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国民学校を生んだ時代背景
| 私が生まれたのは昭和9年である。誕生の約3ヶ月前の9月21日、最低気圧911.9ヘクトパスカルという超弩級の室戸台風に襲われた。大阪での最大風速は60メートルを超えた。木造の小学校校舎164棟が倒壊して676人が犠牲となった。家屋の全半壊は4万2千戸。大きなお腹を抱えた母親は身の細る思いをしたことだろう。 東北地方では冷害で米がほとんど獲れず大凶作に見舞われた。弁当を持ってこれない欠食児童が増加,女子の身売り、自殺者も増えて社会問題となった。 事件としては帝国人造絹糸株の売買をめぐっての背任贈賄事件で大蔵省の高級官僚が逮捕された。その取り調べは苛烈で拘留も長期に及んだことから、「司法ファッショ」と議会で問題となった。 |
| ファッショと言えば第一次世界大戦でドイツ軍司令官として、ロシアを相手に大活躍したヒンデンブルグ大統領の死去にともないアドルフ・ヒトラー首相が大統領を兼任して「総統」となった。ナチスの迫害で名をなした独裁時代がここに始まったのである。 ドイツと友好関係にあった日本でも軍部を中心としたファシズムが進行しつつあった。 国民学校の構想も実はドイツから学んだものである。 日本でのファッショ化が目につくようになったのは、昭和6年(1931)の満州事変以来である。9月18日の夜、関東軍参謀は南満州鉄道の柳条湖付近を爆破するように命じた。場所は奉天(北朝鮮5人の亡命で有名になった瀋陽)の北部。これは事件を中国側の仕業と見せる関東軍の謀略だった。 |
| 口実を得た関東軍は「自衛」という名の下に19日、奉天、長春などの都市を占領する軍事行動に出た。日本政府は事態を拡大せず、穏便に収める方針をとった。中国側の提訴により国連も双方が撤収するように決議したが、関東軍の独走は止まらず、中国の北東部および満州鉄道沿線の主要都市を占領してしまった。 昭和7年(1932)3月に設立された「満州国」を支配下に置くが、国連と意見が対立して脱退することになる。 |
| 中国軍との戦いは昭和8年(1933)5月の停戦協定で終わったかに見えたが、昭和12年(1937)7月7日、蘆溝橋で日中両軍が衝突した。現地で停戦協定が成立したが、政府は不拡大方針をくつがえし華北派兵を決定、日本軍は華北で総攻撃を開始した。 8年間にわたる日中全面戦争へと発展していった。政府はこの事件を「北支事変」と呼ぶと公表したが、後に閣議決定で『支那事変』と変更した。「北支」から「支那」へ、ローカルな紛争が全面戦争へと広がっていったことが良く判る。さらに、この事変は太平洋戦争への導火線の役を果たした。軍部の独走はこれだけではない。 昭和7年の上海事件、5・15事件はいずれも海軍幹部によって引き起こしたものである。 |
| 古くは日露戦争で勝利を収め、日中の紛争でも日本側に凱歌が上がった。大国を相手に勝利を手にした軍部のテンションは上がり放しの状態になった。昭和10年すぎからの、一連の動向は、いずれもっと大きな軍事行動の必要性を暗示するものと考えられていた。現在の軍事力の強化は、もちろんのこと、近い将来に備えるために、国家主義の進展にふさわしい人材を整えることを目標とした、教育改革の実施が求められようになった。 まず、昭和12年(1937)に教育審議会が設けられ、翌年末に提出された答申にしたがい、昭和16年(1940)4月1日より、全国の小学校が「国民学校」と名を変えた。 名だけではなく、授業内容も大幅に変わった。その最初の入学生がわれわれの世代だった。 |
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