16Koushi

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昭和48年〜58年(日装時代)

「儲かる話し」はしゃべれない

新聞記者は結構な商売で、名刺が一枚あれば、どこへでも入っていけるし、経営者や会社の役員と話もできる。長年この職業についていると、業界の将来に対する見通しもつけられる。いろいろな統計や資料も集まってくるので、余程のバカでない限りゼミナールの講師ぐらいは勤められるようになる。

初めはメモを見ながら、あっちでつまり、こっちでつまりのよちよち歩きだったものが、場数を踏んで行くと、駄洒落を入れたり、ユーモアを交える余裕も出てくる。そうなると聴衆も居眠りをしなくなるし、食い入るように話を聞いてくれるようになる。

商売がうまくいっているときは、つまらない話を聞いているよりも、店にいて一着でも多くの洋服を売る方が得策と、講演会の開催も少なくなる。いざ景気が悪くなり、売れ行きに陰りが出てくると、悪いのは自分の店だけで、よその店では売れているのではないかと、不安になってくる。

よその店も同じように売れていないことが判ると、ひとまず心が休まる。傷のなめ合いである。これをしていると業界の地盤そのものが沈下していく。
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講演会が企画される前提条件は、だいたいこんなものである。講演会、セミナーに何を期待するかを聞いてみれば「どうすれば儲かるのか」という話を聞きたい。と、返ってくる。そこでこちらは「このようにすれば必ず儲かるということがあれば人に話をしないで、自分で実行しますよ。」と、半ば冗談のように答えるようにしている。

講演会を主催する組合の理事長も「今日は大阪からわざわざお招きしました先生から『こうすれば儲かる』という話しをしてもらいますので、最後までご静聴ください」などと挨拶する人が多い。大阪は商売人の街だから必ず儲かる話が聞けるという期待があるのだろう。

そんなとき、私は「理事長はあのようにおっしゃいましたが」その話しはできない。と、まず否定することから話し始めるようにしている。聞いている人に一瞬不満げな表情が走る。

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注文服、昭和45年から苦難の道に

私にできることは「このようにして儲けた店があります。と、実例を示すことです。しかしここにおられる数十名の方がこの通りのことをしても必ず儲かるとは期待できません。だから、できるだけ多くの実例を示しますので、これなら自分の店で実行すればうまくいくと、自信のあるものだけを実行に移してください。」と、断りを入れるようにしている。

同じ洋服店でも地域の差、客層の違い、営業方針、取扱商品、技術、センス、店の立地、店舗の雰囲気などによって、宣伝の方法、販売促進企画のあり方が変わってくる。まず自店の特徴と欠点を客観的に把握しておかなければ、どんなによい話しを聞いても役に立たない。

既製服と注文洋服は宿命のライバルで、一方のシェアが増えれば一方が減る。
戦後から昭和40年ぐらいまでは、注文洋服が圧倒的に強よかった。昭和45年には既製服が45パーセント、注文洋服も同じく45パーセントと勢力が拮抗するようになった。残りの10パーセントはイージオーダーである。

それ以降は既製服が伸び続け、注文洋服のシェアは1ケタ台になってしまう。
注文洋服の衰退の原因はいろいろあるが、第一にあげられるのは、値段の高さだろう。背広の上着を縫うのに3日間はたっぷりかかる。ズボンとチョッキは各1日かかるので人件費が上がれば必然的に仕立て代は高くなる。

生地も既製服の素材と比べるとかなり上等なものを使っているので更に値段は上昇する。値段が上がると経済原則にしたがって売上げ着数が少なくなる。

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第2の機能が売れる時代に

昭和45年ぐらいから経営に関するゼミナールや講演会が多く開かれるようになったのも注文服のシェアが小さくなり、競争が激しくなったからだと思われる。
それまでは技術の講習会が多かった。仕立ての良い洋服さえ作っておれば売るのにさほどの苦労はしなかったからだ。

「あそこの親父は偏屈で頑固者だがいい腕を持っているよ」といわれるのが、ひとつの財産であった。技術に60点から100点までの差があるときは、洋服の第1機能である「仕立てが良くて着やすい服を縫う技術」がものをいった。しかし、それぞれの店の技術水準が向上してくると、技術的な優位だけでは客の関心を引けなくなった。

技術優秀の店はもはや当たり前、その上に第2の機能が要求されるようになってきた。
第2の機能とはファッション感覚、センス、サービスといったもので、これは30点から100点満点までお店によって開きがある。

ファッション感覚、センスというものはある程度持って生まれたものであるが、「玉も磨かざるは光なし」といわれるように絶えず磨く努力をしなければならない。サービスはものを買ってからなされる「アフターサービス」と買う前の「プレサービス」がある。

一般的にサービスといえば「アフターサービス」のことのように考えている人が多い。
洋服の着具合がわるければ直す。定期的に洋服のご機嫌伺いを出す。型紙をきっちり保管するなどがアフターサービスの代表的なものだろう。

これに対して、素材の情報を伝える、ファッション傾向をお知らせするのがプレサービスならば、店を改装して雰囲気を変える、新しい商品をバラエティ豊かに揃えるのも広い意味でのプレサービスである。

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次々にかかる「お座敷」の声

テーラーもなかなか難しい仕事である。まず、裁断、裁縫などの技術を持っているか、あるいは自分で服は縫わないが腕の枯れた職人さんを雇っているなら、良い服を見定める目を持っていなければならない。

次にファッション傾向にも通じていなければならない。
服地、裏地、芯地など素材の知識の豊富さも要求される。美的センス、優れた色彩感覚も必要だ。経理、経営の問題も大切、と、一人で何役もの役割を果たさなければならない。
この中でテーラーの一番の弱点といわれているのは経営問題だ。

新聞社は客観的に業界を観察できる立場にあるので、講演を依頼されることが多い。
たまたま講演が好評だったらまた次の講演を頼まれる。
各地の洋服組合、技術団体、親睦会などこの業界ほど団体の数の多いところはないといわれている。お声が掛かるままに出掛けていると、雪ダルマ式に増えて本来の仕事がほとんどできないほど忙しくなる。

その上に服地卸商、毛織メーカー、裏付属商などが、顧客サービスとして主催するゼミも行われる。
何回も講演していると、なんだか自分が急にえらくなったように感じるものだ。会場へ行けば大きな胸章つけて先生呼ばわり、催しの終了後の懇親会では上座に座らせてpaperもらい「まあ一杯」となる。「本日はよいお話しを聞かせていただき・・・」と、何人もの人からお褒めの言葉にあずかる。こんな日常を過ごしていると態度がだんだんでかくなる。

そうしてはならないと自分で自分に言い聞かせているのだが、他人様の目には多分そのように映っているのではないかと思い悩んでいた。

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新事業開始、「講師稼業」に幕

幸い私は下戸でお酒の場で飲み過ぎる心配はないが、酒の好きな人にはこたえられないだろう。しかし、いつまでも続けるのは良くないと思いながらも、日本洋装新聞の宣伝になればなればと思い、できるだけ暇を作って、全国各地に足を運んだ。

昭和58年にFRP事業の体制を強化するため、きっぱりと「講師稼業」から手を引いた。やめた理由はもう一つある。

福井県洋服組合の元老・Y氏から「あなたは福井へ3回来てくれた。その時はよい話を聞いたと、組合員は喜んでいたが、その話を生かして実行する人がいない、経営は理屈でなく実践だ、その証拠に1回目より2回目、3回目と組合員が減ってきている。講演をするより、社業に励む方が賢明ですよ。」と、心からのアドバイスをもらった。

これは応えた。業界のためと思っていたがあまり役立っていなかったのかと。
しかし、大勢の人前で話をするは、事前に資料をよく調べ、話をする内容を充分頭に入れておかねばならない。1時間の話しなら3時間分のネタ、少なくとも2倍の材料を持ておかねばならない。そうでないと聞く人に満足してもらえる話しはできない。

講師業は自分自身に勉強のチャンスを与えてくれたと、喜ぶべきことではないかと自分で自分を納得させている。

失うものより得るものの方が多かったのは事実だ。

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