(その2)
何時も「腹3分目」


食糧事情は大阪より厳しかった

親と離れ、生まれ育った思い出の多い土地を離れ、疎開に行くのはつらかったが、ひとつだけ淡い期待を寄せているものがあった。大都会では家族の食料調達に苦労したものだが、農村部へ疎開するのだから、たらふくとはいかなくても、今以上のものが食べられるのではないかと思っていた。しかし、この期待は見事に裏切られてしまった。
食料品は戦争に突入する前から配給制になっていた。昭和18年(1944)の8月に集団疎開をした児童1人当たりの米の配給量は、1日につき9歳から10歳までは2合7勺、11歳以上3合3勺、職員は2合9勺と決められていたらしい。育ち盛りの子供への配給を大人の職員より多くするなどは、さすがにお上の配慮と感謝しなければならないところだが、これは配給用の米が充分に確保されている時の最大限を定めたもの。米が少ししか入ってこないと、配給も少しだけ。サツマイモやその他のものが米の代わりに配給されることもあった。おかずの魚、野菜も同様の事情で不足勝ちだった。

顔が映るお粥、痩せて「骨・皮・筋衛門」

一般の家庭では子供にひもじい思いをさせたくない、という親心から配給以外のいろいろなルートから、毎日食べる食料品を工面していた。親の苦労がここで初めて分かった。
家庭と違って集団疎開ではヤミや物々交換、縁故などの裏手段を取るわけにいかず、頼りは配給だけである。農村地帯へ行けば食料はたっぷりあると考えたのは、腹ペコ状態から1日も早く脱却したいと思う子供の猿知恵だった。期待が外れて身も心もゲッソリ。
ご飯にイモや野菜が混じっているのはまだ良い方で、米が少なくなってくると、お粥になり、だんだん水の量が増えてきた。終戦直前になると、かき回すと底の方から米粒がふわっと舞い上がってくる、覗き込むと鏡のように自分の顔が映っているというひどいもので、食べてもすぐに腹が減ってくる。身体はやせ衰えて「骨・皮・筋衛門」に・・・。

イナゴの付け焼きは香ばしく、美味しかった

米の収穫期になると田んぼにイナゴが大量に発生する。農薬をふんだんに使う現在では考えられないことだが、本当にたくさんのイナゴがいて、田んぼに近づくと何百匹ものイナゴが、バタバタと羽音を立てて飛んでいく。
小さな網でこのイナゴを取り、串に刺し、焼いて、醤油を付けて食べる。初めはバッタに似たこの虫を食べるのは気味悪かったが、空いた腹の底から無意識に手が出てしまった。食べてみると、香ばしくて、なかなか美味しい。思わず「美味しい」と声を上げると、誰かが
「そりゃ米を食べて育ったんやから」、即興的に出た回答に久しぶりの笑い声が上がった。貴重なタンパク源だが、これにありつけるのは秋の収穫期だけである。


水田が減って見かけることが少なくなったコバネイナゴ
(イラスト=○太郎さん)


イタドリの中に蛇の子、以来口にせず

春になると田んぼのあぜ道にイタドリが芽を吹く。みるみるうちに丈が伸びる。30〜40センチぐらいになると食べることができる。中が空洞になっているので、手で折ると「ポン」と小気味の良い音を立てる。口にすると水分があって、少し酸味がきいている。さわやかな味がイタドリのイタドリらしいところである。
ある時、「ポン」と割ると中に蛇かトカゲの子供が入っていた。「キャー」と声を立てて思わず遠くへ投げ捨てた。それ以来疎開生全員がイタドリを食べなくなってしまった。そのほか身近にあるもので、食べられるものは、ひもじさを補うために、何でも口にした。
一つだけ枝に残っていた柿を取ろうとして、身長の倍以上もある醸造用の桶の中に落ち込んだ者もいた。柿の木はもろくて折れやすいのを知らずに、先に近付いたため折れてし
まったのだが、桶が空だったので大事に至らなかった。しかし、桶からの救出には説教付きで大人の手を煩わさなければならなかった。

「豆粕」、「わかもと」でひもじさを凌ぐ

農機具置き場になっている小屋で、石臼状に固められた得体の知れないものを発見した。少し割って口にしてみると結構美味しい。後で聞いて判ったのだが、油を取った後の豆粕を肥料にするために、石臼状に固めたものだという。「まあ、毒ではないので、食べても良いが、あんなものをよく食べたなぁ、」と笑われた。
最後には栄養・保健・整腸剤として常備していた「わかもと」まで口にした。カリカリと歯ごたえがよく、香ばしく、糠を炒ったような味がした。どういうわけか、醤油でつけ焼きにしたイナゴの味を思い出した。今でも「わかもと」、これとよく似た味の「ビール酵母を原料とした「エビオス」が売られているが、これらの薬を飲むときに、水と一緒に飲み込まず、思わず錠剤を歯でカリカリと噛みつぶして、食べてしまう癖がついている。
その味は疎開の味でもあった。

栄養失調で「夜盲症」、「しもやけ」に

疎開中の食生活は100点満点として、25〜30点ぐらいだったと、自己流の評価をしている。「食べ盛りの子供があの程度の貧しい、栄養が偏った食事で体が持ったなぁ」と、いうのが正直な感想である。人間の強靱な生命力、環境に柔軟に対応していく適応力の素晴らしさを知らされた。とはいうものの疎開中の栄養失調状態は後々まで尾を引いた。
疎開から帰ってきてしばらくすると、夕方になると目がかすんで物が見えにくくなった。医者の診断では「夜盲症」。俗に「鳥目」といわれている、ビタミンEの不足による病気だという。肝油を飲み、ウナギや八つ目ウナギなどを極力食べるようにしてすぐに回復した。
栄養が不足すると足や手の先の血流が悪くなるため、冬になると「しもやけ」に悩まされるのが常だった。特に足はひどかった。始めは赤くはれ上がり、そのうちに痒くなってくる。この段階で指の付け根をひもでしっかりくくりつけ、血が流れ難くして、腫れ上がった部分に針で穴を開ける。うっ血した黒い血がジワッと出てくる。こうすると新しい血が流れこんできて、痒みがいくらかおさまる。うまくいくと治ってしまうこともある。

血管障害多し、戦時の食糧不足が原因?

症状が一層進むと腫れていた部分が崩れて水分が滲み出てくる。痒いのを通り越して痛くなってくる。当時は足袋を履いていたので、水分が足袋に吸われて、崩れたところが足袋にくっついてしまう。足袋を脱ぐときが大変だ。無理をして脱がせると、皮がぐるりとむける感じで、涙が出る程痛い。どうしても脱ぐことができないときは、足袋を履いたまま足をお湯につけ柔らかくなるのを待って、おもむろに脱ぐ。
「しもやけ」も食事のバランスが良くなるにつれ、直ってしまい、長い間忘れてきたがパーキンソン病に罹って血流が悪くなり、2年ほど前から、少し注意を怠ると手足の指に凍傷に罹るようになった。戦中、戦後の食糧事情により血管の造成が上手くいっていないのか、私達と同年輩のものが血管障害で亡くなったり、病気になるものが多いように思われる。戦争の亡霊がいまだに尾を引いているのだろうか。
昭和21年(1946)年5月に発表された文部省体育局の調査結果によると、戦前の昭和
12年(1937)と終戦直後の昭和20年(1945)の児童体位は、都市国民学校6年女子で体重は2.2Kg、身長は4.4cm萎縮している。
全体の調査結果だから集団疎開経験者だけのデータを取れば、もっと厳しい数字が出たに違いない。

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