(その1)
死に花を咲かせる


平和時の道路、遊びの場、盆踊りも

私は大阪の下町で生まれ育った。角家だったので前と横、2つの道路に面していた。横の通りは生活用品を売る店が立ち並ぶ商店街で「市場通り商店街」と呼ばれていた。前の道路は生活道路で道幅が3メートル以内と狭く、車が入ってくることもほとんどなかった。安全な道路は子供のプレーランドであり、ゲームセンターだった。
めんこ、ビー玉、バイゴマ、胴馬、押しくら饅頭、隠れんぼ、下駄隠し、花一匁、日光写真などの遊びが、この道路で行われた。
夏の夕方には竹の長椅子を出して将棋をした。その頃は毎日のように夕立が降りしばしば勝負が中断されたのを覚えている。地蔵盆には踊りの輪、といっても道路幅が狭いので踊りの紐ができる。時間の早いうちは子供中心、遅くなると大人が多くなり、河内音頭、江州音頭、炭坑節などの曲に合わせて、夜の更けるまで踊り続けた。名前は忘れてしまったが「ヨヨイト、サッサ」の掛け声で「トッテラ、チンチン」といったリズムのって「従兄弟(いとこ)、はとこ、いとはとこ・・・・と歌われたこの地方に伝わる童謡か民謡か良く判らない曲も、この時期には、耳にすることが出来た。
最後の日には地蔵さんに供えられていたお菓子をお供養として、配ってくれるので、子供にとってはこれが一番の楽しみだった。

出征兵士を送る、「生きて帰りません」

戦争が激しくなってくると、道路脇に非常用の井戸が掘られ、用水糟、バケツ、火たたきなどが置かれるようになった。
ある日この道路に隣組の人がたくさん集まっていた。何事かと思うと一軒おいて隣のお兄ちゃんが、招集を受けて出征するとのことだ。ミカン箱の上に乗ってあいさつが始まった。
「この土地で生まれ、育った○○○○は招集を受け軍隊に入隊することになりました。もう二度とお目に掛かることがないと思いますが、皆様とともに過ごした楽しい日々を一生忘れません。お国のために立派な兵士となり、役目を果たします。」こんな主旨だったと思う。なぜ「二度とお目に掛かれない」のか、深いところは理解出来なかった。
町内会長があいさつしたあと、「頑張ってこいよ」の声と共に、誰も指揮、合図もしないのに露営の歌の合唱が始まった。

「死んで帰れ」と励まされ

  一、勝ってくるぞと、勇ましく 誓って国を出たからは
  手柄立てずに死なりょうか 進軍ラッパ聞く度に
  瞼に浮かぶ旗の波

  二、土も草木も火と燃える 果てなきこう野踏み分けて
  進む日の丸鐵兜  馬のたてがみ撫でながら
  明日の命を誰が知る

  三、弾もタンクも銃剣も しばし露営の草枕
  夢に出てきた父上に 死んで帰れと励まされ
  覚めて睨むは敵の空

  四、思えば今日の戦いに 朱に染まってにっこりと
  笑って死んだ戦友が 天皇陛下万歳と
  残した声が忘れらりょうか

  五、戦争する身はかねてから 捨てる覚悟でいるものを
  鳴いてくれるな草の虫 東洋平和のためならば
  なんの命が惜しかろう

歌詞を見てみると、まるで「死」のバーゲンセールである。いたるところに「死」という言葉が散らばっている。なるほど生きて帰れる雰囲気ではない。と気付いたのはやっとしてからだった。この歌だけではない。軍歌のほとんどが「死に花」にふれている。

痔、M検まであった徴兵検査

当時は日本の男子は満20才になると徴兵検査を受ける義務が課せられた。越中ふんどし1枚になって,身長,体重測定,視力検査の後,軍医の前でふんどしを脱いで,痔(じ)や梅毒を検査する方法に加えて,身上についの調査も行われた。
一番恥ずかしかったのは四つ這いになってお尻の穴を覗かれることと、「M検」と称して
男のシンボルをぐいっと握ってしごかれる検査だと聞かされた。痔のあるなし、梅毒や淋病などの性病に罹っていないかを調べるためで、人権もプライバシーもあったものではない。
検査が終わると、順番に徴兵官の前に呼ばれて判定を受け、「甲種」、「第一乙種」、「第二乙種」、「丙種」などにランク分けされる。
身体や精神の状態が兵役に適さない者は「丁種」。甲種合格は国から「優秀な帝国臣民」と認定を受けたことになり、“男の名誉”とされてきた。政府や軍の懸命なPRにもかかわらず、一部ではあるが徴兵検査の前日に醤油を飲んで一時的に体調を崩し、徴兵逃れを試みたものもいたらしい。

戦争には行かないのは恥

私の父は当時薬剤士をしていた。徴兵検査にも一度は行ったようだが、学生時代に剣道の練習で怪我をして、右手の肘が十分伸びなかったので、丙種になったために、戦争がかなり激しくなっても召集令状は来なかった。
しかし、友人やその父兄から「お前のお父さんは元気そうに見えているが、戦争には行かないのか」よく聞かれた。薬剤師という資格で、地域医療にはいささかなりとも貢献はしているというものの、戦争に参加しないものは国賊扱いをされていた時代なので、それを聞く度に胸にぐさりときたものだ。
一つの救いは地域の警防団の副団長をしていたので、「銃後を守っている」という大義名分が成り立っていた。
事実、空襲警報が発令されると、不安がる家族を家に残し、警防団服にゲートルを巻いた姿で、取るものも取り敢えず、警防団事務所に駆けつけることを日課にしていた。

軍歌は「死」のオンパレード

戦争は「死」と隣り合わせというものの軍歌の歌詞を眺めてみると「死」のオンパレードだ。j●同期の桜
  一、貴様と俺とは 同期の桜  同じ航空隊の 庭に咲く 
     咲いた花なら 散るのは覚悟  みごと散りましょ 国のため  

●敵は幾万
  三、破れて逃ぐるは 国の恥  進みて死ぬるは 身の誉れ
     瓦となりて 残るより  玉となりつつ 砕けよや
     畳の上にて 死ぬことは  武士のなすべき 道ならず
     むくろを馬蹄に かけられつ  身を野晒に なしてこそ
     世に武士の 義といわめ  などて恐るる ことやある
     などて撓とう ことやある

●雪の進軍
  四、命捧げて 出て来た身故  死ぬる覚悟で 突喊すれど
     武運拙く 討死せねば  義理にからめた 恤兵真綿
     そろりそろりと 頚締めかかる  どうせ生きては 還らぬつもり

●ダンチョネ節
  一、沖の鴎と 飛行機乗りは  どこで散るやらネ
     はてるやら ダンチョネ
まだまだあるが、きりがないので、これくらいにしておく。


年配者は今でも軍歌を良く覚えている
(あゝ日本の軍歌(2)日本コロムビア盤)


「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」

戦前、戦中と戦後ではあらゆるものが180度変わってしまったとよく言われるが、一番大きな変化は「生と死」に関する価値観の変化だろう。日本では古くから、「死の文化」が思想の中核をなしていたようだ。外国ではあまり例を見ない、殉死という言葉、習慣は昔からあったようだ。生の人間の代わりに埴輪が用意されたという話しもある。
武士の心構えをといた「葉隠」には「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」として、「死」について次のように書かれている。
   武士道というのは死ぬことだ、とわかった。どちらにしようかと迷う場では死ぬ確率の   高いほうを選ぶのがよい。別に難しいことではなく、ただ腹をすえて進めばよいのだ。   うまくいかなかったらとか犬死したら、などと考えるのは上方風の成り上がり武士道だ   選択の場でうまくいくほうを選ぶ事はなかなかできることではない。自分もそうだが皆   生きるほうが好きである。理屈をつけて好きな方を選んでしまいがちだ。 
   しかし、選択 を誤って生き延びたとしたら腰抜けだ。逆に、うまくいかずに死んでも恥   ではない。これが武士道の一番大切なことだ。
   毎朝毎夕いつも死ぬことを覚悟していれば、武道の自在の境地に達することができ、   一生落ち度なく家職をまっとうすることができるだろう。

殉死、追腹は武士の常識

戦国時代では主君の死に際して家臣が後を追って自殺する殉死、追腹(おいばら)は武士社会の「常識」だった。一例を挙げると、将軍家光の死に際しては、老中堀田正盛・阿部重次のほか側近が殉死し、仙台の伊達政宗の死亡時は20人、熊本の細川忠利の時は19人だった。
幕府は「殉死は古(いにしえ)より不義無益の事なり」と、1663年に殉死禁止令を出したほど多くの実例が見られた。多くの人にショックを与えたのは、乃木希典夫妻の殉死だった。
大正元年(1912)、9月13日に明治天皇の御大葬が青山斎場で執り行われたが、葬列発進の時刻に、乃木希典大将夫妻が、天皇の御跡を慕って自刃し、殉死を遂げた。
武家社会の死に対する考え方が、一般にも影響を及ぼしたのか、日本では「死を中心とした文化」が普及したものと思われる。

義は山獄よりも重く、死は鴻毛よりも軽し

日本帝国はこの既成概念をうまく利用して、死を恐れず、それを光栄に思う兵士と、その母を作り、さらに国民学校の生徒に、修身の教科書を通じ「命を捨てるのは臣民の道である」、「臣民としての道を守り、命を捧げて陛下の御ためにつくすのが、本当の日本国民」と教えた。
軍人勅諭では兵員は消耗品と同じように扱い、人の命は羽毛より軽いと明記されている。   抑(そもそも)国家を保護し国権を維持(ゆいじ)するは兵力に在(あ)れば、兵力の    消長は是(これ)国運の盛衰なることを弁(わきま)へ、世論(せいろん)に惑わず政    治に拘らず、只々一途(いちず)に己(おのれ)が本分の忠節を守り、義は山獄よりも   重く、死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ。
昭和14年(1939)に 厚生省が「結婚十訓」を発表。「産めよ増やせよ国の為」と出産を奨励したのも、戦争の激化により戦死者が増え近い将来に兵士が不足することを見越しての政策だった。

死を恐れぬ兵士今でも、同時多発テロの教訓

平成13年(2001)9月11日、アメリカで起こった同時多発テロは、平和呆けでウトウト気分だった世界の人々の目をしっかり開かせた。米国の経済発展のシンボルとされていたニューヨークの高層ビル・世界貿易センターが、2機の飛行機により、またたくの内に崩壊されてしまった映像は、テロの怖さを知らしめるのに充分な迫力をもっていた。
戦争経験者には神風特攻隊が未だに存在しいることを再認識されたことだろう。テロに関与したと見られるオサマ・ビン・ラーディンとその率いるテロ組織であるアル・カーイダはアフガニスタンのタリバーン政権のもとに潜伏していると見られるが、アメリカの大規模攻撃を受け、不利とは知りながら戦いを続けている。そのオサマ・ビン・ラーディンのためなら何時死んでも良いと、喜々とした顔で語る若い兵士をテレビで見たとき、初めのうちは、自分の命を軽々く投げだしてと、疑問に思えたが、50数年前は、日本でも同じようなシーンが見られたのを思い出した。教育のあり方と社会情勢、対立する相手さえあれば、何時の時代でも 命を惜しまない若者が出てくる。テロが恐ろしがられる原因の一つもここにある。

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