人にはいろいろな因縁がある |
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「人」という字は二つの棒がお互いに支え合った形になっている。どんなに能力があっても1人の人間のやることはしれている。ある時は支えてもらい、ある時は支える。それが人生である。 |
豪放磊落、細やかな神経も持ち合わせる初代日装社長・堀田 勇 氏(故人) |
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関西大学の大先輩である。明治45年、須賀市の出身。昭和12年に中華民国維新政府の特派員とし中国に派遣され、新聞記者として活躍した。終戦で日本に引き上げた後、全日本洋服組合連合会の一大事業である1500ページに及ぶ「全服連総監」を加藤三郎、松本佐智子両氏とともに完成させた。 高度のマナーを社員に求める礼儀にもきびしく、旅館に宿泊しても脱いだ浴衣をきちんとたたむよう注意を受けた。 |
泉のように湧くアイデア元・二代目・日装社長・加藤三郎氏(故人) |
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大正11年、小田原市の出身。幼少のときより、抜群の記憶力を持ち、周囲の人をして「神童」と言わしめた明晰な頭脳の持ち主。大志を抱き中国に渡り、報道関係の仕事に着いていたが、終戦で望みが果たせず帰国、燃え盛る向学心を押さえ切れずに、明治学院大学に入学しなおした。 何時も笑顔、ソフトタイプの営業いつもニコニコ、笑顔で人に接するため、業界の評判も上々だった。 |
愛社精神と仕事への誇りは天下一品元・日装常務・松本佐智子氏 |
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山積みの仕事を正確にてきぱきこなして行く。電話の対応は、一オクターブ高い 基本を大切に、間違いを事前に防止創業者堀田社長の薫陶よろしきを得て、基本を大切に、念には念を入れ、間違いを事前に防ぐ仕事の運び方、そして全身全霊を会社にささげたような強烈な愛社精神と自分の仕事に対する高い誇り・・・どれをとっても他人には真似の出来ないことばかり。 |
一人十役、高潔な人柄が顔に
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大阪・難波にある新歌舞伎座の一つ西の通りで営業している丸三洋服店の社長・加納栄二氏は全日本洋服組合連合会、大阪府洋服協同組合の理事長を務めた人である。 仲人、家系図、写経、早起きして奉仕公私共に忙しいのに、仲人を引き受け86組の幸せカップルを作り上げた。実弟の乾さんが14組の仲人をしたので、合わせて100組の新しい家庭ができたことになる。 「モーニング5着出世論」を提唱本業の洋服を通じて「モーニング5着出世論」を提唱したのもこの人だ。 |
七十過ぎて新規事業に尽力元・日装相談役・瀧口武雄氏(故人) |
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堀田初代社長の関西大学時代のポン友。私の大先輩でもある。日本洋装新聞社創業時代にはヴァンクロスというスポーツシャツの会社を経営していた人である。自分の会社の近く塩町に日本洋装新聞社の事務所を見付けてくれたのも、この人だという。 |
「頭で考えるな、へそに聞け」元・泉洋服店社長・泉 喬氏(故人) |
熊本の地域一番店・泉洋服店の社長である。地元では100年以上続いている店は珍しいので、知らない人がいないほど名が売れている。インターナショナル・テーラーズクラブ(ITC)の会長をされていたので事務局として、総会の打ち合わせ、開催場所や講師の選定などの要件でお会いする機会が増えた。 「へそ」を手繰れば皆親戚だから「頭で考えずに腹に聞け」というのではないかと自分で判断している。中国でも丹田と言って腹の下を大切に扱っている。一番気の集まる所でもあるらしい。 |
世界に例がないからやる元・英國屋会長・小林新三郎氏(故人) |
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銀座に本社を置く英國屋の社長、会長を務められた人である。英國屋は全国に高級注文洋服店を40数店持つ世界でも例がない存在である。 洋服と銀座に惚れ込んだ天才商人小林さんは戦前に銀座の一角で小林洋服店を開業したが、戦争のためやむなく店を閉めて、奥さんの里である徳島に身を置いた。戦争が終わると、身体に溢れる商魂を抑え切れず、焼けて何にもなくなってしまった銀座に単身で帰ってきた。 銀座に三店、点を線、そして面に2度目の勤めとなった「銀座・カワセ」の母体は「いさみや」という婦人洋装店だった。「いさみや」はモスリンなどの和装用品を扱っていたが、洋装時代に変わるのを予測して、婦人洋装店に変身した店で、チェーン形式で30店ほどの店を運営していた。 コンピュータに負けない「勘ピュータ」修業時代の友達、あるいは何らかの形で接触のあった人脈を大切にし、その人たちの個性にあった仕事で協力を求めた。人脈がいかに大切かということは、英國屋の業績の伸びを見るとよくわかる。 |