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(日装時代の人脈を中心に)

人にはいろいろな因縁がある

「人」という字は二つの棒がお互いに支え合った形になっている。どんなに能力があっても1人の人間のやることはしれている。ある時は支えてもらい、ある時は支える。それが人生である。

先達からは「人の先に立ったときは、手を差し伸べて後から来る人を引き上げるように、人に後れを取ったときは、後ろから押し上げるのが自分の役目だと思え。」と教えられた。

人にはいろいろな因縁がある。そこに生まれてくることにより生ずる親子、兄弟といった血のつながりの「血縁」、たまたま住まいを構えたがために形成される近隣とのお付き合い
「地縁」、ある時期ともに学んだという「学縁」、絵・歌・踊り・吟詩・気功、好きなことをしていて出来た「趣味縁」、職場が一緒、あるいは取引先、得意先関係で出来る「仕事縁」、インターネットやアマチュア無線などで得られる「情報縁」。詳しく分析して行くといろいろ出てくるだろう。

「袖振り合うも他生の縁」、「一期一会」私の人生に少なからぬ教訓と指針を与えてくださった人々に感謝をしながら、その人の生き方から何を学び取ったのか書き留めてみた。

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豪放磊落、細やかな神経も持ち合わせる

初代日装社長・堀田 勇 氏(故人)

関西大学の大先輩である。明治45年、須賀市の出身。昭和12年に中華民国維新政府の特派員とし中国に派遣され、新聞記者として活躍した。終戦で日本に引き上げた後、全日本洋服組合連合会の一大事業である1500ページに及ぶ「全服連総監」を加藤三郎、松本佐智子両氏とともに完成させた。

洋服の技術、経営、服地・裏地などの基礎知識、組合員名簿などで構成され、洋服とそれに関連したことなら、どんなことでも解る業界の百科事典ともいえる貴重な書籍である。

綿密な調査と行き届いた編集内容、表紙のデザイン、装丁、ボリューム、どれをとっても超一級の出来で、今後もこれだけ充実したものはできないだろうと好評を博し、全日本洋服組合連合会及び加盟組合員のイメージアップに大きく貢献した。

編集に携わった3人は中国の漢口の地縁での結びつきであった。
日本洋装新聞社の初代社長を勤めた堀田勇氏は豪放磊落。中国式の表現madorospを借りると「大人」ということになる。

しかし、見掛けに反して細かい神経の持ち主でもあった。普通の人では気がつかない点まで、気配りが行き届いていた。仕事の上で良く怒られることもあったが、怒った後では必ず「明日、出社してくれるだろうか」と、心配していたという。

高度のマナーを社員に求める

礼儀にもきびしく、旅館に宿泊しても脱いだ浴衣をきちんとたたむよう注意を受けた。
「業界新聞をヤクザの親戚のように思っている人が多いが、日本洋装新聞の社員だけは言動に充分注意をするように・・・」と、口癖のようにいっていた。毎日新聞の出身だけに、一般紙の記者が高く評価されているのに対して、業界紙記者の評価の低さを苦々しくしく思っていたのだろう。

人物評、随行記などを書かせると、美文調の筆致は天下一品。漢文にも精通しており、てん刻が趣味。隷書体の書は師範クラス。

カメラの腕も相当なもので当時としては最高級のキャノンで撮影した写真を何枚か横につなぎパノラマ写真にする特技を持っていた。写真の継ぎ目も細筆で器用に修正する。

会社が発足してしばらくは、社員のそれぞれが120パーセントの仕事を持っており、連日午前様になるような状態だった。これ以上仕事の入り込む余地は、全然見当たらない。だのに、頼まれると新たな仕事を取ってくる。回りの人間が「これ以上は無理です。」というと
「オレが一人でやる。」と、率先垂範して仕事に取り掛かる。

こうした無理がたたったのか昭和38年に肝臓病を患い、入・退院を繰り返し、ついに昭和46年に帰らぬ人となった。

「一歩社外に出れば自分が会社を代表していることを忘れないで」という高いマナーを要求する言葉と、堀田氏が考案した企業理念・日装三点鐘、「さらに知恵を使おう」、「さらに誠実であろう」、「さらに努力しよう」・・・は、社員の心の中に生き続けている。

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泉のように湧くアイデア

元・二代目・日装社長・加藤三郎氏(故人)

大正11年、小田原市の出身。幼少のときより、抜群の記憶力を持ち、周囲の人をして「神童」と言わしめた明晰な頭脳の持ち主。大志を抱き中国に渡り、報道関係の仕事に着いていたが、終戦で望みが果たせず帰国、燃え盛る向学心を押さえ切れずに、明治学院大学に入学しなおした。

頭の回転の良さは仕事の面でも大いに発揮され、編集、営業など次々に新しいアイデアが考えだされた。時に風邪などを引いて会社を休まれることもあったが、次の日の出社が楽しみだった。

というのは休んでいる間に幾つかのアイデアが頭に浮かんでくるのか、フレッシュなプランや方針が聞かせてもらえるからだ。
筆を持たせると、ほれぼれするような、弘法さんも吃驚するような、文字が水茎の先から生まれてくる。

何時も笑顔、ソフトタイプの営業

いつもニコニコ、笑顔で人に接するため、業界の評判も上々だった。22kao
初代堀田社長が肝臓病で入院しているとき、専務として社内を取りまとめながら、毎日のように病床にある社長を訪ね、その日の会社や業界の出来事を報告していた。先輩を大切にする律義な姿は、われわれ社員の鏡とすべきものであった。

堀田社長亡き後を受けて、昭和46年、社長に就任した。計数にも明るく、時代を先取りするタイプの経営者で、オフィスコンピュータの導入、デザイン面でのパソコン利用など、小規模の会社としてはOAへの取り組みは早いほうだった。

一番有り難かったことは、後輩の意見を真剣に聞きいれ、自由に行動させてもらえたことである。

中年になってから始めたゴルフが大変気に入ったのか、プライベートのプレー以外に業界のゴルフ大会を企画し、仕事柄運動不足気味になり勝ちの業界人に適切なスポーツを楽しむ機会を与えた。
パーキンソンという難病に罹り、昭和62年に引退。
平成10年帰らぬ旅路に就いた。この人からはソフトタイプの営業法と会社トップとしての心構えを学んだ。

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愛社精神と仕事への誇りは天下一品

元・日装常務・松本佐智子氏

山積みの仕事を正確にてきぱきこなして行く。電話の対応は、一オクターブ高いsadou声で丁寧に、来客への接客態度はマナーに添って親切そのもの・・・すばらしい女性がいるものだというのが、第一印象だった。
総務、経理部門が専門で後に常務になった人である。

電話は2回目のコールのうちに受話器を取る。第一声は「ありがとうございます」。これを自分も実行し、社員にもそのようにさせた。早く電話に出るのは相手に「イライラ」を感じさせない配慮である。5回も6回もコールが鳴ってから、出てくるのに比べると、相手の印象に大きな差が出てくる。顔が見えないものだけに印象が大切だという。

電話の第一声はほとんどが「ハイ、○○株式会社です」と自社名が出てくるものだが、会社へ掛かってきた電話だから社名を名乗るのは後で良い。
まず、電話を掛けて頂いたこと、仕事を通じてお世話になっていることに心からの感謝の気持ちを込めての「ありがとうこざいます」を一番先にいう。

基本を大切に、間違いを事前に防止

創業者堀田社長の薫陶よろしきを得て、基本を大切に、念には念を入れ、間違いを事前に防ぐ仕事の運び方、そして全身全霊を会社にささげたような強烈な愛社精神と自分の仕事に対する高い誇り・・・どれをとっても他人には真似の出来ないことばかり。

「全服連総監」の編集で全国を回ったこともあり、「サッチャン」の愛称で顔が売れていた。「サッチャンを知らないのはモグリ」と、冗談に言われるほどだった。

インターナショナル・テーラーズクラブ(ITC)の事務局を切り盛りし、総会に夫妻同伴での出席を増やした功績は大きい。
総務、経理の仕事が本筋だが、独特の営業感覚で、本業の営業マンが手を焼いている難攻不落のスポンサーを落としてくる特技も持ち合わせており、何事も最後までやり通す気力と説得力は高く評価されていた。

今は男女性差別が少なくなったが、昔は「松本さんが男なら・・・」という話をあちこちで聞いた。終戦直後では民主主義の本質、男女同権思想を理解している人が少なく、そのような言葉がでてきたのだと思うが、それだけ能力を高く評価した上での言葉でもある。

松本さんのお父さんは電気技師として中国に渡り、漢口で、堀田、加藤氏と出合った。引き上げ後、一家は長崎県に住まいを移し、彼女は川並造船に勤務することになった。
「全服連総監」の大事業を成功させるために初代堀田社長が、「どうしてもお願いしたい」と呼び戻したのが縁だった。堀田さんの人を見る目に狂いがなかった。

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一人十役、高潔な人柄が顔に
元・丸三洋服店社長・加納栄二氏(故人)

大阪・難波にある新歌舞伎座の一つ西の通りで営業している丸三洋服店の社長・加納栄二氏は全日本洋服組合連合会、大阪府洋服協同組合の理事長を務めた人である。

他にも地元商店街・南新会、日本と韓国の人が仲良くするのが目的の日韓友好協会、成田山大威力会、詩吟会など、数多くの団体の会長、顧問なども引き受けていた。

多忙極まりない人であるが、何事にも泰然自若、慌ている姿を見たことがない。むしろ余裕すら感じる。どうしてあんなに多くの仕事が出来るのか、不思議でならなかった。

全日本洋服組合連合会の大事業「全服連総監」も、当時、連合会の理事長だった加納栄二氏の依頼によるものであった。編集の本部は東京に置かれていたが、本が出来上がると、理事長も地元の大阪に帰ってしまう。

それに呼応するように編集に携わっていた人も仕事の拠点を大阪に移したというから、その人間としての魅力は相当なものだ。その高潔な人柄が顔ににじみ出ていた。後のことになるが、自分も歳を取ったらこのような顔なりたいと絶えず願っていた。

事情の知らないときには社長、専務がどうして丸三洋服店に足繁く通うのか、不思議に思っていたが、会社設立の基礎工事といえる仕事を与えてもらった大恩人である。理由を聞いてなるほどと思った。

いつ頃からか私も足を運ぶようになり、いろいろ話をしていると親戚であることがわかった。豊中市の市会議員選挙があったとき、候補者の一人が共通の親戚であることから「世間は広いようで狭い」ということになり、一層親密さが増した。

その頃、大阪洋服組合では毎年ミナミの「大劇」で消費者向けのファッションショーを開催していた。
プロのモデルに混ざって組合関係者の素人のモデルが出演する。
もちろん何日か前から歩き方やターンの練習をしてから舞台に上がるのだが,コチコチになってロボットのようなギクシャクした歩き方をしたり、右足と右手を一緒に上げたりのハプニングはよく起こった。

ある時は、スポットライトの明るさに目が眩み、舞台の端がわからずフロアに落ち、慌ててはい上がって、客席のほうを向いて「失礼しました」と一言せりふを述べ笑いを取ったこともある。

何事もなくすいすいと進行するショーよりも、素人のぎこちなさが逆に人気を呼んだが、これも何回か続くと「またか」とマンネリを指摘する声が多くなる。加納理事長からマンネリ打破の企画を出すように要請があった。

そこで、歌も服もその時々の世の流れを現すという共通点に目を付け、「歌は世につれ、世は服につれ」というタイトルで、明治から昭和の現代に至るまでの約百年間の流行歌と洋服のファッションの移り変わりを劇仕立てにして紹介した。

明治5年11月12日に公布された太政官令で「爾今、礼服に洋服を採用すべし」と定められたのを契機に洋服が普及しはじめた。この100年間を2部構成にした。脚本は吉本興業の竹本浩三氏が引き受けてくれた。

明治の大礼服は手に入ったが、大正のモボ・モガ時代のもの、戦時中の国民服、もんぺなど時代を思い出させる洋服を集めるのが大変だった。何とか映画会社が良く利用するレンタル衣装屋で調達できた。

しかし、本当の狙いは現代の洋服を見てもらうことにある。昔の服に対して現代の服の数が圧倒的に多いのでそのバランスを取るのに苦労した。

一流のキャバレー「メトロ」が平日の昼間は安く借りられることを学生時代のダンスパーティの経験で知っていたので、ここを借りて、型破りのファッションショーも開いたが、本来保守的で変わったことを嫌う理事長が多い中で、加納理事長は果敢に新しいものを取り入れ、若手にその執行をまかせた。

「メトロ」のショーには後に大阪府の知事になった横山ノック氏と彼のバンドが加わってくれた。はっきりお覚えていないが、赤い水着を着て得意のタコ踊りを余興としてやってもらったように思う。

仲人、家系図、写経、早起きして奉仕

公私共に忙しいのに、仲人を引き受け86組の幸せカップルを作り上げた。実弟の乾さんが14組の仲人をしたので、合わせて100組の新しい家庭ができたことになる。
64家の家系図、さらに、数え切れないお経の掛け軸をボランティア精神で書き上げた。

家系図は2巻に別れ、2,000年に及ぶ系図が書き込めるというもので、戸籍簿を調べ、菩提寺の過去帳に目を通して先祖を遡っていく、根気のいる仕事だ。
お経の掛け軸は、その家の宗旨に合わせて「南無阿弥陀仏」、「南無大師遍照金剛」といった文字を白抜きで現せるように、回りを「般若心経」、「観音経」の小さい文字で埋めている。どこを白にするのか計算が大変だという。

わが家の宗旨は加納家と同じ浄土宗だったので、「南無阿suzuri弥陀仏」の文字を白抜きにした額用のお経2枚、家系図、さらに子供の結婚記念に「西国三十三ヵ寺霊場朱印集め掛け軸」をいただいた。

これは2本1組になっており、各霊場のご詠歌と朱印がうまくペアになるもので、朱印をもらいに行ったお寺でも、珍しいものだと、お褒めの言葉を聞かされたほどの凝ったアイデアのもの。朱印集めは遅々として進まないが、平成11年の正月現在であと4寺を残す所まできている。

実践倫理早起き会にも参加して早起きには慣れているとはいうものの、毎日四時に起きて筆を握ったということだ。
いかに忙しくても応対する人、一人一人には誠心誠意を込めて当ったので、加納さんの言葉は人の心を動かし、万物流転の法則に従って、また自分自身に帰り、その心を豊かにして、上品な顔立ちを作り上げていく。

創業50周年、仲人100組、家系図65家、ご夫妻の金婚式、ご本人の喜寿、奥さんの古希などを6つの目出度いことを祝う珍しい催し、「六慶祝賀会」が、同氏にお世話になったもの十数人余りが発起人になって、昭和57年に国際ホテルで行われた。義理の出席者は1人もなく、何らかの形でお世話になったものだけで、320名。広い宴会場が埋め尽くされた。

私が司会、進行役を引き受けたが、結婚式のように式次第の定番というものがないし、前例がない催しだけに、どのような順番で進行すればいいのか見当がつかず、不安一杯での開会だったが、加納さんの人徳を反映して、実に和やかで楽しい雰囲気の集いになり、胸をなで下ろした。

「モーニング5着出世論」を提唱

本業の洋服を通じて「モーニング5着出世論」を提唱したのもこの人だ。
1着目は自分の結婚式のとき、やがて会社での地位が上がり、仲人など頼まれる機会が増える頃には体型も変わり、若いときのモーニングは着られなくなる。そこで2着目。この2着はどちらも、秋冬用の厚手の生地を使ったものの場合が多い。

モーニングは結婚式ばかりでなく、弔事のときにも着ることがある。人の死は時を問わず襲ってくる。真夏の立礼に冬物のモーニングを着ていると、それこそ玉の汗が滴れ落ちる。そこで薄く涼しい生地で夏用のモーニングとなる。3着目である。
ここまでくればその人の社会的地位は相当に高くなっている。

結婚式、上棟式、創業祭、オープニングセレモニー、叙勲、葬儀、法要などいずれも大切なライフシーンの一駒である。くたびれたモーニングを着ていけない。冠婚葬祭に出る機会の多い人は、さらに冬と夏用の各1着が必要になり、「人生モーニング5着」となるが、ここ到達すると頂点を極めたことになる。

モーニングは正式には「モーニングコート」である。文字どおり午前中の礼服だが、現在ではコンビニエンスストアのように24時間通用の礼服になった。新しい閣僚の信任式は夜になることもあるが、着ているのはモーニングだ。
加納栄二氏からはこのような誠意ある生きざまを学ばせてもらった。

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七十過ぎて新規事業に尽力

元・日装相談役・瀧口武雄氏(故人)

堀田初代社長の関西大学時代のポン友。私の大先輩でもある。日本洋装新聞社創業時代にはヴァンクロスというスポーツシャツの会社を経営していた人である。自分の会社の近く塩町に日本洋装新聞社の事務所を見付けてくれたのも、この人だという。

その後も相談役という立場から新年の社員総会にも出席してもらい、仕事や人生に役立つ蘊蓄のある話を聞かせてもらった。学生時代は陸上部の選手で、南部忠平氏と一緒に練習したこともあって体育系の良さも持ち、グリークラブにも属していたので歌も大変上手だった。

硬軟併せ持つ人で、博覧強記、政治、経済、社会、どの分野のことにも精通していた。それでも、新聞やテレビで新しい言葉に出くわすと、メモにとっておいて若手の社員を掴まえて意味を聞き出す。

なによりもうれしかったのは、日装が新規事業として、FRP(ガラス繊維強化プラスチック)のファッション建材の販売を開始したときに、協力をお願いしたところ,70歳を過ぎているのもいとわず、快く引き受けていただいたことである。

設計家へのPRにも同行する。時には納品現場にも立ち会うなど、若い人に負けない活躍ぶりを見せ、社員に少なからぬ刺激を与えた。helmet

甲府の工事現場へ行ったときも長い車の旅にも疲れを見せず、仮設足場の階段を確かな足取りで、上がって行く姿は、実年齢より15年も若く見えた。

瀧口さんは電話魔でもあった。退社時間が近付いた午後4時頃になると、昼の間に訪問してきたところ、知り合い、その他手当たり次第に電話をしまくる。
せっかく訪問をしても後のフォローがないと無駄に終わってしまうが、電話でコミュニケーションをとっておくと、会社や商品の印象は一層強いものになる。
この人から積極的、攻撃的な営業方法と振幅の広い生き方を学ばせてもらった。

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「頭で考えるな、へそに聞け」

元・泉洋服店社長・泉 喬氏(故人)
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熊本の地域一番店・泉洋服店の社長である。地元では100年以上続いている店は珍しいので、知らない人がいないほど名が売れている。インターナショナル・テーラーズクラブ(ITC)の会長をされていたので事務局として、総会の打ち合わせ、開催場所や講師の選定などの要件でお会いする機会が増えた。
回を重ねるごとにこの人の人間的な魅力に引き込まれていった。

弱冠25歳にして組合の役員となり、地元はもちろん、東京にもたびたび出かけて活躍された。
大阪の羽曳野にある「新しい道」に入会され、自分自身の修養にと1年間に3回、4回は大阪にこられ、1週間ぐらい道場に滞在されていた。

新しい道は宗教団体ではなく、今日の日本の現況を憂い、日本の将来をもっと明るいものにするための集団である。それに必要な指導者を育てることを目的とした団体と聞いている。

メンバーも錚々たる人が揃っているということだ。泉さんも団体の役員、自店の用事などでただでさえ忙しい中を特別に時間を割いて、泊まり込みで修業されていた。
あまりの、のめり込みの激しさに家族が心配して、店の者をツケウマとして寄越されたこともある。その結果、変な宗教団体ではなく、立派な精神修養の場であることがわかり、安心したというエピソードが残っている。

大阪へ来られた時は必ず事務局に寄っていただき、ITCのことばかりではなく、政治・経済に関すること、環境問題、エネルギー、洋服業界のことなど、いろいろな話しを聞かせてもらった。いずれの話しも「泉哲学」に裏づけられたもので、一般の人の考えとは少し異なっていた。
しかし、唯我独尊の孤立した考えではなく、多くの人になるほどと思わせる説得力があった。

「頭で考えるから判断が狂う、判らない時は『へそ』に聞け」と、言われていたのが印象的だ。詳しいことは知る由もないが、言わんとしていることは、漠然とはしているが、判るような気もする。

人間を含めて動物はすべて自分の武器とする物で栄え、その武器で滅びる。マンモスは大きな牙で沢山の餌を取り巨体を維持した。しかし、餌が少なくなると大きな体を持て余し滅んでしまった。人間の武器は頭脳である。その頭脳がダイナマイトを発明し、大量殺掠を目的とした原子爆弾を作った。

オゾン層を破壊したのもダイオキシンなどの公害をもたらしたのも人間の仕業である。
もちろん便利な機械や道具も沢山作った。
原爆の暴発か遺伝子の異常かよく判らないが、人間が滅ぶとしたら優秀な頭脳が原因になるだろうと考えられる。

「へそ」を手繰れば皆親戚

だから「頭で考えずに腹に聞け」というのではないかと自分で判断している。中国でも丹田と言って腹の下を大切に扱っている。一番気の集まる所でもあるらしい。

おへそは胎児のときに母から栄養をもらう大切な器官である。へそによって母とつながり、その母はまたへそによって母につながる。へそを中心にどんどん先祖を手繰っていくと日本人全員が親戚ということになる。
このように考えると人と争ったり、まして戦争などは出来そうにもない。

へそがものを言うという発想は少々変わっており、面白いではないか。
そういえば、ものに動じない人を「腹の据わった人」というし、これが黒く変色すると「腹黒人間」と、忌み嫌われる。

泉さんは何事も一つレベルの高いところで考える人で、それでいて威張らず、人間的な魅力にあふれる人柄の持ち主である。
特攻隊の生き残りだからこんな考え方が出来るのだと、ご本人は言われていたが一般のテーラーの考えと少し間を置いた思考は、聞く人にある種のカルチャーショックを与えた。

日本の将来、国民のモラル、環境問題などに対する独自の意見、エネルギーに関する問題はもちろんのこと洋服業界の将来などを少し違った視点で、客観的に観察する優れた洞察力は素晴らしく、この人の話を聞いていると、日頃やっていることが、ちまちましたものに思えてならないから不思議だ。
哲学の大切さを泉さんは教えてくれた。

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世界に例がないからやる

元・英國屋会長・小林新三郎氏(故人)

銀座に本社を置く英國屋の社長、会長を務められた人である。英國屋は全国に高級注文洋服店を40数店持つ世界でも例がない存在である。

安い既製服を売る店ではチェーン・オペレーションは珍しくないが、製造、販売ともに手のかかる注文洋服のチェーン店というのは本場の英国をはじめとして、世界のどの国でも例を見ない。例がないということはそれだけで運営が難しいことを物語る。

同社の創業50周年記念社史を編纂することになり、同氏とこれまで以上に親しく話をする機会が増えた。全日本洋服組合連合会の理事長を2年間務めている間に、国際注文洋服業者連盟の世界総会を東京で開催、大盛況の内に幕を閉じ、内外の参加者から行き届いた運営ぶりを賞賛する言葉が述べられた。

その上、心配された財政面でも、余裕を残し、組合事務局の土地と建物を湯島天神の側に買い求めた。
小林さんは資金の固定化を嫌って、自分の店では、本社、支店ともにすべてレンタルですましているのに、事務局は後々の財産になると買い求め、周りの人を驚かせたり、喜ばせたりした。

こんなエピソードを知っているだけに、経営能力は並のものではないことを熟知していたつもりだが、実際に会って親しく話をしてみると、噂以上のものであった。

洋服と銀座に惚れ込んだ天才商人

小林さんは戦前に銀座の一角で小林洋服店を開業したが、戦争のためやむなく店を閉めて、奥さんの里である徳島に身を置いた。戦争が終わると、身体に溢れる商魂を抑え切れず、焼けて何にもなくなってしまった銀座に単身で帰ってきた。

まず、戸板の上に商品を置き、何でも屋を開業した。物資不足の折りから店は大変繁盛した。次に銀座ハットという帽子屋を経営、5つの店を持つまでに業績を伸ばしたが、毛織物の統制解除を待つための一つの手段だったらしく、統制解除になると帽子店は従業員に譲り、すぐに注文洋服店に業態変更した。

それほど洋服と銀座が好きだった。というのは若いころ神田の大瀧兼蔵商店という毛織物卸商に勤め、洋服地についての知識を習得し、その後、銀座の「銀座・カワセ」で、洋服技術、ファッション、経営の勉強を万全を期していたからだ。独立に備えて上得意のお客さんを50人ほどつかんでいた。

満を期しての小林洋服店の開業だが、戦争という異常事態により、店を閉めなければならなかった。
「何時かこの銀座に戻って洋服店を開業してみせる。」情念は戦時下でも衰えず、逆に心の中で大きくなるばかりであった。

銀座に三店、点を線、そして面に

2度目の勤めとなった「銀座・カワセ」の母体は「いさみや」という婦人洋装店だった。「いさみや」はモスリンなどの和装用品を扱っていたが、洋装時代に変わるのを予測して、婦人洋装店に変身した店で、チェーン形式で30店ほどの店を運営していた。

米国でもチェーン店の運営に試行錯誤をくり返していた時期だけに、「いさみや」の経営方法は、各方面から注目されていた。英國屋のチェーン運営の発想の原点はここにあったのかも知れない。

創業当初は洋服を売った代金を持って、神田の服地卸商を回り、良い商品を仕入れた。長年の経験で良いもの選ぶ目を持っている。羅紗屋さんが現金を持って仕入れに行くと喜んでくれるのを一番よく知っていた。こうして仕入れては売り、売っては仕入れるということを毎日繰り返し、どんどん信用を積んでいった。

多くの人は銀座に本店があれば大阪あるいは名古屋といった大都市に支店を持つのが当たり前というか、常識になっている。ところが、小林さんの発想は違っていた。同じ銀座の、それもあまり離れていないところに3つの店を持った。これには銀座の旦那衆も驚いたらしい。

こんな狭い地域で3店も出店すると、支店同士がお客さんの取り合いとなり、うまくいかないのではないかと心配されたが、小林さんは、点を線にして、取り囲んで面にする作戦をあえて採った。
そうすることで、その地域で圧倒的な力を発揮にすることが、何よりもの宣伝になると考えた。ここらは一般の人が真似のできない発想である。

この戦略は見事に成功した。それぞれの店はそれなりの客が定着して、ほとんどバッティングすることはなかった。銀座での成功はその後に展開される地方への進出の原動力としても役だった。

コンピュータに負けない「勘ピュータ」

修業時代の友達、あるいは何らかの形で接触のあった人脈を大切にし、その人たちの個性にあった仕事で協力を求めた。人脈がいかに大切かということは、英國屋の業績の伸びを見るとよくわかる。

新しい店を出店するときの立地条件を判断する能力は天才的なもので、車に乗っていてもよい立地で出店の可能性が高い候補地を見付けると、車を止めさせて独特の勘を働かせて正否を判断する。
とはいうものの、小林さんも生身の人間だ。
時には良い立地だと思ったところでも、成績の上がらない店が出来てしまう。

この店はだめだと分かると撤退を決意するのも早い。それを店長の責任にせず「こうなったのは自分の責任だ」として、次の機会には頑張るように励ます。

英國屋はどの店も共通のイメージを持っている。高級注文洋服にふさわしい雰囲気を演出しているので、内装にかなりお金がかかる。撤退した店の代わりに新たな店舗を探しその内装材料を再利用して無駄にしないようにする。スクラップ・アンド・ビルドが低コストで出来る。

とにかく時代を見る目は早い。不況で売り上げが落ちると、一流店の面子に拘らず値段を思い切って引き下げたこともある。商売の天才でもあり、消費者心理をうまく読む能力は他の追随を許さない。
暇を見付けてあちこちの店を見て回るが、店に入った瞬間にその店の趨勢が判断できるようで、子息の小林明氏が得意のコンピュータでシミュレーションした値とほとんど差がなかったというから、天与の「勘ピュータ」の威力は大したものである。

例えば商品の展示にしてもビジネススーツ向きの生地は地味なものが多く、売れ筋とはいうものの、渋く格調の高いものばかりを展示していると、店が暗くなり商品の魅力までなくなってしまう。そこで4着に1着ぐらい、そこそこ派手目の服地をはさんで展示すると、お互いに引き立てあい、地味なものも、派手目のものも両方とも売れる。

また、お客さんが自分で着るもの以外に進物として使ってもらえば、もっと売り上げが伸びるはずだと、贈答品用のケースやカードを工夫した。銀座の海苔屋さんが年末、中元の季節になると、店の前に客が列をなすのを見て得たのがヒントだという。

とにかく何時も何か新しいもの追い、社員にも新しを求めた。事務所の机の並べ方も絶えず変化させるように社員に注意していた。というのは配置を変えると発想も変わってくる。同じ席に座って同じような環境にいると変わった発想は出てこないからだという。
この小林さんからは消費者心理の読み方を勉強させてもらった。

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