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平成2年〜11年(会社人間から社会人に)

幼少時は弱く,次第に元気に

幼稚園へ行くまでは体が弱かったらしい。風邪を引いたり、腸をこわしたり、湿疹ができたり、一つ直れば次というようにエンドレステープよろしく、病気になったそうだ。兄を小さい頃に病気で亡くしているだけに、両親にはずいぶん心配をかけたようだ。

癇虫も胎内で飼っていたようで、キィキィ甲高い声(このことを黄色い声というのかもかしれない)でよく泣いていたいたということだ。

虫封じとかいって小児針につれていかれた。どんなやり方をしたのか知らないが、痛かったという経験はない。子供のご機嫌をとるためか、天井からスプリングの力で回るセルロイド製のシャンデリアのような形をしたおもちゃがぶら下げてあり、回るとオルゴールのような音が聞こえてくる。物珍しくあちこちを見渡しているのも束の間、直ぐに睡魔におそわれて寝てしまう。

夏になるとこれが大きな団扇に変わった。天井からスプリングで引っ張られ、反対側には紐が床まで降りていた。この紐を引くと団扇が動きスプリングの力でもとにもどる。
その際、優しい風が天井から舞い降りてくる。
私には色艶やかなクルクル回りより、なぜか大団扇の方に興味があった。

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急性肝炎で十日休んだだけ

小学校(当時は国民学校)に入学してからはあまり病気をしなくなった。もちろん、戦中と戦後しばらくの間はろくな食事をしていないので、栄養失調状態になり、それに伴うシモヤケ、夕方になると目が見えにくくなる、ビタミンA不足が原因の夜盲症などには悩まされたが、食糧事情が改善されてくると自然に治っていった。

中学校、高校、大学と通して元気で過ごした。もちろん社会人になってからも病気で休んだのは数えるほどしかなかった。

難病に罹った現在は健康保険に助けられ感謝しているが、元気なときは何でこんなにお金を払わなければならないかと腹立たしく思ったほど健康だった。
ketsuatu
一度、洋服組合の行事として行われたファションショーの準備で疲れがたまり、急性肝炎に罹ったことがある。入院を勧められたがファッションショーが終わったら、十日間絶対安静にするからという約束で、お医者さんに自宅療法を許してもらったが、このときに欠勤しただけである。

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坐骨神経痛、一過性虚血発作といわれ

昭和60年頃、股関節から腰にかけて痛みを感じ、長時間座敷に座れなくなる。職業柄座敷で座っての会議や食事に出席することが多い。これは困った。病院で診察を受け、レントゲン検査もしたが、頸椎,脊髄、腰椎など骨には異常なしということで、坐骨神経痛との判決を受ける。

しかし、この判断は間違っていた。高周波による温熱療法、ストレッチャーによる腰の引き延ばし、アリナミンの服用などの治療を施してもらったが、一向に効果は現れなかった。
shinkansen
東京出張の帰りの新幹線で缶ビールを買った。アルコールは苦手で、普段はあまり飲まないのだが、この日はよほど喉が乾いていたのか、発車間際に思わず手が出てしまった。車内で半分ぐらい飲んだところ、気分が悪くなった。寝ていると直ったが、いつもと体の感じが違っていた。

しばらく後、会社で仕事をしていると、頭がクラクラした。フロアーが浮き上がって傾斜がついているように見える。近くの医者で血圧を測ってもらうと、最高が160、最低106に急上昇していた。

それまで低血圧気味で、最高が106ぐらいだったので、これではクラクラするのは当たり前だ。それよりも脳梗塞の恐れがあるので大きな病院で脳の検査をするようにアドバイスがあった。

その頃は、箕面に住んでいたので箕面市民病院で頭のCTをとってもらった。結果は異常なしで、一過性の虚血発作と診断された。CTには写らない程度の細い血管が梗塞しているのだろうという診断、というよりも推察である。

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歩幅が狭く、前傾姿勢、ゴルフも休会

何時からかは自分でも分からないが、左足が上がりにくくなり、歩幅も小さくなっていた。それも人に指摘されて分かったので、自分では少し変だなぁという程度の感じ方だった。

ゴルフに行っても球を追って同じように歩いているのに、いつの間にか他の三人に先を越されて、一番後ろを歩いている。グリーン上では気をつけないとすり足になって、スパイクで芝を傷付けてしまう。

16ホールを過ぎると、後少しでアップできるという気のゆるみか、17ホールか、最終ホールで足がよく痙攣した。ゴルフをした翌日まで疲れが残るようになった。
こんな状態でプレーをしていると、パートナーに迷惑を掛けるので、ゴルフ場には休会届けを出し、ゴルフをしなくなった。

元気なときは年をとってもゴルフぐらいはできる体力と経済力を持っていたいものだと、仲間と語り合っていたのに。残念なことだ。

近所の病院の院長が前屈みで歩く姿を見て、パーキンソン病の疑いがあると言った。日装の二代目社長・加藤三郎氏がこの病気に罹ったので、難病だと言うことをよく知っている。この病気の権威者・先生が勤められている国立療養所・宇多野病院で診察してもらうことにした。

京都といえども北のはずれ、映画村で有名な太秦のまだ向こう側、嵯峨野の近くで、箕面の自宅から車で二時間ほどかかる。MRIの新鋭機で詳細な脳の断層写真を撮ってもらうが、特に異常は見られなかった。分かったのは右の脳が少し大きく、左が人並み、小脳が少し小さいということだけ。

右脳は芸術、左脳は計算、小脳は運動を担当しているくらいは知っているが、大きいと良いというものでもないので、どのように解釈していいのか分からない。総合判断でパーキンソン症候群と診断され、薬を飲んで様子を見ることになった。

平成6年に京都の病院に来るのに時間が掛かることを説明し、国立療養所・刀根山病院(豊中)を紹介してもらった。
この病院の神経内科・姜進(神野進と改名)先生もパーキンソン、筋ジスでは有名な人である。

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ヒットラー、ケ小平、江戸川乱歩も同病

パーキンソン病はジェームズ・パーキンソンが1817年に初めて報告した病気で,中高年になってから症状がではじめる。
典型的な症状は、ふるえ、筋肉が堅くなる、動作が緩慢になる、姿勢反射障害(倒れやすい)などがあげられる。

中脳の黒質とよばれる部分や大脳の脳基底核とよばれる部分の神経細胞の変質と、細胞数の減少が認められるが、その原因は未だに分からず、難病として特定疾患の一つに指定されている。

ドイツのアドルフ・ヒットラー、ソビエトのブレジネフ、中国のケ小平、アメリカのプロボクサーでアトランタ・オリンピックのとき、震える手で聖火を持ったマハメド・アリ、推理作家の江戸川乱歩などがこの病気に罹っている。

最近のニュースではローマ法王ヨハネ・パウロ2世がパーキンソン病に侵されているとする記事が、イタリアの週刊誌に掲載されたという。
法王の左手が震え出したのは90年代初めからで、顔面の硬直や前かがみでゆっくりした歩行といった同病の他の症状もみられていた。

 しかし、ローマ法王庁はこれまで、手の震えは81年の暗殺未遂事件で神経系が侵されたことが原因などと説明してきたが、世間の風評を認める形で、法王がパーキンソン病であることを、法王庁の関係者が公にした。これらの人々の共通点は、与えられた任務を真面目に遂行するという性格の持ち主ということ。

難病だが末期ガンのように直ぐに死に神が迎えに来る心配はなく、病気と仲良くしていると、かなり長持ちするらしい。

しかし、多くの人は直す方法が見つからない、この難病に罹っていると聞かされると、落胆して病気の進行を早めてしまう結果となる。

私の場合、全く気にしていないといえばウソになるが、病気になったことについては、悲しんだり、嘆いたりはしなかった。そうしても、病気が悪くなることがあっても、良くなることがないからだ。

その代わり人がよいと言うことは可能な限り挑戦してみた。
ハリ、灸、温灸はもちろんのこと、クリスチャンによる「気」を背骨に入れる治療、炭素棒の電極に電気を流して発する光を当てる光線療法、筋肉をペンチの化け物のような道具で挟んで、捻っては戻す捻筋法ともいえる荒療治。
ashiura
水中ウォーク、マシンジムでのトレーニング、足裏もみ健康法、青竹踏み、漢方薬、健康食品、気功、ヨガ、太極拳などである。

現在続けているのは気功、太極拳とマシンジムである。散歩もするよう心がけている。

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ストレスで全治1年の胃潰瘍に

パーキンソンの他に胃潰瘍も背負い込んでしまった。ある日入浴をしていると急に気分が悪くなり、直ぐに風呂から出たが冷汗がだらだら流れ、意識が薄らいでいく感じで、1時間あまり裸で寝ていると、気分が収まってきたので就寝した。

土曜日の夜のことなので、日曜日は家で安静にし、月曜日の朝一番にばばクリニックに行き、胃カメラで覗いてもらうと胃の上部、食道の横に大きな潰瘍が見つかった。

上部にできる潰瘍は質が良くないとわれているそうで、馬場先生はてっきりガンだと思い阪大病院への紹介を考えていたらしい。幸い検査の結果、ガン細胞は見つからなかった。しかし、全治一年間の重症だと宣告された。昔だったら即手術となっていたぐらいひどかったらしい。

病気にはストレスが良くないということなので、平成6年に代表権を返還して、相談役になった。幸いなことに代表者が2人いたので、業務には支障をきたさなかった。

人間関係、数字、帳簿、押印、電話、クレーム、すべてから解放され、精神的な負担は軽くなった。景気の良いときは掛かってくる電話も、うれしい話、良い話が多いが、景気が悪くなると嫌な話、暗い話ばかりになる。

海外に出たときもつくづく思ったが、この電話というものは、アポイントなしで部屋に入り込んでくるセールスマンより煩わしく思うことがある。
海外まで追っかけてくる電話は数が少ないので、ほっとした気分になる。電話の便利なことは充分分かりながらのグチである。
野蛮人と言われるかも知れないが携帯電話を持ちたいとあまり思ったことがない。

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横行する「マーケットクレーム」

繊維業界では「マーケットクレーム」と呼んでいるが、自分の見込み違いで在庫を抱えたのに、それを生産したメーカーに押しつけようと、色が若干違うとか、指定より織物の幅が狭いとか俗にいう「イチャモン」を付けてくる。

私たちの会社では印刷物も手がけている。ある時、某会社に印刷物を納品した。しばらくして、その会社を訪問すると納めた印刷物を三つの山に分けているではないか。赤みがかったもの、黄みがかったもの、青みがかったもの、というような分類をして、1万部納品したうちで色の揃った3,500部は引き取るが、後のものは色を統一して刷り直すか、値引きのどちらかにして欲しいという。

色分け作業は難題を吹きかける材料を作るための作業だった。
カラー写真の印刷は原則的に4色でやっている。シアン(青)、マゼンタ(赤)、イエロー(黄)ブラック(黒)である。

理屈の上では黒は青、赤、黄の三原色を掛け合わせればできることになっているが、写真が迫力のない寝ぼけたものになるので黒も使っている。これはコンピュータのプリンターも同じ原理だ。

紳士服の場合、服地の微妙な色合いを再現するために、あと1,2色を補色として追加することもある。
使用する用紙によって違うがカラー印刷は1インチの長さに150ほど並ぶ小さな網点で構成され、それぞれの色によって網の角度を変えてある。

これが0.0何ミリの誤差が生じても、色は青にころんだり、赤みがかったりする。印刷機の刷り初めと後ではインクの馴染み方も違ってくる。
思い切り厳しい目で検品すると3分の1しかパスしないということになる。それも明らかに色の違いが分かるのならクレームの対象にもなるが、比べてみてようやく違いが分かる程度なら、使用上何ら差し支えがないはずだ。
3分の1から始めて、請求書の半額に値引きさせようという作戦は見え見えだ。

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「一万円札をお持ちでしょうか」

こんな不逞の輩には「1万円札をお持ちでしょうか」と聞くことにしている。相手は訳が分からないうちにも、「おぅ、持っているよ」と自慢げに何枚かの万札をだしてくる。5、6枚机の上に並べて、色の違いを見てもらう。明らかにインクの濃淡のあることが分かる。

そこで紙質も一定でインクも厳重なチェックを受け、大蔵省印刷局が責任を持って印刷したものですら、これだけの色の差が出ている。それでも誰も色の差に気がついていない。だからこの程度は良しとしてもらわなければ、どこの会社で仕事をしても同じ結果になりますよ。と、詰め寄る。

相手にしてもいったん振り上げた手を簡単には降ろせない。幾ばくかの値引きに応じる。
「泣く子と地頭には勝たれぬ」の諺通りである。
ビジネスをしていると、こんなストレスが次々に起こってくる。

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道路で転倒、負傷、引退を決意

平成8年の12月、あと何日かで正月と言う時である。手に書類を持って会社から帰るために地下鉄の駅の方に向かって歩いていた。歩道が修理中で1センチ弱の段差が出来ており、これに引っかかり、前につんのめるような形で転倒した。

眼鏡の縁でおでこを切り前歯を一本折った、というよりも根本から抜けてしまった。ずいぶん血が出ていたと見え、道を行くビジネスマンの3人組が持ち合わせのティッシュペーパーを全部提供してくれた。

地下鉄のトイレで鏡を見るとあちこちに血が付いている。駅員に救急病院を聞くと一駅反対の方向に向かったところにあるとのことだ。それならと自宅近くの南千里駅まで帰って、そこからタクシーで吹田市民病院へ行き手当をしてもらった。

車内では喧嘩でもしたのかと怪訝な目で見られたが、知らぬ顔をして座っているしかなかった。救急車を呼ぶのも大袈裟だし、駅にちょっとした救急箱でも備えてあれば助かるのにと思った。

達磨さんが転んだ・・・と、本人はそれほどに深く考えていなかったが、家族がこれを契機に会社を引くように強く主張した。

いつでも身を引けるように代表権を返還し、週3日出勤にするなどの準備はしてあったが、会社を第一義において暮らしてきた会社人間を40年弱やってきたので、一抹の寂しさは残るが、命と引き替えにはできない。

ワークホリックにピリオドを打って、家庭、地域社会を中心にした生活に切り換えようと決心した。「面舵いっぱい」の気分で・・・。

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アメリカ生まれの新鋭機で歩行訓練

平成10年7月に刀根山病院の姜進先生からアメリカ製の新しい機械が入ったので歩行訓練をしてみないかと奨められた。パラシュートのようなウェアを着て腰をワイヤーでつり上げる装置を使っての治療だという。

思っていたより単純な機構で、空気圧で身体を引き上げ体重を1、2割軽くしておいて、トレッドミル(ランニングマシン)の上を歩くことで、正しい歩行の勘をつかむように工夫された機械で、アメリカでは脳梗塞などで歩行に不自由をきたしている人のリハビリに使っているという。

神経内科の宮井先生がアメリカで機械を見付け、輸入したもので日本にまだ1台しかないらしい。パーキンソンに利用した例はここしかなく、いち早く新鋭機を利用して治療できたことを幸せに思っている。

理学療養士が一緒に歩きながら、歩く勘所を丁寧に指導してくれる従来からのリハビリが4週間、パラシュートが4週間、約2ヶ月の入院が必要だ。これまではかなりの重症者でなければリハビリが受けられなかったそうだが、この機械が入ってから軽症の者の治療もしてもらえるようになった。

前屈みの姿勢がかなり矯正され、少し歩いても息切れしていたものが、注意をして歩けば長い道も歩けるようになった。

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入院の暇つぶしに「自分史」の下書き

入院していても初めはいろいろな検査で忙しかったが、それが終わると週に3回、1回40分あまりの訓練がある。これとは別に、月曜日から木曜日までの毎日、集団によるリハビリが15分間、指先の動きをよくする作業療法が週に1回程度あるだけで、暇は充分すぎるほどある。

暇を利用して長年の懸案だったこの「自分史」を書き始めようと決心した。
63歳にして入院初体験である。原稿の下書きを終え、テープに吹き込んで、退院したら音声入力しようと、手抜き工事を目論んだが、これは見事に失敗、テープの声はコンピュータにとっては他人に聞こえるのか、宇宙人の手紙のような訳の分からない文字が出てきた。

退院してから、同じものを生演奏ならぬ、生の声で入力し直しとは情けない。
しかし、私よりかなり後で発症したのにもう車椅子が離せないという気の毒な人もいることを考えると、このようにコンピュータに向かっていられるのはありがたいことだ。

病気に罹ったのは神のいたずらで止めようがなかった。それも、前社長と2人が対象になるなんて。しかし、「病人」にはならないように心がけている。病気に負けると「病人」になってしまう。医者も「病気と仲良くして、できるだけ現状を長く保つように」とアドバイスしてくれている。
私は思う。単に仲良くしているだけなら、知らないうちに土俵際まで追いやられ、土俵の外に押し出されて一巻の終わりとなる。

私は「仲良くしているふりをして、隙を見付けるとくるりと体を返して、反対に押し出してやろう」と考えている。良い意味で医者に「不思議なことがあるものですね」と言わせることを一番の楽しみにしている。

そうこうしているうちに病気の原因も判り、新しい薬ができるかも知れないし、遺伝子の組み替えでもとの身体に戻れる可能性もでてくるだろうと楽観している。医学の進歩は日進月歩、いや秒進分歩である。新聞の健康欄を毎日楽しみにして見ている。

パーキンソンについての詳細は別サイト
『吾輩は「パーキンソン」である』をご覧ください。

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