荒海に放り出される形で実際の仕事が始まった。どこへ行って、誰に会って、取材すればよいのか見当がつかないし、取材するには会社の代表者か、大会社であれば部課長クラスの人と会わなくてはいけない。電話でいちいちアポイントを取っていると取材にならないので、いきなりの訪問が多いが、会社の扉を押して中に入り、受け付けを通過、担当者のところに行くことは勇気のいるもで、ノバのコマーシャルではないが、
「入ろか、止めよか」と迷ったものだ。

なにを取材すればよいのか、初めのうちは見当がつかなかった。「そうだ」と思いつき会社の地下に積んである古い新聞を三年間分、振り返って読んでみた。そうして分かったことは毎年同じシーズンになると、同じような話題が出てくるという循環性の法則だった。

昨年はこのような情況だった、一昨年はこうだった。さて「今年はどうなるのでしうか。」といった形でインタビューをしてみることにした。これなら新米記者でも経験を積んだ取材相手に対して、物怖じせずインタビューが出来る。相手も答えやすい。業界通といえども忘れることもあり、「3年前にそんなことがあったのか。すっかり忘れてしまっていたが、良いことを聞かせてくれた。」と感謝されることもあった。

一度話し相手になってもらうとあとは簡単。雑談や趣味の話しなどを交えて、いろいろ喋っているうちに特ダネに値する話がポロリと出てくることもある。
完全に引っ掛けられたり、先方の術策にはめられたこともある。ある時大手アパレルメーカーに取材に行くと、「当分の間仕入れ中止」と、壁に張り紙がしてあった。これは一大ニュースとその理由などを聞いて記事にした。

小売市場の動きがもう一つ良くないので、在庫調整のため、原反の仕入れを中止するという主旨のものであるが、我が社を初め、何紙かがこれを取り上げたので、他のアパレルメーカーも同調したため、毛織物の流通相場が下がってしまった。
値段が安くなると「仕入れ中止」の張り紙を外して、素知らぬ顔で仕入れを開始した。アパレルメーカーの戦略勝ちである。

この会社では一日に三本の記事を書くこと、十五字詰めの原稿用紙十五枚が最低のノルマとされていた。
新聞社の朝は遅く九時に入るのは支社長ぐらいのもので、十時か十時半に出社する人が多い。午後の三時までに取材を終え、会社で記事を書く。ノルマさえ果たせば何時でも退社はOKとなる。

夕方の時間に余裕があるため、当時、話題になっていたテレビ技術を勉強するために難波の大阪球場スタンド下にあった電波学院へ通うことにした。

arowuparowdown

古い業界、「隠語」の多さに戸惑う

取材をしていて一番困ったのはこの業界に隠語が多いことだ。古い体質を持った業界にはいろいろな隠語が残っているといわれている。一般的には競馬の業界がそうだと言える。
「ラチがあかない」、「ハミを外す」などが、その例といえるが、これらの言葉は業界外の人にも通じるぐらいに普及している。

毛織物業界で使われている隠語は業界以外の人にはサッパリ何のことか判らないものばかりである。新聞紙上ではこのような隠語はできるだけ取り上げないようにしようということになっていたが、取材に行くとポンポン隠語が飛び出してくるので往生した。

一例をあげるとこのようなものがある。
「箱屋」は元売り問屋のことである。毛織メーカーから反物を木箱に詰めて送ってくる。箱でドカッと入荷するという意味で付けられた名前である。一昔前まではこの元売り問屋の力が強く、流通段階を支配していたが、商品企画力、金融能力の低下で、一番先に流通改革の洗礼を受け、ほとんどのところが姿を消してしまった。

「切売屋」は反物で仕入れた商品を在庫として持ち、洋服店から注文が入ると、一着分に切って販売する業態のことで、書いて字の如し。「羅紗屋」ともいうが、どちらも語の響きが古いという理由で、今は「服地卸商」と呼び名を変えている。

「潰し屋」は既製服メーカーのこと。服を作るために服地をどんどんカットしていく様を「潰す」と表現したのだろう。既製服のことを「首吊り」ということもある。服をハンガーに懸けてあるのが、首を吊っているように見えるからだ。

最近では既製服メーカーを「アパレルメーカー」、既製服のことを「プレタポルテ」と呼んでいる。「プレタ」は先に、「ポルテ」は造ることを意味する。先に造った洋服。何のことはない、既製(既に製造された)洋服。日本語がフランス語に入れ替わっただけだ。

「縞屋」というのは紳士服地を取り扱っている店のことをいう。昔、紳士服はほとんどがストライプ柄であった。ストライプは日本語で「縞」になる。チェックや無地物を売っていても、紳士服地を取り扱っていると「縞屋」。

「マス」一合升、一升升というマスではない。マス見本のことである。マス見本というのは毛織メーカーが縦糸、横糸にいろいろな色糸を使い色や柄の表現がどのようになるかを試し織りしたもので、1枚の布の中に葉書より少し大きいマスで仕切るようにして、服地に仕上がった状態を想像できるようにした見本である。
気に入った色柄があるとそこにピンを打って注文する。

流通段階では「しょんべんをかける」。小便をかけることだが、注文をしていた商品を理由もなくキャンセルすること。かけた方は平気な顔でいられるが、かけられた方はカンカンになって怒る。

arowuparowdown

「ガチャ万」「コリャ千」の余韻。増頁。

昭和31年は前半の数量景気を引き継ぎ、洗濯機、冷蔵庫、掃除機の三種の神器が飛ぶように売れ、「神武景気」といわれた。毛織業界も絶好調で「ガチャ万」、「コリャ千」という当時の好況をあらわす言葉が流行した。kojiyo

つまり、「ガチャン」と織機の音がすれば、一万円札が懐に飛び込んでくる。「コリャ」といえば千円札が手中のものになった。

日本毛織新聞も強気で増ページ構成として、これに応えた。1日約15字詰め、10行の原稿用紙、15枚のノルマに加え、週に1回全頁の特集記事を書くようにいわれた。タブロイド版とはいえ全頁になると、かなりの文字量になる。まだ慣れていないので長い記事を書くのはつらいだろうと、月に1回だけ書くようにしてもらった。

当時は月賦販売の創成期で何かと話題になっていたので、これをテーマにすることした。月賦販売の歴史をたどり、今日の情況まで探ろうというものだ。取材している中に月賦販売の業者は愛媛県の出身者が多いことが判った。

愛媛県は漆器の産地で、農家を対象に特産品の行商を始めた。農家は収穫した米を売り渡したときや、野菜を出荷したときには、お金が入るが、平常は現金の持ち合わせが少ない。行商の効率を計るため、お金が入ったときに支払ってもらう約束で、特産の漆器を売った。

これが人気を博した。買い易いので高級品もよく売れるようになった。
農業からサラリーマンに対象が変わり、月給をもらったときに支払ってもらう方式でいろいろな商品が売られるようになった。月賦販売の始まりだという。このような調子で特集記事を書くと知識が豊富になる。

arowuparowdown

発足間もない日本洋装新聞に移籍

日本毛織新聞社に入社してほぼ1年が経過し、業界の様子がようやく判りかけたときに、発足して間もない日本洋装新聞から新年号の編集をアルバイトで手伝ってくれないかとお声がかかった。

日本洋装新聞社は堀川勇さん、加藤三郎さん、松本佐智子さん、北川明さんの4氏が昭和32年8月に設立した会社で、同年の8月15日号が実質的な創刊号となった。社長の堀田勇さんは、関西大学の大先輩で、ぜひ日本洋装新聞社にくるように勧誘された。

誕生したばかりの会社でその将来性は未知数だったが、全員株主、世襲制ではないので頑張ったものが、社長になれるという話に魅力を感じたのと、熱意と誠意を込めて入社を勧めてもらったので、移籍を決心した。

しかし、業界の様子が少しわかるまでに育ててもらった日本毛織新聞社にはそれなりの恩義があるので、少し時間を貸してもらうようにした。
分野は少し違うが同じ繊維業界で働くので、足蹴りにした形の退社は嫌で,円満退社が可能なら会社を変わっても良いと考えていた。

そうするうちに円満退社ができる一つのアイデアが出された。堀田社長の古くからの親友である瀧口武雄さん(相談役)が叔父になり、身柄を貰い受けにいこうというのである。
「親友が新聞社を設立した。編集部員として今西君を採用したいと思うので、了承の程を」との申し入れしてもらった。
「嘘も方便」という言葉がある。誰にも損を掛けない嘘は許されているらしい。お陰をもって何のトラブルもなく円満退社することができた。

後日談。当時、日刊紙を発行。スケールも何十倍も違っていた日本毛織新聞社が、糸偏ブームが去るのとともに、廃刊に追いやられた。若き日の選択は間違いではなかった。

arowuparowdown

給与は他社の二倍、但し半分は出世払い

日本洋装新聞社は大阪市南区塩町通り(現・中央区)の塩町ビルの一室で誕生した。机を4つほどと簡単な備品什器を入れると、歩く場所もないくらいの狭い部屋だった。

管理人のおばさんは「ここはげんのよいビルでっせ。出世ビルといわれてshigotoますねん」と自慢していたが、それもそのはず、ビルとは名ばかりどの部屋も小さいので、少し仕事量が増えると狭くなり、大きなスペースの部屋がある他のビルに引っ越しをしてしまうからだ。

いよいよ入社が決まり、給与の決定のときが来た。堀田社長から提示のあった額は二万五千円、大学卒の初任給か一万円強といわれていた当時の水準からすると、破格の金額である。

思わず、「そんなに貰えるのですか」と声を出した。「あなたの値打ちはそれくらいある」しかし、と、社長の話は続く、「会社は生まれたばかりでお金がない。当面はその半分で辛抱してほしい。後の半分は会社が儲かるようになったら払うから」、いわゆる出世払いということだ。

当面の給与は一万三千円、全員出資が建前なので、そこから三千円は出資金として天引きされる。手元に残るのは一万円ぽっきり。
新聞の取材として必要なカメラも、会社用のものは一台もなく、すべて自分のものを使用するというシステムになっていた。

arowuparowdown

「誠実」を社是に、社員のモラル向上に力

創業して何ヵ月か遅れての入社だったので、創業にまつわるモロモロの苦労話は知らないが、創業者全員が別の繊維関係の新聞社に勤めていたが、その会社の体質に馴染めず飛び出したという。

どんな仕事にしても新しく始めるのは大変だなぁと感じた。業界の新聞といえばヤクザ、総会屋と同等程度に扱われるのが、その頃の常識だった。それだけマナーの悪い人間が多かったのも事実である。企業の弱点を握りそれを武器に強引な広告取りをしたり、「鉄砲」と称して、了承も得ずに勝手に広告を掲載して、あとで集金に行く。

必要もないのに40部、50部とまとめた購読料をもらっておきながら,実際には1部しか届けないという手口、平常は新聞も雑誌も発行していないのに、お盆と年の暮れになると、特集号を発行する「ボンクレ新聞」。

どの業界にも寄生虫のように嫌われながらも、ひつこく食いついて離れない輩が多かったから世評が落ちるのは無理のないことだ。

こんな周辺環境の中でこの会社の創業に関わった人は全員誠実で人柄が良く、高い道徳観の持ち主ばかりだった。小さくてもこんなにモラルの高い会社があるのだと,世間の人に解ってもらおうと、たゆまぬ努力をしている。その姿を見て、この人たちとなら長く一緒に仕事ができるだろうという感を強くした。

arowuparowdown

洋服の大本山に引っ越し、機関誌の編集

創業の翌年、昭和33年に大阪市東区高麗橋詰町の大阪洋服会館二階へ引っ越した。木造二階建ての戦前の建物で、お世辞にも立派なオフィスとはいえないが、スペースはかなり広くなった。洋服会館といえば洋服店の大本山である。創業して間もない会社がその中に入れたことは、会社の信用度を引き上げるのに大変役立った。

一階が大阪洋服組合の事務局だったので、業界のニュースがいち早く掴めた。繊維の中心地、船場、谷町の中間に位置していたので、地の利を生かして関連業界からのニュースも取材しやすくなった。

この洋服会館に引っ越しをした一番の理由は全日本洋服組合連合会の発行している「全服連ニュース」という機関新聞を雑誌形式に形態変更して、より内容の充実をはかりたいので協力して欲しい旨、連合会から依頼があったからだ。

B5判約200ページぐらい。隔月に発行、全組合員に配布する。編集内容は最新の洋服技術(裁断、裁縫)、服地と裏付属などの商品知識、流行傾向、経営、経理知識、商品ディスプレー、各地組合の活動、連合会からの通達事項などだという。

全日本洋服組合連合会(略称=全服連=、現在は全日本洋服協同組合連合会)は、各都道府県にある洋服組合の要である。

arowuparowdown

午前様が新事業で更に忙しく

洋服組合連合会の組合員数は、24,000人にのぼっていた。羊紳会という毛織メーカーを中心とした強力なバックアップ団体を持ち、豊富な資金力を基にいろいろな事業を行ってきた。洋服作りの腕を競う全日本洋服技術コンクール、裁断コンテスト、新スタイルの発表(ビスポークライン)、全国一斉セール、などなどである。機関誌の増強もその一環だった。

羊紳会は御幸毛織、大同毛織(現・ダイドーリミテッド)、長大、日本毛織、中外,深喜毛織をはじめとする一流の紳士服地メーカーによって構成され、毎月の会費を積み立てて服地の販売促進費に当てていた。

昭和30年代後半から40年代前半までは既製服メーカーが発展途上にあり、注文洋服のシェアが、60パーセントを超えていたので、注文服分野で毛織物の売り上げを伸ばせば、マーケットで有利な立場に立つことができた。また、この分野で人気を得ることは「高級品」というご朱印を貰ったことになり、既製服メーカーへの素材納入の道を開くときに有力な武器となった。

この事業を円滑に展開するためには、組合と同じ建物に入るのが便利だ。本業の日本洋装新聞の発行deskだけでも、終電車に間に合わず、タクシーで帰宅することが度々あった。

泉大津に本社を置く深喜毛織の宣伝企画を一手に引き受け、全国規模で同社商品の展示会を開催することになり、この準備にも時間が取られる。
その上に、連合会の機関誌の編集、発行という大きな仕事が乗っかってきた。スタッフの人数は増えたが、仕事量がそれ以上に増え、忙しさの解消には役立たなかった。

arowuparowdown

東京出張の宿舎に文化住宅借りる

連合会の本部が東京にあり、執筆者、技術の先生も、関東に居を構える人が多かったので、取材活動は東京が中心となった。当初はホテル、旅館などを利用していたが、その費用がバカにならないと、連合会が大久保駅の近くにあった文化住宅を借りてくれた。

東京出張は夜行の寝台急行をよく利用した。夜に大阪を出て、東京まで8時間。早朝に東京に到着する。まだ、どこのオフィスも閉まっているので、時間つぶしと、疲れ取るために駅構内にある蒸し風呂(サウナ)へ入ってから仕事にかかる。忙中閑あり、一番ホッとできる時間である。

仕事が終わると、連合会が借りてくれた文化住宅に帰る。無人になっている日が多い部屋というのは活気がなく、何となくうら寂しい。アットホームという雰囲気などまるでない。

夏は部屋を開けると、湿っぽい空気が歓迎してくれる。冬は人気がないので、壁、柱、天井、押し入れの中、布団、家の中のすべてのものに冷たくあしらわれる。ガスコンロで湯を沸かして部屋に蒸気をこもらせなければ、寒くてやり切れない。

arowup

わが家は「母子家庭」といわれ

大阪にいるときはほとんどが午前様、日曜、祭日出勤もある。東京出張も多い。家の近所の人から「母子家庭」だといわれていた。長女・貴子が生まれたときも東京出張中で、東京の郵便局から自分の妻子にお祝い電報を打った。

「のべつ幕無し南京芝居」、日本洋装新聞社の仕事は、いつ果てるのか見当がつかない。だが、この忙しさは、自分を大きく成長させてくれた。短期間にいろいろな知識を体験を通じて習得することができた。

深喜毛織の展示会の成功を契機に毛織物業界の販売促進、宣伝、PRのisogashi代行をする企画部を設けることになった。早速、倉敷紡績の子会社が不織布による芯地のPRのため展示会を開きたいという話が持ち込まれ、全国主要都市でこれを開催した。

グラフィックデザイナーもメンバーに加わり、PR誌、カタログ、パンフレット、ダイレクトメール、案内状、見本帳、スタイルブック、ショーカード、カウンター・ディスプレーなどの注文を受け、仕事の間口が広くなった。

会社の成長も早かった。昭和34年、創業から2年半で株式会社に改組、法人登記することができた。

いまになって流行ってきた樹脂製の透明封筒。昭和35年頃、当社で引き受けていた則竹毛織のPR誌の発送用に使っていたから、かなり独創的なことをやってきたのではないかと、自分では思っている。大型の広告代理店ではリスクを考え二の足を踏む企画でも大胆に取り入れることができた。と、いうよりも変わったアイデアで勝負しなければ、勝つことはできないという事情があった。

この封筒、当時でも違法ではなかったが、ツルツル滑って紐で括ることもできない、配送業務に差し支えるので止めて欲しい、と、郵便局から申し入れがあり3回ほど発送したあと、もとの紙封筒に戻ってしまった。


BACKTOPNEXT



HOME