![]()
![]()
(その2)
大人になったら兵隊さん
| 現代の子供に将来何になりたいかを聞いてみると、どのような結果になるだろう。第一生命調査では男の子のなりたいのものは1位・野球選手、2位・おまわりさん、3位・おもちゃ屋さん、以下、サッカー選手、パイロットと続く。 女の子では保母、お菓子屋、先生、看護婦、花屋の順になっている。 この志望は社会情勢、時代風潮によって変化するのは当然のことである。ワールドカップでサッカー人気が高まってくると、サッカー選手をあこがれる子供が増えてくるだろう。 私たちの子供のころの夢は、その時代で一番注目されていた陸、海、空軍の軍人さんだった。中には山本五十六のようになりたい、と具体的に名指しをする者もいた。もちろん、作家や画家を目指す子供もいただろうが、そんなことを言い出される環境ではなかった。 |
| 「若鷲の歌」 西条八十作詞 若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ でかい希望の雲が湧く 別名「予科練の歌」が大ヒットにした後は、予科練志望者が急増したということだ。 自分が男なので女の子の志望はよくわからないが、何時の時代にも人気がある看護婦が上位にランクされていたと思われる。(国民学校教科書でもお薦め) 自分自身でははっきりした記憶はないが、人並みに軍人さんに憧れを持っていたのかもしれない。ある日、目を覚ますと枕元に陸軍大将が着るような小さな軍服が置いてあった。国防色の生地、金ボタン、胸には勲章のミニチュア、肩には肩章、モールまでついていた。私を可愛がってくれた祖父が、多分、七・五・三用の服として買ってくれたものである。 嬉しかったが、こんな偉い人の服を着ていて怒られはしないか、ちょっぴり心配だった。 |
| 軍人勅諭では「国家を保護し国権を維持(ゆいじ)するは兵力に在(あ)れば、兵力の消長は是(これ)国運の盛衰なることを弁(わきま)へ・・・」と、兵力の大切さを説いている。国民学校の授業でも「ヘイタイサン ススメ ススメ チテ チテ タ トタ テテ タテタ」という迷文で始まり、砲兵、騎兵、戦車兵などの陸軍の主要兵科をさりげなく教え、海軍では駆逐艦、潜水艦、航空母艦などに子供が興味を示すように配分されており、軍隊物語りともいえる軍隊のエピソードなども紹介されている。 集団で食事のする時はかならずしなければならない通過行事があった。まず、姿勢を正して両手を合わせて合掌のスタイルをとる。親指と人差し指の間にお箸を挟んで「箸とらば、雨土御代の恩恵み、祖先や親の恩を味わい、いただきます」と、合唱してから食事にかかる。実際のところ食糧不足で恩を味わうほどの量も質もなかったのだが。 戦争が激しくなって集団疎開に行った頃には「兵隊さん、ありがとう」が付け加えられるようになった。食糧事情はますます悪くなり、ろくな食事が与えられず、万年腹ペコに少年だった。音楽の時間にも兵隊さんに対する感謝の歌を歌わされた。 兵隊さんよありがとう 一、肩を並べて兄さんと 今日も学校へ行けるのは 兵隊さんのおかげです お国のために お国のために戦った 兵隊さんのおかげです |
| 兵隊さん物語りで印象に残ってるのは、『愛馬行進曲』に出てくる馬。この歌は陸軍省が馬を愛護する思想を普及させるために公募したもので、当時の兵站地となっていた門司中学の教諭・久保井信夫氏の作曲。 愛馬行進曲 陸軍省選定 一、 くにを出てから幾月ぞ ともに死ぬ気でこの馬と 攻めて進んだ山や河 とった手綱血が通う なぜ馬が気になったのか自分でもはっきりした理由は分からない。多分、人間の勝手な理由で戦争に参加させられ、何も知らずに明日には死ぬかもしれない、この馬が可哀想に思えてならなかったからだと思う。 |
| もうひとつの印象に残っている物語りは、時代は古く、日露戦争の時代。上官・広瀬中佐の胆力と、その部下・杉野の純真な心、海の男ならではの心と心の強いきずなは敵味方の区別なく、世界の人々の感動を呼んだ。 「広瀬中佐」 轟く砲音(つつおと) 飛来る弾丸 荒波洗う デッキの上に 闇を貫く 中佐の叫び 「杉野は何処(いずこ) 杉野は居ずや」 船内隈(くま)なく 尋ぬる三度(みたび) 呼べど答えず さがせど見えず 船は次第に 波間に沈み 敵弾いよいよ あたりに繁(しげ)し 今はとボートに 移れる中佐 飛来る弾丸(たま)に 忽(たちま)ち失せて 旅順港外 恨みぞ深き 軍神広瀬と その名残れど |
| 広瀬武夫は明治元年、大分県出身。明治22年海軍兵学校を卒業。日清戦争では「扶桑」乗り、参戦。同30年、ロシア留学、同32年、ロシア駐在員となり、ロシアの上流階層に知己多し。35年、帰国、「朝日」の水雷長に。広瀬を心より信頼する部下の一人に杉野孫七二等兵曹がいた。 明治37年、日本はロシアに宣戦布告。開戦時、ウラジオストックは結氷、ロシアの極東艦隊19万トンの大兵力のほとんどが旅順港に入っていた。 旅順の守りは堅固で、日本艦隊は近づくことは出来ない。極東艦隊を殲滅することが、日露戦争の勝敗を決することになる。そこで考えられたのが、「旅順港閉鎖作戦」である。旅順港の港口は273mと狭く、その上、両側は水深が浅いため、喫水の深い巨艦が出入り出来るのは中央の91m幅しかない水路に限られていた。そこへご用済みの船を4、5艘沈めれば閉鎖できるとの計算だ。 結果としては3回試みたが、要塞砲に守られて、この作戦は失敗に終わった。 |

| 2月22日の 第一回の閉塞作戦で、港口に到着したのは、2隻だけで目的は果たせなかった。すぐに、志願を募って第二回閉塞作戦が始まった。前回同様、死を決しての志願者は2000人を超えたという。 杉野もそのうちの一人で、「是非、もう一度参加させてください。」という熱い申し入れに、心を打たれた広瀬は、二度の参加は不可という原則を破り、彼の参加にOKを与えた。 二回目は敵方にも作戦が知られており、危険度は第一回の比ではない。それだけに慎重に行われた。3月27日夜半、4隻の閉塞船はフルスピードで突入した。露軍の砲撃が一斉に始まった。駆逐艦が向かってくる。サーチライトが海上を照らす。 敵には何門もの大砲がある、足の速い軍艦がある、対する日本側はどうにか航行ができる程度のポンコツ船で、もちろん非武装である。さらに、すぐに沈没するように石材をいっぱい積んであるので、船足は遅い。狙い撃ちに合うとひとたまりもない。 |
| 広瀬が指揮し、杉野が乗船した福井丸は港口に到着して全員後部甲板に集合した直後、魚雷攻撃を受けた。大砲、速射砲からも標的にされる。全員ボートに乗り移ったはずが杉野がいない。爆破装置を取り付けるために、船首に行ったままだ。 広瀬は「杉野!杉野!杉野は何処」と叫びながら、砲弾雨霰と降る中を危険も顧みず捜し回り、ボートと福井丸を三度も往復した。 福井丸が沈む寸前にボートを漕ぎ出すように命じたが、サーチライトに照らされた広瀬は速射砲の餌食にされてしまった。福井丸に乗り込んだ18人のうち3人が戦死、行方不明 (杉野)1人、負傷4人だった。他船では負傷者が4人だったことからすると、明らかに狙い撃ちされたのだろう。 計画通り4隻の船を沈没させたが、水路の閉鎖には至らなかった。 広瀬戦死の報はロシア側にも伝えられ、かって個人的に親交のあった人々に敵味方の区別なく、その死が惜しまれた。 この後、「三度目の正直」とばかりに、第3回の作戦が12隻の船を用意して大々的に行われたが、行方不明を含め74人の負傷者をだしながら港口の閉鎖に失敗、旅順の攻略は陸軍の手に委ねられることになった。広瀬は戦死後、海軍中佐に昇進。杉野は海軍兵曹長に昇進した。部下を思う広瀬の行動は広く世界に伝えられ、多くの人の心を揺さぶり、感動を生んだ。戦争の善し悪しの論議を超越して、人間の琴線に直接ふれる海の男ならではの良い話だ。 |
| 先日私より6年ほど年上の人と話をしていると、日露戦争に話題が、移っていった。この人は自信ありげに「杉野は露軍の捕虜になっていた」という話を突然持ち出した。歴史の本にもそんなことは書かれていないし、初耳だと疑いの眼を向けると、作り話ではない。信頼できる人から聞いた戦争秘話だと、説明があった。 露軍側から捕虜交換の話が持ち込まれたが、日本側は「生きて捕虜になる日本人など、一人もいない」と相手にしなかったので、処刑されてしまったというのだ。 美談が正しいのか、それとも捕虜説が本当なのか、確かめることが出来ない。歴史というものは絶えず曖昧さが入り込んでくる余地を持っている。 |
| 死の文化 | ホーム | 銃後の守り |