(その1)
次期戦力、和歌山へ疎開


「家」と「人」、2つの疎開があった

昭和18年(1943)の春のことだと思う。警防団から帰ってきた父が真剣な顔をして来年から「疎開」が始まるらしい、と語った。立場上この種のニュースは一般の人より早く知ることができた。
疎開といっても「家」と「人」があり、「家」の方は大都市の建物をつぶして、まばらな状態にしておくと、火災が発生しても類焼が防げるというもので、これに引っ掛かると自分の家は潰されてしまい、たちまちのうちに、ホームレスになってしまう。幸いなことに、我が家は住宅密集地にあったが、建物疎開の対象からは外されていたようだ。

国民学校3〜6年生を対象に集団疎開

「人」の疎開については、同じ昭和19年(1944)6月に大都市の国民学校3年から6年までの児童を地方に疎開させるための学童疎開促進要綱が閣議決定された。
最年少の3年生とは昭和10年4月1日から昭和11年3月31日までに生まれたもので、最年長の6年生は昭和7年4月1日から昭和8年3月31日の間に生まれたものということになる。
ちなみに私は昭和9年12月14日生まれ、昭和シングルの最後、義士討ち入りの日の誕生で、疎開が始まった当時は4年生だった。
6月に閣議決定をして8月に疎開の第一陣が、都会の親元を離れ、田舎へ出発をするという早業には驚かされたといわれているが、即席の疎開開始は準備不足で、十分な対策は立てられなかったが、強引に実施されてしまった。戦況がそれほどに切羽詰まっていたことを物語っている。

建前は空襲からの避難、本音は次期戦力の温存

疎開は空襲の被害から子どもたちを守るための避難だ、と人道的な面が強調されているが、次期戦力の温存という戦略的な意義も含まれていた。
疎開は日本の専売特許ではない。外国では早くより行われていた。
1939年の第二次世界大戦が始まる直前にイギリスは、150万人という大勢の女、子供をロンドンから疎開させた。スペイン、ドイツ、ソ連でも同様のことを行っている。どの国の例を見ても「人がいなければ戦争が出来ない」という隠したつもりの本音が、頭を覗かせている。戦闘で死ぬのは良いが、折角の命を戦うことなく落としてしまうのでは、国の将来が思いやられるとの戦略的な考え方が、先行している。
われわれの疎開もその延長線上で、行われたものだが、お役に立つ前に戦争の方が終わってしまったという訳である。
日本のそれはドイツの実例に学んだことが多いように思われる。戦争という異常な状態では、人間にとって一番大切な人道的配慮が、2の次、3の次に回されるのは、世界共通のことらしい。

私は集団で和歌山へ、妹は縁故で岡山へ

わが家では国民学校4年生の私が集団疎開、4歳年下の妹・順子(故人)は母方の実家がある岡山に縁故疎開することになった。
さあ、それからが大変だった。なにしろ6月に閣議決定したものを8月に実施するのだからぶっつけ本番も良いところである。短期間に準備を整えることもそうだが、私が大の漬物嫌いなので、この習慣を直そうという父親の大作戦が始まった。「疎開に行くと食べ物は今以上に不自由になる。どんなに食料が不足しても漬け物は絶対になくならないと思うから、食べる練習をするように・・・」食事の度に聞かされた。少しでもひもじい思いを子供にさせたくないという親心から出た言葉だが、その時は悪魔の声に聞こえた。

疎開に備え「漬物嫌い」を直そうとしたが・・・

なぜ漬物が嫌いになったのか、それは独特の香りである。台所で糠床を開ける臭いが生理的に受け入れられないのである。体質といってもよい。
いくら言っても食べる気配がないので、業を煮やした父親は漬物を口に無理矢理ねじ込んだ。泣きながら吐き出す、また突っ込むの繰り返し。横で見ていた祖母が「もう止めときなはれ、この子は本当に嫌いやさかい、なんぼひもじゅうても、食べしまへんで・・・」と止めに入ってくれた。以来、今日まで「食べしまへん」を続けている。両親・兄弟は全員が好きだというのに・・・突然変異を起こしたのかも知れない。

疎開先は牛市場で有名な野上中

私達が通学していた金塚国民学校は大阪市阿倍野区にあり、疎開先は和歌山県海草郡野上中字野上の亀屋旅館と決まった。想像してたより近いところだ。
海南市の国鉄・日方駅から野上電鉄(1994年3月31に日に廃線)乗り換えて、東へ7駅
(日方(ひかた)、連絡口、春日前(かすがまえ)、幡川(はたがわ)、重根(しこね)、紀伊阪井、沖野々(おきのの)、野上中(のかみなか))行くと野上中に到着する。昔ながらの古びた駅舎がポツンとあるだけで、鄙びた田園風景が広がる。しかし、駅裏にある牛市場は1のつく日はにぎわいを見せる。大正5年、野上電車の開通を期に開設された牛市場には、県内を始め県外(三重、奈良、京都、滋賀、大阪、兵庫等)より業者が集まってきた。
近畿では貝塚につぎ2番目の取引高だったが、農家に耕運機が普及した事により牛の飼育が激減して、昭和50年頃から衰退し開催されなくなってしまった。
私達が疎開していたころは、戦争中でも牛市場が機能していたようで、牛の鳴き声につられて、何回か見にいったことがある。売られていく牛の悲しそうな目の印象が今でも頭の中に残っている。


疎開先の宿舎はこの野上中駅舎の裏にあった
(次田修氏の野鉄資料館・野上電鉄の駅舎より)

遠い昔?疎開の資料集まらず

ところで、集団疎開そのものが遠い昔のこととあって、次第に忘れられようとしている。疎開のことが何か分かればと思い野上町にメールで連絡してみた。町の教育委員会は調査しましょうと言ってくれたが、これといった資料がないのだろう。まだ何も出てこない。
金塚小学校にも校長宛に手紙でお願いしたが、梨の礫である。
野上町でというよりも、周辺の町をひっくるめて、ただ一軒の貴重な存在となっている注文洋服店の経営者・浦野英男さんが、疎開に関する貴重な資料を見つけてくださった。
私達を受け入れてくれた東野上国民学校は今、野上小学校になっている。校舎は2回建て替えられ、現在の建物はリゾートホテルと見間違うような立派なものになっているらしい。
同校の歴史は古く明治11年11月19日の開校。その『開校100年史』に次のように疎開に関することが記載されている。
  昭和19年には集団疎開学童受け入れ
    8月28日、大阪阿倍野区金塚国民学校初等科・第6学年生を受け入れる。
  昭和20年には第2次集団疎開児受け入れ、
    4月23日、金塚校初等科3、5年生56名受け入れる。
  勤労奉仕4年以上、毎日のように木炭、薪の運搬奉仕。
  木炭524俵、薪2827束 運搬。
これによると、私達の4年生に関するものは抜け落ちているが、多分、第一陣の中に含まれていたのだろう。

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