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役立たず、バケツリレー、火叩き
| 日本の本土が米機により初めて攻撃を受けたのは意外に早く、真珠湾攻撃の僅か4ヶ月後の昭和17年(1942)4月18日である。哨戒艇からの報告で米空母・ホーネットの本土接近はわかっていたが、足の短い艦載機による空襲は、空母がもっと日本に近づいてから発進するだろうとの判断から、19日以降になるものと予想していた。 しかし、アメリカの作戦は一枚上だった。 空母に積んであったのは航続距離の長いB−25爆撃機だった。一日早く空母を飛び立つことが出来たのである。情報の不足、見込み違いもいいとこである。ドーリットル中佐の指揮するこの16機の爆撃機は東京、川崎、名古屋、神戸の各都市を空襲した。その後、中国の基地まで飛び続けて、大騒ぎの日本の軍関係者を尻目に無事着陸した。 |
| 被害は少なかったが、防空体制は万全と胸を張っていた軍幹部の肝を冷やした。同時にアメリカでは、真珠湾での遺恨が果たせたと、戦意の高揚が図られたというから、心理的な効果は高かった。 高い誇りを傷つけられ、絶対的な自信を崩され、面目丸つぶれの軍部は真実を隠し、マスコミと結託の上ウソの記事を大々的に掲載した。翌日の朝日新聞の見出しは次のようになっていた。 「初空襲に1億沸(たぎ)る闘魂」、「敵機は燃え、墜ち退散」、「“必消”の民防空に凱歌(がいか)」「バケツ、火叩きの殊勲 我家をまもる女手」、「街々に健気(けなげ)な隣組群」といった調子である。一機も撃墜していないのに9機を撃墜となっている。 日ごろの防空訓練が役にたち、バケツリレーと火叩きが我が家を火災から守った、隣組の組織も活躍したと、爆撃の報道よりも防空訓練のPR文のようだ。 |
| 内務省防空総本部の指示で防火用水槽を家の周囲に設置した。我が家の二軒隣の家の前に井戸が掘ってあった。いつ掘られたのか知らないが、太平洋戦争が始まるかなり前のことだと思う。日頃使わないので枯れてしまい、水が出なくなっていた。 手押しのポンプ式だったので、ポンプに呼び水を入れて、テコを何回か上下していると、水が出るようになった。しかし、出る水の量は知れたもので、これで火事を消せるとは思えなかった。 汲みだした水は横に置いてあるコンクリート製の用水槽にためられていたが、水を取り換えないので、夏にはボーフラが自然に発生して、長さが2センチぐらいの細い棒状の体をくねらしながら、水面に顔を出したり、深く潜りこんだりして、コミックダンスを披露していた。 |
| ある日もんぺ姿に防空頭巾を被った隣組の女性がたくさん集まっていた。日頃行っているバケツリレーの簡単なものではなく、本格的な防火訓練を実施するということだ。一軒の家に焼夷弾が直撃したという想定で、二階建ての大屋根まで届く長い梯子がかけられた。 大屋根で焼夷弾に見立てた花火に点火されるのを合図にバケツリレーが始まる。 別のグループは、竹竿の先に縄を取り付けた「火叩き」を持って壁をしきりに、はたいている。なんでも、黄燐焼夷弾は着弾すると、黄燐が四方に飛び散り燃え出すので、それをはたき落とすというのだ。 一回目は予定された行動なのでうまくいった。調子に乗ってもう一軒やろうということに衆議一決したのはいいが、ぶっつけ本番なので、最初のようにうまくいかなかった。 本当に爆撃を受けたときに大丈夫か不安になってきた。水の出の悪い井戸、小さい用水槽、人手を要するバケツリレー、頼り無い火叩き、この程度の装備では普通の火事でも消すことができないと思った。大砲に竹槍、軍艦に手漕ぎボートで立ち向かうようなものである。 事実その後の大空襲では、安全な場所に逃げ出すのが、やっとこさで、何のための訓練かという疑問だけが残った。 |

| 一番役に立ったのは「もんぺ」だろう。誰が考えたデザインか知らないが、動きやすく、機能性に富んでいた。お色気がなく、野良着を思わせるものだが、戦時下ではそんなことも言っておれない。 防空頭巾は爆弾の破片、爆風から頭や顔を守るために考え出されたもので、座布団を二つ折りして、上側を縫い合わせ、首の部分にひもが付けられたようなものである。。 これは狭い防空壕に入るとき頭をぶつけるショックを和らげてくれる効用もあった。寒い冬は頭をあったかく保護するなど、本来の目的から離れたところでも役に立った。 |

| あと役立たずでよかったものとして防毒マスクがある。 父は警防団の副団長だったので、防毒マスクを絶えず腰にぶら下げていた。家にも一つあった。いざという時誰がこれを被るのか、父に聞いてみたところ「取りあえずお前が付けられるように練習しておけ」といわれ、被ってみたが熱いのと息苦しいので、10分もしておれなかった。布にゴムをラミネートされたもので、顔の部分をすっぽり覆う構造になっており、目の部分は透明なガラスが入っていた。あごの下に、多分活性炭だと思うが、それを入れた容器がぶら下がっており、このフィルターを通して息を吸い入れるようになっている。被った姿を鏡で眺めてみると、まるで宇宙人のような滑稽なものだった。 |
| 今考えてもなぜあそこまで厳重にやらなければならなかったのか。納得のいかないことのひとつとして「灯火管制」がある。 昭和13年(1938)に国民総動員法が公布され、引き続き灯火管制規則が公布された。ある日、夕食が終わって一家で雑談をしていたところ、表戸をドンドンとたたき「ライコーさん」と呼ぶ声が聞こえた。父が経営する薬局は、父の名前「頼光=よりみつ」を読み替えて 「ライコー薬局」としていたので、近所では「ライコーさん」と呼ばれていた。父親が所用で家を留守にしていたので、母親が外に出てみると、顔見知りの警防団の役員さんだった。家の明かりがかすかながら、戸のすき間から漏れているという注意であった。 一万メートルもの上空を飛ぶB−29爆撃機に戸の隙間から漏れる光など、見えるはずがない、聞いていた噂によるとB−29にはレーダーを備えており、大阪の爆撃目標を書き込んだ地図まで用意しているので、天王寺駅はどこにあるのかぐらいは、すでに判っているはず、僅かな光を頼りに爆撃するなど考えられない。そんな思いが油断となったのだろう。 翌日になって父親からも、「警防団の職務の一つに灯火管制の監視がある。副団長という立場にある家の者は、一般家庭以上に厳密に守らなければ、ならない」と厳しく注意を受けた。 |
| 各家庭では窓に黒いカーテンを引いたり、電灯の光が周りに漏れないように、黒い蛇腹が付いている「防空電灯カバー」を10銭で購入し取り付けたりした。。
防空電球という便利な電球もあった。フィラメントが親子になっていて、いっぱいにねじ込むと明るく、ねじ込みを少し緩めると暗い点灯になる。下の部分だけが透明で周りを黒く塗って光が漏れないようにした20ワットの防空用電球も販売されていたが、物資不足のもとで作られるためか、フィラメントがすぐに切れるものが多かった。 灯火管制でよかったことは、星が綺麗に見えることだった。これまで街の明かりで見えなかった小さな星が一斉に顔を出し、空にはこんなにたくさん星があったのか・・・と感動させてくれた。 しかし、部屋の中は暗くて、鬱陶しく、さえない戦況を聞かされて、気分は落ち込む一方だった。 |
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