吾輩の主人は何事にも増して会社のことを優先する典型的な会社人間である。ワークホーリックにかかっていることは吾輩が見ても判る。仕事の移譲が上手くできるか、退職した後、地域社会に溶け込むことができるのかの二点が疑問視されていた。
主人が籍を置いていた株式会社日装は代表取締役が二人おり、代表取締役専務をしていた。
役員の任期は2年となっているので、平成7年(1995年)の総会時に代表権の返上を申し入れ、相談役になった。
吾輩の悪戯によるパーキンソンのこともあったが、同じ年の3月、入浴中ににわかに気分が悪くなり、額からダラダラと冷や汗を流して苦しそうな表情をしていた。風呂から上がって1時間ほど裸で横になっていると、気分が少し良くなったという。
ところが次の日の朝が大変だった。 便所から出てきた主人は、何か恐ろしいものでも見たいような顔つきで「真っ黒な大便が出た」と叫んだ。
箕面のばばクリニックで、胃カメラによる検査をしてもらった。馬場先生は胃カメラ操作の名手でT回もえづくこともなく、カメラがスウーと入っていった。食道、噴門部から、胃の中へ、幽門部から十二指腸にカメラが入っていくが、全然異変は見付からない。カメラが胃の中でUターンしたとき、先生が「これは大変なものが見付かったよ」と独り言のように云いながらシャッターを押す。胃の上部、食道の横に巨大な潰瘍ができており、黒便はそこよりの出血が原因だという。先生の話では胃の上部にできる潰瘍は悪性のものが多く、ガンに移行する確率が高いという。胃カメラでとった粘膜の一部を検査に送るとともに、阪大病院への入院・即手術という段取りまで考えていたという。 幸いなこと検査結果ではガン細胞が見つからず、ただの胃潰瘍と分かった。 一昔前なら単なる胃潰瘍でも即手術となるところだったが、よく効く薬ができ一年間で完治できるだろうという診断だった。 病気の原因はストレス。吾輩が引き起こすパーキンソンもストレスが一因と云われている。吾輩の主人は自分では気付いていないが、自分のの両肩に背負いきれないほどストレスを担いでフウフウ云いながら生きてきたことになる。 これを取り除くには責任がある立場から身を引くことが一番だとお医者さんや友人からアドバイスをもらった。
吾輩の主人は、酒は飲まず、タバコは吸わない。したがって、油もの、香辛料、繊維の多いもの、堅いもの、等を食べず、味付けを薄くするという厳しい食事制限を守るだけで、先生の予告通りちょうど1年で全快した。
昼は外食が多いので、食事制限を守るのに苦労したらしい。会社の近くで小さいレストランを見付け、マスターに事情を話して特別食を作ってもらったりしたという。ベジタリアンのような食事を1年間続けたので、体重も5キロあまり減少した。
計画的に物事を進めていくのが好きな主人は、1週間に3日の出勤体制で仕事の移譲を行った。メンズファッションの新聞、雑誌の出版が本業だが、事業の多角化を目指し、自分が言い出しぺーになって始めた樹脂製の建材は、プラスチックに関する知識はもちろんのこと、設計図が読め、建築にも精通するなど、特殊な知識が要求される。
後継者が見つからなければ会社から身を引くことが出来ない。
程なく、編集の仕事をしていた社員が建材部門を担 当してもよいと申し出た。彼は建材関する知識を短期間でマスターして、一番難しい見積もりまで出来るようになった。 「窮すれば通じるということかなぁ」と主人は独り言を言って安堵の表情を見せた。
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