アルバイト先が就職先に |
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大学も4回生にもなると必要単位すべて取り尽くして暇になる。友人の呼びかけで卒業前に日本毛織新聞社へアルバイトに行った。 |
優秀な先輩に多くを教わる |
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日本毛織新聞社の大阪支社長は、佐藤を名乗るおとなしく真面目な人で、本社は名古屋にあり、折戸という人が社長をしていた。 |
いきなりの取材に足すくむ |
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日本毛織新聞は愛知県一宮市に多く集まる毛織メーカーを中心に、原毛から紡績、織物、染色・整理、卸問屋、切売商、既製服メーカー、小売店などの全段階にわたるニュースを毎日届けるのがその役割だ。 |
古い業界、「隠語」の多さに戸惑う |
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取材をしていて一番困ったのはこの業界に隠語が多いことだ。古い体質を持った業界にはいろいろな隠語が残っているといわれている。一般的には競馬の業界がそうだと言える。 |
「ガチャ万」「コリャ千」の余韻。増頁。 |
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昭和31年は前半の数量景気を引き継ぎ、洗濯機、冷蔵庫、掃除機の三種の神器が飛ぶように売れ、「神武景気」といわれた。毛織業界も絶好調で「ガチャ万」、「コリャ千」という当時の好況をあらわす言葉が流行した。 |
発足間もない日本洋装新聞に移籍 |
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日本毛織新聞社に入社してほぼ1年が経過し、業界の様子がようやく判りかけたときに、発足して間もない日本洋装新聞から新年号の編集をアルバイトで手伝ってくれないかとお声がかかった。 |
給与は他社の二倍、但し半分は出世払い |
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日本洋装新聞社は大阪市南区塩町通り(現・中央区)の塩町ビルの一室で誕生した。机を4つほどと簡単な備品什器を入れると、歩く場所もないくらいの狭い部屋だった。 |
「誠実」を社是に、社員のモラル向上に力 |
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創業して何ヵ月か遅れての入社だったので、創業にまつわるモロモロの苦労話は知らないが、創業者全員が別の繊維関係の新聞社に勤めていたが、その会社の体質に馴染めず飛び出したという。 |
洋服の大本山に引っ越し、機関誌の編集 |
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創業の翌年、昭和33年に大阪市東区高麗橋詰町の大阪洋服会館二階へ引っ越した。木造二階建ての戦前の建物で、お世辞にも立派なオフィスとはいえないが、スペースはかなり広くなった。洋服会館といえば洋服店の大本山である。創業して間もない会社がその中に入れたことは、会社の信用度を引き上げるのに大変役立った。 |
午前様が新事業で更に忙しく |
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洋服組合連合会の組合員数は、24,000人にのぼっていた。羊紳会という毛織メーカーを中心とした強力なバックアップ団体を持ち、豊富な資金力を基にいろいろな事業を行ってきた。洋服作りの腕を競う全日本洋服技術コンクール、裁断コンテスト、新スタイルの発表(ビスポークライン)、全国一斉セール、などなどである。機関誌の増強もその一環だった。 |
東京出張の宿舎に文化住宅借りる |
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連合会の本部が東京にあり、執筆者、技術の先生も、関東に居を構える人が多かったので、取材活動は東京が中心となった。当初はホテル、旅館などを利用していたが、その費用がバカにならないと、連合会が大久保駅の近くにあった文化住宅を借りてくれた。 |
わが家は「母子家庭」といわれ |
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大阪にいるときはほとんどが午前様、日曜、祭日出勤もある。東京出張も多い。家の近所の人から「母子家庭」だといわれていた。長女・貴子が生まれたときも東京出張中で、東京の郵便局から自分の妻子にお祝い電報を打った。 |