(その4、神風吹かず)
「鬼畜米英」はウソだった


大阪の空襲は54回、8回は大空襲

記録によると商業都市大阪は54回もの空襲に見舞われている。うち8回が大空襲といわれる規模の大きい空襲だった。昭和20年(1945)3月13日、6月1日・7日・15日・26日、7月10日・20日、8月14日である。
中でも初の大空襲といわれた3月13日のそれは、少々の事ではびっくりすることのない浪速っ子のど肝を抜くのに充分な規模のものだった。
3月13日の夜半(23時57分)から14日の未明(3時25分)にかけて、B−29爆撃機274機が襲来し、焼夷弾1733トンを投下していった。
浪速区、西区、南区、港区、大正区、東区、西成区、天王寺区の13万6千169戸の家が焼け、、50万1千578人の被災者が出た。死亡者は3987人、重傷者8500人、行方不明678人という大惨事になった。

市域の27%、34万戸以上が消失

一生懸命に訓練を受けたバケツリレー、火叩きなどの消火活動は何の役にも立たず、暑い炎が襲いかかってくる中を安全なところへ逃げるのが、やっとこさだったという。
大阪城の東側にあった砲兵工廠などの軍需工場、港湾設備、都市中枢部が焼失、機能を果たさなくなった。
その後も終戦前日の8月14日まで空襲は続き、大阪市は全市域の27%を失なった。
大阪市の被害を纏めてみると、消失家屋34万4千240戸、被災者122万4千533人で、1万2千620人が死亡、3万1千88人が重傷、2千173人が不明という大きなものになった。
疎開先の和歌山でも空襲警報は絶えず出ていたが、大阪などへ向かう1万メートルもの超高度を飛ぶB−29のブーンというかすかなエンジン音が聞こえた程度で、こんな大惨事になっているとは知らなかった。3月14日の朝、暗いうちに起こされ北の空を眺めると薄赤く染まっているように見えた。

疎開先には戦災情報伝わらず

寮母さんが「昨夜アメリカの飛行機が何百機と飛んできて、大阪市内に焼夷弾を雨のように落としていった。詳しいことは分からないが、広い範囲で家が燃えているので、あなた達の家も燃えてしまったと覚悟しておきなさい。」と話してくれた。
家は焼けても仕方がないにしても、病気で寝たきりになっているおじいちゃんはどうしているのかなあ。優しげな顔のおばあちゃんは・・・、警防団へ出てるはずの父は、そして母は・・・いろいろなことが心配になってきた。
どこの家がどうなったのか、具体的な状況を知らせるニュースが全然入ってこない。終戦から約2カ月後、家に帰るまで知らされることがなかった。いくら通信事情が悪い、終戦処理で手が回らないといっても、一番大切な生死の情報ぐらいは、つかんでいるはずと思うが、疎開生に幸、不幸の差ができて、パニック状態になるのを避けるための親心からわざと知らせなかったのかもしれない。
聞いてみると大阪だけではなく、東京、名古屋などの大都市も米軍の爆撃により壊滅的な被害にあっているということだ。

「神風よ、早く吹け」祈っているうちに

後は最後に残された手段、「神風」がいつ吹いてアメリカの艦隊や飛行機を吹き飛ばしてくれるかという事に期待を掛けるしか手段なかった。同じ吹くなら大阪の空襲の前にと、手前勝手なことを思っていたが吹いてくれなかった。待てど暮らせど神風は吹かなかった。
夏休み中だが、臨時に登校していた時に空襲警報が発令された。例のごとく集団で宿舎に帰る途中に地元のおばさんに出会った。真剣な顔付きで「広島に新型爆弾が落ちて大変なことになっている」と教えてくれた。「新型爆弾ってどんなもの」、「それが詳しく分からないのよ。焼夷弾でも、爆弾でもない、強力なものらしい」。
この話を聞いて神風が吹くにしても相当に強いものでないと効き目がないと思った。じりじり照りつける太陽があっても、風が吹いたり、激しい雨が降る気配は一向に感じられない。待っているうちにあちらこちらの都市が爆撃され、犠牲が増えるばかりだ。初めのうちは神風の存在を全然疑ったりしなかったが、ことここに至って、まだ吹く気配すらないのはおかしいと思い始めた。われわれ人間の神に対する頼み方が悪いのか、いや、そうではない、神はそんなことぐらいお見通しではないか。信心深い友人は「神風はやたらに吹かない。最後の最後まで待ってみよう」という。若干の不信感を残しながら、この意見に従うことにした。

玉音放送、意味不明朗ながら敗戦を知る

終戦を知らせる玉音放送は宿舎の1階にある旅館のラジオで聞いた。旅館の人や近所の人の後ろで聞き耳を立て待っていた。雑音が入るあまり上等のラジオでなかったのと天皇陛下の低い声、難しい言葉で何を言っておられるのかほとんど判らなかった。
「朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」。
周りの大人の雰囲気でどうやらこの戦争は日本の負けで終わったらしい、ということは読み取れた。
さあ、それからが大変だった。先生や寮母さんに言われた訳でもないのに、自然発生的に疎開生の自主集会が開かれた。「神州不滅」。負けるはずのない戦争に日本は破れてしまった。鬼畜米英と教えられてきたアメリカ兵が、明日にでもここに押し寄せてくるかもしれない。鉄砲や機関銃で撃ち殺されることも考えておかなければならない。これにどのように対処すべきかをテーマにしての話し合いである。

竹槍で一人を刺し殺してから死のう

脱走経験のあるA君は「野上電鉄で終点まで行って生石山へ逃げれば」と切り出すと「あほか。飯をどうするんや」と食い意地の張っているB君、「逃げるなんって格好の悪いことは出来るか」などいろいろな意見が続出した。結論としては、どちらにしても殺されるのなら、銃で撃たれる前に竹槍で一人でも刺し殺して、日本男児の心意気を示そうではないか、ということになった。小さい飛行機を敵機に体当たりして撃墜させる神風特攻隊、命と引き替えに敵の軍艦を撃沈させる人間魚雷に影響を受けてのことだと思うが、常日頃から軍や政府の指導通りの結論に落ち着いた。教育によるマインドコントロールの怖さを垣間見た感じである。決まるや否や早速箒の先を尖らせ始めたから本気である。
ところが、これは全くの杞憂に終わってしまった。

占領軍兵士は「鬼畜米英」ではなかった

ジープに乗ったアメリカ兵が各地に現れた。戦争による緊張感から解放されたためか、どの顔もニコニコしていた。想像していたより若い兵隊さんが多かった。軍隊食だと思うが濃緑色の紙ケースからチョコレートやビスケット、チューインガムなどを取り出して、日本の子供に気前よく配っているではないか。このような人達のことをなぜ「鬼畜米英」と呼んで殺人用の竹槍まで作ったのか。鬼畜どころかまるでサンタクロースではないか。一つのことに疑問を感じると、あれもこれもと疑問が湧いてくる。
劣勢を優勢と伝える大本営、「神州不滅」を唱えながら、戦いに敗れた日本、吹くはずの
「神風」が最後まで吹かなかった、「欲しがりません。勝つまでは」の精神でひもじさと不自由な生活に耐えてきたのにアメリカでは余るほど食べ物がある。日本ではほとんどの飛行機を失ったというのに、アメリカは何百機もの太平洋を超えて攻撃するだけの飛行機を持っている。防空訓練とは何だったのか、「天皇陛下万歳」と叫んで散っていった人の命の軽重、など、など。
まるで大金持ちと貧乏人の喧嘩ではないか。勝てる喧嘩と思っていたのだろうか。われわれ庶民は軍部や一部の政治家、時の政府にマインドコントロールされていたのではなかろうか。マジックのネタが割れたときのような空虚感が漂った。

「家はどうか」「家族は」心配を連れての帰阪

交通事情や各家庭の受け入れ態勢が整うまで約2カ月間ほど疎開先にいたままだった。この間何をしていたのか、いつ大阪へ帰ったのか、ほとんど記憶に残っていない。
空襲警報に悩まされることはなくなったが、昨日まで正しいと信じていた精神的支柱が崩れてしまい何をしていいのやら見当が付かなかったのだろう。
海南市はかなりひどい戦災にあったので、野上電鉄は終点まで開通してなかったので、行けるところまで行き徒歩で国鉄・日方駅までたどり着き、そこから天王寺まで蒸気機関車に牽かれて帰ったように思うが、普通の列車ではなく、小さい窓が一つだあった、貨物車のような気がする。どこを経由して、どれぐらいの時間を掛けて帰ったのか、思い出すとができない。我が家がどのようになっているかで頭がいっぱいになっていたのだろう。

爆風でガラスと一部の瓦が飛ぶ

天王寺駅には父が迎えに来てくれたように思う。ドラマなら久しぶりの対面で大切なシーンだが、もう一方の主役が誰なのか分からないのである。思い出せないのである。とにかく天王寺駅に着き改札口を出ると、爆撃で骨格だけになってしまった、近鉄百貨店が目に入った。右に目を転じると天王寺公園の緑が飛び込んできた。この辺の植物園、美術館は災害を免れたらしい。
懐かしい思いがこみ上がってくる中での第一声が「家は大丈夫か」だった。「少しやられたが、住むには困らない」この返事を聞いて、心がすーっと軽くなった。
家までの道のりは約20分。
家の外観は元通りのままであった。50メートルほど離れた商店に1トン爆弾が落ち、その回りの30メートル以内に建っていた家は爆風で吹き飛ばされたという。大阪の北玄関といわれている天王寺駅を狙って投下された爆弾が、風で流さされたらしい。被害は奇跡的に一軒向こうで止まった。我が家の損害は一階店舗部分と2階正面の総てのガラス、大屋根の瓦1坪分という軽微なものだった。

奇跡的に家族の人的被害無し

それにしてもよく店に誰もいなかったものだ。爆風で木っ端微塵にやられたので、店にいたら無数のガラス片が体に突き刺さり、死ぬかひん死の重傷を負っていたものと思われる。爆風で飛んできたものが大屋根に当たったのだろう。小さい穴がぽっかりと空いていた。人手がない、瓦などの材料が手に入らないために、修繕は出来なかったらしい。雨が降るとぼたぼたと漏れてきた。2階のこの部屋は使っていなかったので、雨戸を4枚ほど傾斜を付けて並べ、漏れてきた雨水を部屋の外へ流れ出すようにしてあった。
家に帰りまずしたことは小さい頃、可愛がってくれたお祖父さんへの挨拶だった。祖父・安之介は慶応2年生まれだったので、80歳を超えていた。当時としては超長生きだった。老衰で寝たきりになっていた。枕元で母親が「おじいさん、崇浩が帰ってきましたよ」と告げると、「うん、うん」とうなずいてうれしそうな顔をした。

帰りを待っていたかのような祖父の死

疎開から帰って何日も経たない10月27日疫痢に罹り、指定伝染病院・桃山病院で亡くなった。家族や周囲の人は崇浩を待っていて死んだと言っていた。たまたま、そんな巡り合わせになったのだろうが、小さかったときにそれだけ可愛がってもらったことを物語っている。
祖母・さいも3日違いの10月30日、同じ病気で後を追っていった。おじいさんが亡くなったときは元気そのもので、看病することがなくなったので、これからは遠慮なく親戚や知り合いの家に遊びに行けるともらしていたのに、朝になっておこしに行くと眠るように死んでいたのである。
疎開からの帰りを2人も待っていてくれたのだ。しばらくたった12月6日、妹・博子も同じ病気で天国に召された。食糧不足による栄養失調で体力が衰えているところに細菌が食らいついたのだ。現在のように抗生物質があれば3日もしないうちに治ってしまう病気なのに・・と悔やまれるが。

終戦の年に祖父母、妹の3人を送る

名誉の戦死も、爆撃による犠牲も、今西家からは戦争による直接的な犠牲者は1人も出なかった。個人的には幸福な家庭といえるが、軍部や国からすると協力心の足りない非国民ということになりそうだ。しかし、病気とはいえ僅か4カ月間に3人もの葬儀を出すことになったのは、一種の戦争犠牲ではなかったかと思っている。食糧事情がよければ、効き目の顕著な抗生物質があれば・・・これ以上言うと愚痴になる。これも運命として甘受しなければ、ならないのだろう。程度の差があっても戦争は総ての国民に、総ての家庭に、総ての企業に犠牲を強いるシステムになっている。

  半刈り   ホーム   焼残り中学