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腹が減っては戦は出来ぬ
| 昭和16年(1941)の真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は、当初こそマニラ占領、シンガポール陥落と威勢がよかったが、翌年のミッドウェイ海戦で大敗してからは、坂道を転がり落ちるように、戦況は悪化していった。 大本営は、臣民(国民のことをこのように呼んでいた)の戦意を喪失しないように配慮してか、戦果は大きく、損害は小さくして発表していた。情報操作により一般国民には真相を知らされておらず、全く「藪の中」の状態だった。戦争末期には、あらゆる物資が不足し、食料が手に入り難くなったことなどの生活実感から、それとなく、日本に利がないことを感じ取っていたが、言論が統制されているので、だれもが口に出さなかった。 というより、日本は世界に類を見ない「神の国」であって、絶対絶命のピンチにあっても最後には神風が吹くなどして、神様が助けてくださるという「神州不滅神話」を信じていた。 その神風は玉砕に追いやられたサイパンでも、他の激戦地でも吹いてくれず、期待を裏切ったため、いささか頼りなく思われていたが、まだ本土は別格、最後の最後には必ず吹いてくれると信じていた人の方が多かった。 |
| 80パーセント完成したところで終戦を迎えたため、隠れた存在になっていた松代大本営がある。日本の敗色が濃くなってきた昭和19年(1944)、陸軍は大きな犠牲を覚悟して、日本本土での決戦を決意した。 戦いに負けるにしても、連合軍に最後の一撃を加え、国体護持など有利な条件を付けて戦いを終わらせようという作戦だった。 大本営、皇族、政府各省庁、NHKなど国の重要機関を東京から長野のへ移す遷都計画を極秘のうちに進めていた。 松代町の象山、舞鶴山、皆神山の3カ所に地下壕を掘り、 首都機能を移転させるというものだ。 昭和19年(1944)11月から敗戦まで約9ヶ月の間に総延長は10kmを越える壕を掘るという突貫工事だった。 |
| ピーク時には、3000人の日本人と7000人の朝鮮人が投入され、合計1万人に及んだということだ。自分の意志で松代に来たものもいるが、朝鮮人労働者の多くは、強制連行されたものである。ダイナマイトで発破を掛け、崩れた意志をトロッコで運び出す原始的な工法で危険な作業は朝鮮人にあてられていた。 1日2交替、12時間労働、飯場は豚小屋よりひどく、風は入る、雨は漏る、布団は藁入り、食料はコーリャンと豆が主体。井戸の水質は最悪、絶えず空腹感に襲われ、栄養失調で死者も出るという悪条件の元で働かされていた。 このような秘密事項が漏れないように、近くに住んでいた住民も、強制立ち退きを命じられた。一方では松代町西条の民家が借り上げられ、工事を指揮する人々のための「慰安所」が作られ、年若い朝鮮人女性たちが性的サービスを強要されていたという。 地獄と極楽を併設して、お国のためにとうそぶいていた当時の幹部はどんな神経の持ち主だったのか。 |
| 完成を間近に控え終戦となったため松代大本営は幻のとして、40年近く地下に潜ったままだった。昭和60年(1985)地元の私立篠ノ井旭高校の高校生によって、様々な悲劇の舞台になったこの地下壕を保存して、平和の尊さを伝えようとする活動を始めた。主旨に賛同する人が増え、市民運動に発展、昭和65年(1990)には長野市によって象山地下壕の一部が一般公開された。年間1万人の見学者があるという。市民グループにより平和ミュージアムの設立も考えられている。 もし陸軍幹部が考えていた本土決戦が行われていたとすれば、頑丈に作られた松代大本営は無事だったかも知れないが、本土は沖縄のような惨状を呈していたに違いない。 なぜ松代に大本営を置くことになったのか。その理由の一つに長野県は信州と呼ばれる。わが国は神が治める「神州」で発音が同じだというのがある。語呂合わせで国の命運を決められては、たまったものではない。 |

| ロシア牽制の役割を果たすために設けられたアッツ島の日本軍が全滅し、太平洋の最重要拠点であるサイパンが陥落するに至り、ようやく危機感が生まれ、遅れ馳せながらの政策が実施された。学童の集団疎開はそのうちの一つである。 「食べ物の恨みは怖い」というが、お腹が減っているのに、口に入れるものがないことほどつらいものはない。「腹八分目は健康のもと」などと言われているが、まだまだ食べたいのに、「腹三分目」で「ご馳走様」と言わなければならない。毎日が毎日、こんな状態が続けばどういうことになるのか、飽食の時代に育った人には想像がつかないだろう。 物資不足の原因は昭和12年に始まった日中戦争以来続いてきた戦闘状態によって、外国からの食糧原材料の輸入が途絶えがちになったのと、運輸面でも軍需物資が優先されたことにある。 |
| 昭和14年10月に米穀配給統制法が実施され、主食である米が配給制になり、砂糖、味噌、醤油、大豆、鶏卵、牛乳、酒、タバコ、マッチなどほとんどの生活用品が配給制になってしまった。 昭和15年になると米、果物、砂糖、乳製品、玉子、油など一層厳しい統制下に置かれるようになった。 米の配給は当初1日に2合5勺だった。これならお茶碗に軽く盛って五杯分になるので、なんとか凌げたが、戦争が激化するにつれ、配給量がじわじわ減ってきた。「腹が減っては戦ができぬ」のたとえ通り、少ない米を軍隊を最優先扱いにしたため、しわ寄せが総て国民の方に回ってきた形である。 |
| 初めはよく精米された白い米だったが、精米工場が軍需工場に変わってしまったのか、だんだん色の黒いものになっていった。 庶民の知恵で、この黒い米を醤油の空き瓶に入れて、掃除に使う「はたき」の柄で、上からトントン突くと、白い美味しい米に変わった。根気のいる仕事で、時折手伝わされたが、手がだるくなり、すぐに嫌になってしまった。 米の不足をカバーするために、切り干し大根などを混ぜて炊くこともあった。暖かい間はなんとか食べられるが、冷えるとべたべたしておいしくない。弁当箱に詰めると大根独特の臭いがして、食べるのが苦痛だった。 ある日、少し茶色っぽいご飯が茶碗に盛ってあった。食べてみると香ばしい香りがして美味しかった。母親に聞いてみると、南楠炊きと呼ばれるものだというが、米を炒ってから、炊くそうだ。こうするとご飯の嵩が増えるらしい。どうしてもご飯一杯ではもの足りないという人のために考えられたものだという。確かに嵩は増えるが、ふわふわとして頼りはない。 麦を混ぜたご飯もよく食べさせられた。これも温かい内はいいのだが、冷えるとパサパサになり食べ難い。 |
| 米の代わりにトウモロコシの粉が配給されてきたこともある。木製の弁当箱を改良して作ったパン焼き機でパンにして食べた。木製の弁当箱の左右・両サイドにブリキ板を張り付け、これを極板として、家庭用の100ボルト、交流電源を直に流す。 トウモロコシの粉を水でといて弁当箱に流し込む。水気のある間は電流が流れ、抵抗で熱が発生し、パンが焼けるという理屈である。 窮すれば通じる・・・だれが考えたのか知らないが、どこにでもある材料で、便利なものを考えついたものである。他にも食べ方は工夫されたようだが、パサパサしていてもパンにするのが、一番食べやすかった。 次に、主食の代用として登場したのがサツマイモだった。間食として少し食べるには良いが主食の代わりともなれば、胸が支えて喉が通りにくかった。それも束の間、だんだん細くなり、小さくなってきた。最後には小指ぐらいの細い筋ばかりのものになった。 それもなくなると「いもずる」まで口にした。 |
| 砂糖も豊富にあるときはさほどに有難く思わないが、実際に物が無くなってしまうと、妙に甘みが懐かしくなってくる。何を食べても砂糖の入っていないものは味気なかった。 ぜんざいや甘酒のように砂糖を大量に使う食べ物は「欲しがりません。勝つまでは」の精神で辛抱するほかはなかった。 まず、コーヒーや紅茶に入れる白くてサラサラのグラニュー糖のような嗜好性の高い砂糖から姿を消し、料理の味付けによく使われる上白糖が不足、少し色の付いた三温糖(さんおんとう)で代用されていた。上白糖やグラニュー糖に比べて特有の風味を持っていて、甘さも強く感じる。これも間もなく出回らなくなった。 昭和19年(1944)砂糖の家庭配給が停止された。 |
| 人工甘味料としてズルチンやサッカリンが、使われていたが、風味に欠け、本物の砂糖には及びつかない、ただ甘いだけのものだった。 父の職業が薬剤士で、薬局を開業していたので、人工甘味料の入手には困らなかった。 大きい箱で仕入れて、近所の人に小口の量り売りをしてあげたが、必要な量だけ買うことが出来るので、便利がよいと喜ばれていた。 終戦で再び砂糖が出回ってくると、あちらこちらに「ぜんざい屋」さんが、雨後の竹の子のように店開きしたのは、甘さに飢えていた人が、如何にたくさんいたかを物語っている。 私も人並みにミナミの「田舎」、阿倍野の「ナンバーワン」などに通い、あごが落ちるほど甘ったるい「ぜんざい」に舌鼓を打ったものだ。 |
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