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(その1)
奉安殿、御真影、教育勅語
| 私が大阪市立金塚国民学校に入学したのは昭和16年(1941)のことである。学校の裏門を出て道の向こう側には阿倍野斎場があった。地下鉄谷町線の延長により、昭和55年(1980)に廃線になってしまったが、平野と恵美須町を結ぶ、南海電軌鉄道・平野線のチンチン電車が走っていた。 学校は表門のある北側が低く、裏門になっている南側が高い傾斜地に建てられていた。 石段を20数段ほど上ると正面に、奉安殿があり、Uターンするようにして校舎へ入っていくようになっていた。Uターン箇所から校舎入り口までの間に二宮金次郎の銅像が建っていた。 第一番に教えられたのは、石段を上るとまず奉安殿に最敬礼をすること、奉安殿には失礼に当たるので、けっしてお尻を向けないように、二宮金次郎の銅像には奉安殿ほど丁寧にしなくてもいいが、礼をしてから校舎に入るようにということだった。 |

| 奉安殿の中には何が入っているのか、しばらくの間はナゾのままだった。先生に聞いても小さい子供には説明しても分からないと思ったのか、ただ「大切なものが保管されている」というだけだった。近所から通学している上級生に聞いてみると「御真影」という写真だと教えてくれた。とにかく校長先生以下、学校に関係するものがすべてが大切にしているものということは理解できた。 校舎の構造上入り口へ向かうにはどうしても奉安殿の方にお尻が向いてしまうので、毎日登校時には「これでいいのか」と後ろを気にしていた。 ある時、モーニングコートを着て白い手袋をはめた校長先生が、奉安殿から恭しく何かを取り出しているのを見かけた。 それは天皇、皇后両陛下の写真と教育勅語の入った桐の箱と日の丸の旗だった。長い間小さな胸にとどまっていた疑問が氷解した。式典を行うときの必需品が収められていたのである。 |
| 新学期が始まってすぐにやってくるのが4月29日の天長節だった。昭和天皇の誕生日である。昭和天皇の崩御により「みどりの日」となった。 現在の「天皇誕生日」は12月23日になっている。 収穫の秋になると、農業に重きを置いていたことを証明するかのように、俄然としてまつりごとが多くなる。「皇祖の神霊を祀る儀式」として、秋季皇霊祭が9月23日頃に行われた。 神嘗祭は10月17日。「新米で作った神酒・神せんとを伊勢神宮に奉る儀式」。 11月3日の明治節は「明治天皇の遺徳を偲んで」昭和2年に制定されたもの。戦後は一時廃止されたはずが、現在は「文化の日」となっている。 11月23日の新嘗祭には天皇が新穀を神に祀り、ご自身も口にされる、農業国としては重要な意味を持つ収穫祭。農業国ではなくなった現代の日本では「勤労感謝の日」と、名前を変えている。。 紀元節・2月11日 。日本書紀に記載されている神武天皇即位日を太陽暦に換算して決 めた。戦後廃止されたが、「建国記念日」として復活。 春期皇霊祭は3月21日頃の春分の日に、皇室が皇祖の神霊を祀る儀式を行う。現在は 「春分の日」。 他に元旦に行われる四方拝、1月3日の元始祭、1月5日の新年宴会などがある。 まだまだあるかも知れない。 |
| 戦前、戦中の祝祭日は皇室行事を中心に考えられたものである。神の子孫である天皇のまつりごとは、その赤子でる臣民は祝意を表して当然のことだとされていた。学校独自の行事は、入学式、卒業式、創立記念日ぐらいのものだった。その意味では学校の儀式の果たす役割は大きかった。 学校が生徒の参加を得て儀式を行うようになったのは、教育勅語発布直前の明治23年 10月7日に小学校令が公布された。翌年6月17日省令で「小学校祝日大祭日儀式規定」が制定された。 それによると、「御真影拝礼、両陛下の万歳奉祝、勅語奉読、校長訓話、式歌斉唱」で、 「一月一日には御真影拝礼・万歳奉祝、式歌斉唱を、それぞれ行なうこと」と規定されていた。 祝祭日の授業はななかったが、現在のように学校が休みで自由に時間を過ごしてよいというのではなく、儀式のためだけに登校しなければならなかった。 教科書や鉛筆の入っているカバンを背負っていかなくてもよいというのがうれしかった。 |
| 校門を入り石段を上がったところにある蔵のようながっちりした建物・奉安殿の重々しい扉が開かれ、恭しく御真影(天皇・皇后両陛下の写真)と教育勅語、日の丸を取り出して、式場となる講堂へ運ばれる。これは学童が登校してくる前に行われるようで、目にするチャンスは少なかった。 式の開始を待つ間でも、講堂の雰囲気は厳粛そのもので、現在のように自由闊達にいろいろなことを話し合うことはなかった。子供の心にも何か大切なことが行われようとしていることが読み取れた。 儀式規定はこと細かく定められていたので、金塚国民学校でも他校でも殆ど同じ形式がとられていた。 |

| まず、御真影の覆いを外すものは、校長、首席、主な教職員が当る。平の教職員は望んでも出来ない。壇上に昇降する前には軽く一礼する。壇上の適当な位地で敬礼をして、開扉をする。急にしたり、滞ったりしないようにする。開扉が終ると、その位置で敬礼をして壇を降りる。御真影の前は通らないようにする。特に目立つようなことをしたり、軽率なことのないように注意する。 校長は生徒の前に出て、正面に向って適当な所で止まり、そこで、やや屈体して慎みを表し、そのまま数歩進んで最敬礼を行う。次に元の位置に引き下って元の姿勢にもどして或所まで後退した後、元の位置にもどる。 一同は、学校長が最敬礼を行うと同時に最敬礼を行う。両陛下には別々に敬礼をしないで、一回だけ最敬礼を行う。 続いて国歌を歌うが、学校では二回連続して歌ってもよい。国歌は式場に参列する者全部で歌わなければならない。 |
| 勅語奉読。勅語謄本が御真影の近くに安置してある場合は、校長は御写真に対して敬礼し、進んで奉置の場所に至り、小蓋のまま奉読の場所に移し、更に袱紗のある場合には袱紗をとり、謄本をとって押戴く。巻物になっている時は、右手で紐を解いて元軸に手前から上を通して巻きつけ、紐と一緒に其の端を持ち、表紙だけ巻き、次に全体を開いて奉読する。奉読の前には、少し上体を前に傾けて恭敬の心を表す。謄本の高さは、拳が肩と同じ高さになる程度にする。奉読が終れば、謄本を巻き納めて押戴き、静かに小蓋の上に置き、小蓋を持って元の所に戻す。 |
| 勅語の奉読を拝聴する者は、校長が謄本を開いて奉読を始める際に、上体を前に傾けて謹聴し、奉読が終った後に敬礼して元の姿勢に復する。 勅語謄本が初めから奉読の位置に奉置してある場合には、学校長は進み出て、先ず御写真に対して敬礼し、次に奉読の位置について、先の場合と同様に奉読する。奉読が終れば、再び御写真の前に向を変えて敬礼して後、元の自分の位置に還る。 他から勅語謄本を捧持して来る場合は、正面から進んで卓子の上に置く。奉読者は敬礼をして、恭しくこれを受ける。謄本を捧持した者は、一礼して退く。 奉読が終った後には、捧持する者は前と同じく正面から進み出て、一礼の後之を捧持して退下する。 勅語奉読も学校長の訓話も、天皇陛下・皇后陛下の御写真奉掲の位置の御前に在ってすることを避けねばならぬ。殊に学校長の訓話は、勅語奉読の場合よりもいくらか下座に定めた方が適当と思われる。 校長先生が緊張するのも無理はない。一挙手一頭足に至るまで、こと細かく規定されており、校長の独自性やアドリブは一切許されていない。 |
| 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣 民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ 精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和 シ朋友相信シ恭儉己ヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓 発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦 緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕 ガ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン 斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古 今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ咸其 徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ 明治二十三年十月三十日 御名 御璽 国民学校の生徒にとっては用語が難しく意味は全くというほど分からなかった。濁点も半濁点も無く、もちろん句読点も省略されているので、読むことすら難しかった。しかし何年生の時か忘れたが、この勅語を丸暗記するように言われた。「そんな無茶な」という気持ちをぐっと抑えて、難しい漢字には仮名を振って、何回も何回も読み返しているうちに全文を覚えてしまった。 自分ながらに人間の学習能力とはすごいものだという実感を持った。この歳になって書かれている文の意味は概略では判るようになったが、単語のひとつひとつの意味は今でも理解できないものが多い。 |
| 以上のように儀式のマナーが事細かく決められている。当の校長はモーニングに白手袋姿で緊張のしっぱなし、聞く方も厳粛な雰囲気に押されて、身体をガチガチに硬直させている。この間は咳払い、鼻すすりなどは禁じられているので、無音の世界に入ったような静寂さに会場が包まれる。校長が袱紗を解いたり、勅語を箱から取り出すわずかな時間が非常に長く感じたものだ。 勅語、君が代、万歳、御真影、日の丸などを演出材料にしたハレ空間を共有体験して、現人神である天皇に対しての忠誠心を一層高めていこうという狙いが隠されていた。 校長の訓辞も文部省があらかじめ用意してある模範訓辞に多少手直しして語る程度で、個性は押し殺され、どの学校で聞いても似たり寄ったりの話で、全国共通の金太郎飴だった。 |
| われわれ生徒側では1、2時間、ほとんど訳の分からない言葉を我慢して聞けば、大嫌いな授業がないし、帰りには、紅白の饅頭が貰えるとあって、関心はそちらの方に向いていた。戦後、占領政策に沿って、祝祭日の儀式はなくなり、やがて祝祭日は国民の祝日と変わった。しかし、以前の祝祭日が名前を変えて、国民の祝日に変身していることも認識しておかなければならない。 大半のサラリーマン、学生は職場や会社が休みという程度の認識で、現在の名前、戦前、戦中の名称、その由来などに対して、無関心を装っているのは、どうしたのだろう。 祝祭日以外に学校独自の儀式の場合、例えば卒業式にも御真影が置かれ、教育勅語も奉読される。式の進行は次のような次第で行われれる。 1.入場、2.御真影開扉、3.君が代、4.勅語奉読、5.君が代、6.閉扉、7.修業証書受与、8.君が代、9.卒業証書授与、10.賞品授与、11.職員演説(送辞、答辞)、12.仰げば尊し、14.蛍の光 この後、涙、涙となるわけである。 |
| 仰げば尊し 作詞・作曲:不詳(スコットランド民謡) 一、 仰げば尊し我が師の恩 教えの庭にも はや幾年(いくとせ) 思えばいと疾(と)し この年月(としつき) 今こそ別れめ いざさらば 二、 互いに睦みし 日頃の恩 別るる後にも やよ忘るな 身を立て名をあげ やよ励めよ 今こそ別れめ いざさらば 三、 朝夕なれにし学びの窓 蛍のともしび つむ白雪(しらゆき) 忘るるまぞなき ゆく年月 今こそ別れめ いざさらば (明治17年) 蛍の光 作詞:稲垣 千頴 作曲:不詳(スコットランド民謡) 一、 蛍の光 窓の雪 書(ふみ)読む月日重ねつつ いつしか年もすぎの戸を 開けてぞ今朝は別れゆく 二、 止まるも行くも限りとて 形見に思う千万(ちよろず)の 心の端を一言(ひとこと)に さきくとばかり歌(うと)うなり 三、 筑紫(つくし)の極み 陸(みち)の奥 海山遠く隔(へだ)つとも その真心(まごころ)は隔てなく ひとつに尽くせ国のため 四、 千島の奥も沖縄も 八島のうちの守りなり 到らん国に勲(いさお)しく 努めよ我が背つつがなく (明治14年11月「小学唱歌集」 ) どちらの歌も時代背景により、歌詞を変えたり、特定の箇所を省略して歌われた。 |
| 祝祭日ではないが、毎月8日の「大詔奉戴日」には朝礼が行われた。これは昭和16年12月8日、米英に対して宣戦を布告したことを臣民に知らせる勅書を深く心に印象付けるための策略で、昭和17年1月より学校行事の一つとなった。 天佑ヲ保有シ、万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ、昭ニ忠誠勇武ナル汝有 衆ニ示ス。朕茲ニ米国及英国ニ対して戦ヲ宣ス、・・・ に始まり、例の通り難解な言葉が並んでいる。何故戦争が始まったのか、勅書には次のように述べられている。 東亜の安定を確保して世界の平和に寄与するのは天皇家代々の考えである。そのため列国と仲良くしてきた。 中華民国政府は事を構えて東亜の平和を攪乱している。米英両国は重慶の残存政権を支援して東亜の禍乱を助長し、平和の美名に隠れて、東洋制覇を企んでいる。その上同盟国を誘い日本の周辺に於ける軍備を増強、経済断交して日本を窮地に追い込んだ。 日本帝国は自存自衛のため、開戦するほかなかった・・・とある。 仕掛けた戦争か、仕掛けられた戦争かの論議の分かれ道である。 もちろん、戦争中のわれわれ臣民は、勅書の通り、やむを得ず始めた戦争であると信じていた。あるいは、信じさせられていたのかも知れない。なにしろ、月に1回は繰り返し、繰り返し聞かされてきたので・・・。 |
| 偉業を称え銅像が建てられている人物は少なくないが、日本全国、津々浦々に至るまで、小学校、国民学校の校庭に必ず建てられていたのが、二宮尊徳の銅像だろう。数の上では他の人を圧してダントツの一番である。 薪を背負いながら本を読む少年像は明治時代にも多く建てられたが、大正時代には何故か中断され、昭和になってまた復活した。昭和の復活は勤勉、勤労する姿を国民に普及させ、愛国心を向上させようという狙いから、時の政府が特に奨励したもので、大日本帝国主義のシンボルにされてしまった。 一番多く銅像が建てられたのは、昭和10年ごろというから、当時の政府の考え方の一端がうかがえる。戦争が終わると、銅像を取り外そうとする学校が増えたが、二宮尊徳は帝国主義者でもなければ、軍国主義者でもない真面目な一国民だったので、とんだ迷惑を被った被害者である。 |

| 尊徳は天明7年(1787)小田原の郊外で生まれた。豊かな農家だったが、尊徳が4歳の時、近くの酒匂川が氾濫して田畑を流されてからは、二宮家に貧乏神が住み始めた。尊徳の父は貧乏になっても人に対する施しは止めず、明日の食事にも困る赤貧状態となった。 悪いことは重なるもので、父がある日病気になってしまった。 父の代わりに酒匂川の堤防工事に出ていたが、子供の力では役に立たず、申し訳なく思った尊徳は夜なべして草履を編み、工事に携わる人に履いて貰うことで誠意を見せた。さらに余った草履を売って家計を助け、時には酒好きの父のために酒代とした。 そんな父も13歳の時に母と幼い2人の弟を残して天国へ旅立ってしまった。母親の苦労を幾分でも和らげようと、今まで以上に働いた。父が亡くなって2年ほどたったとき、長年の苦労がたたったのか母親も亡くなってしまった。 尊徳は叔父の元に、2人の弟は母の実家に引き取られバラバラの生活を余儀なくされた。 次々と襲いかかってる災難、試練をはねのけて、一生懸命に働き、20歳代で念願だった田畑を買い戻して、家の再興を図った。 その働きぶりが小田原藩主に認められ、荒廃した3つの村を復興させるように命じられ、十数年の悪戦苦闘の末に、平和で豊かな村を再興してその名をあげた。 貧乏で親からは食べるものもろくに与えられず、しかも、自分が十分に成長しない内に亡くなり、周りの人には親の恩恵にあずかることが少ないように思えたのに、絶えず親の恩の重さを説いて回ったと言うことだ。 |
| 江戸時代後期、下館藩は大洪水、大火などのため、藩の財政は極度に逼迫し、借金を返済するどころか、利息や藩士に払う俸給にも事欠くようになっていた。 文化9年(1826)から天保6年(1835)までの10年間に、藩の累積赤字は3万5千両を超え、下館藩はこれらの借財の利息はもちろんのこと、藩士の俸給すら支給できないほどだった。 天保8年(1837)、八代藩主石川総貨は尊徳に財政の立て直しを要請した。依頼を受けた尊徳は、藩の実情を調べ、生産者に直接携わらない藩士の俸給を2割8分減らすことにした。その一方で、農民に対しては逆に年貢を低くして勤労意欲を高めた。さらに新しい田の開拓も積極的に進め、生産性を向上することにより、見事に財政再建を成し遂げた。 |
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