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(その1)
マインドコントロール
| 昭和16年(1940)に小学校が国民学校に変わった。明治19年(1886)に義務教育制が採用されて以来使われてきた「小学校」という馴染み深い名称をなぜ新しく「国民学校」と変えなければいけなかったのか。一口で説明すると「大日本帝国が皇国民の錬成することの大切さを痛切に感じたから」ということになる。 日本は世界に例を見ない神の国である。日本は神の子孫であり万世一系の天皇が治めることになっている。天皇は現人神である。天皇に忠義を尽くし、天皇のためには命をも差し上げることも厭わない。臣民は生まれながらにして天皇に奉仕し、皇道を行ずる義務がある。などの皇国史観と国家主義を教育の場を借りて、徹底的に頭に刷り込むことの必要性を大日本帝国と軍部が痛切に感じたからである。 |
| 音楽の授業ではドレミファからイロハニに変わり、成績表の甲乙丙から優良可になり、教科書の内容も変えられた。しかし、皇国史観にしても、天皇への忠誠も明治以来、事あるごとに頭に叩き込まれていたことである。 昭和10年代になって、外国との対立が厳しさを増してきたため、より声高に叫ばれるようになったもので、大人の社会ではすでに周知のこととなっていた。 国民学校に名前を変更して、子供にそれを周知徹底させようとするものだ。国民学校の総ての児童が同じ価値観、思想を持つように、鋳型にはめ込むには、刀に刃入れをするように、熱して、叩いて、冷やしてを繰り返すのが一番効果的。 大人になってからではなく、個が確立していない子供のうちから、打とうというのだ。 従って小学校の国民学校への移行は、従来の政策を延長、強化して、教員の一部にいた自由主義者を配置転換するなどの対策が必要だった程度で、さほどの混乱を招くことがなかった。 |
| 終戦を迎え国民学校が小学校に再び名称を変更したときは、6年前のように簡単に行かなかった。終戦により価値観、思想のベースが180度、方向が変わってしまったからだ。昨日、間違いだったものが、今日は正しい。昨日、しなければいけないことが、今日はしてはならない。 教えてもらう方はまだ気楽である。「そういえば、ちょっと変だなと思っていた」「やはり間違いだったのか」「軍部の意見が強すぎた」などと自己流の理屈をつけて、新しい考え方を聞けばよい。 事実、国民学校に名称が代わって、初等教育から大日本帝国のいう「少国民になるための錬成」でしごかれたわれわれの年代でも、戦争という極限状態に置かれて、しかも情報の発信源が1箇所しかない状況下では、半ば妄信的に教えられたことを正しいと信じ込んでいた。というよりも、信じさせられてきたのである。 |
| しかし、終戦となり自由な考えが許されると、旧体制に対していろいろな疑問も出てきて、マインドコントロールは効かなくなった。それは、信念や思想を形成するほど強いものではなく、そんなことがあったのだという知識レベルとして頭の片隅に残っている。人間の持つ素晴らしい環境適応能力の見せる技である。 しかし、自分ながら恐ろしく思うのは、ふたたび、環境が替り、「有事」に直面したときなどに国民学校時代に徹底して刷り込まれたマインドコントロールが、再び効果を発揮してくるのではないかという不安である。そうはなりたくないと心に言い聞かせているが、ある日、突然に攻撃を受け、身に危険を感じることになったときに、どのように考え、どのように行動するか、考えても分からない。 心理学でいう「擦り込み」は心の奥深いところ、潜在意識のまだ下に潜り込んで、出番を待っているかも知れない。戦前、戦中は総て日本国民が一種の集団催眠に掛かっていたのではないか。そうでなければ、個の集団である国民の総てが、「一億火の玉」などといって、同じ方向を向いて行動するなどは、考えられないことだ。 終戦でこのマインドコントロールは一応解けた。戦争も放棄した。幸いなことに、経済戦争で負けたり勝ったりしたことはあっても、本当の「有事」に直面したことはない。その意味でも現在の平和がいつまでも続き、有事の起こることのないように祈りたい。森元首相の「神の国」発言は、一般国民より先に有事法の研究を始めたためにマインドコントロールが再び効果を発揮し始めたのではないかと心配している。人間は極限状態に追いやられると、 想像も出来ない行動をする特性を持っている。 |
| 昭和16年(1941)に国民学校になって初めての入学生となったわれわれの世代は昭和22年(1947)に国民学校最後の卒業生として、学舎を巣立っていった。 いよいよ中学への進学である。六・三・三制が実施された。大阪市阿倍野区にある金塚国民学校の卒業生は、同じ阿倍野区の松虫中学校が指定校になっていた。 ところが松虫中学校は戦災で校舎が焼けて授業することはできないので、金塚小学校に当分の間、間借りすることになっていた。父が学校薬剤師をしていたので、この種の情報はいち早く入手できた。 疎開中は空襲警報が発令されると、宿舎に引き上げることになっていたので、ろくに勉強をしていない。疎開から帰っても、祖父の死、引き続いての祖母の葬儀、妹の発病、そして死亡などの家庭の事情も加わり、4、5年生のうちに勉強しておかなければならないものが半分ぐらいしか、修得できていなかった。さらに設備のない中学校へ進学すると、学業の遅れは決定的なものとなり、高校、大学へと進むには、負担が大きすぎると判断した父は校舎が戦災を免れた私立の中学校に進学させるようにした。大学付属の中学校へ入っておけば、高校、大学の入学は楽だろうとの親心から、トコロテン方式の学校を選んでくれたのである。 |
| 関西大学の付属第一中学校と摂南工業大学の付属中学が候補に挙がった。私自身は理科系が好きだったので、摂南を第一志望にしていた。ところが担任の先生が強く関大を押してくれた。関大付属は前身が関西甲種商業で学名の示すとおり商業系である。算盤は大の苦手、商売人にはなりたくない。どう見ても商業には向いていないが、そこまで言われるのなら受験してみようということになった。試験は天神橋6丁目の校舎で行われたが、簡単なもので個人面接もあった。何を聞かれるか心配だったが、たまたま吉川(きっかわ)という理科担当の名物先生だった。 質問は「家庭で使う電気はどのようにして発電されますか」。得意中の得意である。当時は主力をなしていた水力発電の仕組みを知っている限り、詳細に答えた。関東は50サイクル(ヘルツ)、関西は60サイクルと答えると「よく知っていますね」で、面接が終了した。 |

| お陰で入学試験に悩まされることなく、大学を卒業することができた。付属学校からの入学は一般の試験による入学に比べて簡単で、日ごろからサボらずに勉強していると、余程頭が悪くない限り受け入れてくれる。入学した後もそんなにガリ勉にならなくても、卒業が出来た。後から押されるようにして出ていくので「トコロテン」方式と呼ばれている。 関大一中3年、関大一高3年、関西大学4年、合計10年、関大でのんびりと過ごさせてもらった。 試験地獄を味わっていないので、争って上に昇っていく、闘争心には欠けるかも知れないが、六・三・三制の細切れ教育の弊害も受けずに、のんびりとした気分で学園生活を楽しませてもらった。 |
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