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(その3)
蚤、虱、南京虫
| 宿舎は1人畳1畳の広さを確保するように規則で決まっていたらしい。亀屋旅館の2階の宿舎には何人ぐらいの疎開生がいたのか、不思議に記憶はない。部屋は12畳ぐらいの大きさで二間続きになっていた。部屋の広さから逆算すると20〜24人いたことになる。 疎開先に選ばれるだけあって、近くにはこれといった爆撃目標になる大きな建物もなく安全なところだった。しかし、大阪に向かう米軍爆撃機は和歌山県の南端・潮岬沖で集結旋回して、態勢を立て直し目標地へ向かうコースに近く、戦争末期には毎日のように空襲警報が発令されていた。空襲警報が出ると学校から宿舎へ引き上げることになっていたため当地の野上国民学校で勉強した記憶はほとんどない。 |
| 完全に親離れしていない10歳そこそこの子供の集団である。父恋し、母恋しのホームシックからくるストレスは大変なもので、決して明るい集団とはいえない雰囲気だった。心優しい寮母さんがついてくれたのは唯一の慰めだった。貧しい食生活による栄養失調とストレスから寝小便をするものが多く、ことに冬季には毎日のように、敷き布団のシーツの上に見事な世界地図が描かれていた。親代わりの寮母さんは誰がしたのか分からないように、そっと布団を干してくれたが、子供の勘は敏感で、誰がしたのかバレバレだった。 ホームシックに耐えかねて、脱走を図る者も何人かいたようだが、野上電鉄のどこかで捕まり宿舎へ引き戻された。 |
| 「着た切り雀」で同じ下着を何日も着ているし、お風呂にもあまり入れてもらえないので、全員が虱を湧かせていた。メリヤスの下着をひっくり返してみると、縫い目に沿って虱の卵がズラリと並んでいる。所々にその親が姿をひそめている。 飼い主が栄養不良でガリガリに痩せているのに、下宿人の虱は不思議なくらいにまるまると肥えていた。爪で潰すとプチンと音がして血が出てくる。捕っても、捕っても次々に跡継ぎができてきてきりがない。何処からわき出すのか不思議に思えるくらいだった。 身長の何百倍も飛ぶことができる、素晴らしい跳躍力を持った蚤にも悩まされた。ときには南京虫が襲ってきた。咬まれた跡が2つずつペアになって穴があいているから、すぐに南京虫の仕業と判る。これら「痒い痒い軍団」の総攻撃を受けて、体全体に小さな咬み傷がいっぱい。爪で掻くので、湿疹になったり、化膿したりした。 |
| 家庭的な雰囲気に長らく接していない疎開生に、アットホームな温かさを味わってもらおうと、「一日里親」が企画された。地元の住民に疎開生を預かってもらい。本当の子供と変わらない生活を体験させようというものである。 私の里親役を引き受けてくれたのは、宿舎の向かいにあった森脇家(記憶が確かではなく間違っているかもしれない)だったと思う。息子さんが東大に入学するという知性と経済力のある家のように思えた。 疎開して初めての外泊で、少しばかりの不安はあったが、どのようなご馳走にあり付けるか、食物に対する関心の方が強かった。期待通りだった。一家は腹ペコの疎開生をVIP並の最上級のもてなしをしてくれた。白いご飯が茶碗に盛ってあった。お魚、野菜の煮付け、みそ汁、そして嫌いな漬物までが。自分の顔が写るような水分の多いお粥ばかり食べさせられていたので、白いご飯を見るのは久しぶりで、それだけでうれしくなってきた。かなり無理をして集めてもらった食糧だと思うが、あるところにはあるんだなと思った。 寝るときの布団がまた凄かった。身体を横たえると、全身が沈み込んでしまうようなふかふか。いつぞや時代劇の映画で見た殿様になったような気分にさせてくれた。 毎日、何気なく着ているせんべい布団が急に貧しく思えてきた。 |
| 襲ってくる孤独感を慰めてくれるのが室内ゲームである。親元に手紙を書きトランプや百人一首を送ってもらった。これらのものは不急不要品ということで、生産が中止されており入手が困難だったというが、子供のたっての願いとして、知り合いをたどりなんとか探し出してくれたものらしい。 トランプはいろいろな遊びに応用でき、飽きることはなかったが、意外と人気のあったのが一人でするトランプ占いであった。百人一首では「坊主めくり」などの単純な遊びもしたが、和歌の読み方を教えてもらい。上の句を聞いて下の句が書かれている字札をとる本格派まがいの「カルタ取り」もした。初めのうちはあまり面白いと思わなかったが、繰り返しゲームを楽しんでいるうちに、ほとんどの和歌を覚えてしまった。丸暗記を要求された歴代天皇や教育勅語に比べると言葉は易しく、一種のリズムがあるので、自然に頭の中に入っていったようだ。和歌を覚えてしまうと札を取るスピードも上がり、面白さも増えてきた。 |
| 終戦の少し前、戦況が次第に厳しくなっていることは誰しもが感じ始めていた。食料をはじめ生活必需品がいずれも底を突いてきた。不安な気持ちを解消する一つの手段として「こっくりさん」が流行した。 「こっくりさん」は明治時代に日本に持ち込まれ、何回かブームを作ってきたのがまた再燃したものだ。疎開宿舎に誰が持ち込んだのか知らないが、毎日のように行われた。 新聞2ページを広げたほどの大きさの紙の上部中央に鳥居を描き、その両側に「はい」と 「いいえ」とが書かれている。 下の部分には0から9までの数字と「あ」から「ん」までの平仮名が大きい文字で書き込まれている。 箸を3本束ねた先を3人が軽く持ち、鳥居のところに置く。「こっくりさん、こっくりさん、準備ができました。おいで下さい。」と声を掛け、しばらくすると、箸が勝手に動きだす。いろいろな質問に箸が動いて、回答を寄せる。イエス、ノーで答える問題には「はい」と「いいえ」のどちらかに箸が向かう。 他にも鳥居のところにコインを置き、その上に軽く指あてがい、コインが動くことで占う方法もあった。 |
| 文章での回答は箸が平仮名の文字の上を移動していくので、「や・ま・た・く・ん・て・す」といった具合に読み取っていくと、それが、回答となる。心理学でいう自動書記と同じものと思われるが、箸がスムースに動くので、つい「神のお告げ」だと信じ込んでしまう。 「戦争に勝つか」、「明日は天気になるか」、「お父さん、お母さんは面会に来てくれるか」、 「なくなった帽子は出てくるか」など、当たり障りのない質問をしているなら罪はなかったのだが、あるとき自分の持ち物がなくなったので、「こっくりさん」に犯人を尋ねた者がいた。 「○○君」と、特定の疎開生の名が出てきたから大変。名指しされたものは「俺は取ってない」と、泣いて弁明するし、なくした方は「こっくりさんがいうのだから間違いない」。宿舎の中はハチの巣をつついたような大騒ぎとなった。 寮母さんが中に入って何とか収まりがついたが、以後はこっくりさん遊びは禁止になってしまった。催眠術的な遊びは中途半端な知識で行うと、色々な弊害を呼び起こすので、数少ない遊びの一つを奪ってしまう結果になったが、この措置は正解だった。 |
| 案外面白かったのは、在庫が豊富な虱を使ってのレースだった。陽当たりのよい温かい敷居の溝に虱を並べて競争させるのだ。虱は動きが鈍いので放っておくとレースにならない。突いたり、敷居をトントン叩いて脅かしながら無理やり動かせる。 蚤はピョンピョン飛ぶので容易につかむことはできない。これは見付け次第、残酷ながら 「プッチン」してしまう。指先に唾を付け、蚤をこの指先で抑え込む、うまく捕まれば指をクルクルと回して、敵の最大の武器である足にダメージを与え、飛べなくしてから、爪でプッチンとやる。 南京虫は夜になると這い出してきて、仕事をする。朝になると、畳の裏かどこかへ逃げてしまうので、見つけ出して退治するのは難しい。ところが直径6から7ミリぐらいの穴を沢山開けた50センチほどの長さの棒を部屋の隅に置いておくと、穴の好きな南京虫が入り込んでくる。朝にこの棒を振り下ろすようにして、畳に打ち付けるとショックで寝ぼけ眼の南京虫がコロリと出てくる。これをプチッとやるのだが、そのくさいこと、臭いこと。 |
| 散髪は時折寮母さんがしてくれた。頭は兵隊さんと同じで丸坊主だったので、そんなに難しいものではなかった。バリカンはオール金属性のものと柄の部分が木製になった園芸用のハサミのような格好をしたものの2種類があった。当時の粗悪な鉄で作られていたのか刃がすぐに鈍ってしまった。毛が挟まると、ジョリと音がして4、5本毛が抜ける。これが痛くてたまらない。散髪中はジョリとやられはしないかと、不安が去らず、すっかり散髪嫌いになってしまった。 最悪の事態がやってきた。初めから調子が良くなかったバリカンが毛を食い込んで、ついに動かなくなってしまった。上下の刃を密着させるスプリングを締めたり、緩めたり、刃を砥石で研ぐなどの応急修理をしても、使える状態には戻らなかった。 寮母さんは申し訳なさそうに、「今日中に修繕してもらい、明日必ず刈ってあげるから、このまま辛抱して頂戴」という。「えーっ」と私。仕方がないので帽子で頭を隠すことにした。 ところが、食事の時は、両手を合わせて例の「箸とらば天土御代の・・・」を唱えなければならない。一種のお祈りだから、その時帽子を被っている訳にはいかない。やむなく帽子を脱いだ。全員の視線が自分の頭に集中する。そして、吉本のお笑いタレント顔負けの笑い声が湧き起こる。口々に「半刈りや」と、冷やかしとヤジが飛び交う。この日以来私のあだ名は「半刈り」→「ハンガリー」→「ガリ」→「ガリさん」と進化を遂げ、大学時代まで続いた。 |

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