ボタン【釦】 (Button)

ボタンとは「あきをとめ」「装飾を兼ねる」もの。

ボタンとは「衣服のあきをとめ、同時に装飾buttonを兼ねる様々の形を持つ小片」と、
田中千代の服飾事典で定義付けられています。昔の男は装飾品として、豪華で手の込んだボタンを競って身に付けましたが、「四つ穴の開いたボタン」が登場したこともあってか、現代の男性はボタンで洒落るという楽しみを放棄したかのように見えます。
遅れてボタンを使うようになった女性は男とは反対にボタンをお洒落の小道具として充分に楽しんでいます。チョットしたブラウスにも1個数千円もするボタンを付けている女性も珍しくありません。量販店で売っている男の背広のボタンは1個が何十円といういう安いものです。
「あきをとめる」機能を果たしているだけで、お世辞にも「装飾を兼ねている」とは言えません。ともすれば、影が薄くなりつつあるボタンにスポットライトを当ててみましょう。

古代の知恵。肉は食用、皮は衣料、骨・角は留め具に

私達の先祖は寒さから身を守るために動物の毛皮をまといました。野生の動物を捕らえて、肉は食用として、毛皮は衣料として用い、食べられない骨や、角(つの)は削ってピン状にして、毛皮が身体からづり落ちるのを防いだものと思われます。ボタンのルーツです。
青銅器時代になって、骨や角は金属に代わりましたが、基本的な機能には変化がなく、形のバラエティが少し増えた程度です。
エジプトやメソポタミアの遺跡から紀元前4000年に作られたボタンの形をした工芸品が発掘されたことがあります。それはスカラベと呼ばれるタマオシ・コガネムシを模したものでした。石や石灰岩で作ったものですが、釉薬を施した美しいものも出土しています。
この虫の意味する語が生成の意味にも通ずるもので、天地創造の神として崇められていました。
また、球状に丸めた糞を転がす習性から太陽の神を象徴するということで、印章や首飾りに付ける護符として用いられました。
余談になりますが世界最高級と評判の高いスキャバル社の洋品は、このスカラベをトレードマークとして使用しています。

13世紀に十字軍がサラセンからヨーロッパへ

古代人の遺跡からボタンらしきものや留め具に類するものは見つかっていますが、現在のボタンの形をしたものは見つかりません。理由は簡単です。その時代の服は1枚の布を体にまといつけたものでした。留め具は必要ですが、ボタンの出番はありません。
ボタンの使用は中世に入って、ヨーロッパの人たちが身にぴったりフィットした洋服を着るようになってからです。十字軍が遠征した13世紀頃だといわれています。
十字軍は西欧諸国のキリスト教徒がイスラム教徒を討伐するために、11世紀末(1096年)から13世紀の後半に至るまで7回にわたって遠征が行われました。当初の目的は聖地パレスチナ、特にエルサレムの回復にありましたが、第3回(1189〜1192年)以後は宗教目的を離れ、現実的な利害関係の追求が中心となり、当初の目的を達成することができませんでした。
しかし、東方との交通、貿易によって都市の交流が盛んになりました。参加した騎士は自分の目で確認した東方の高い文化に目を見張り、珍しい産品、革新的な技術などをヨーロッパに持ち帰りました。ボタンもその中の一つだといわれています。
最後の遠征に参加した将兵の報告で、サラセン人が衣服にボタンを使用していると聞いた十字軍の統率者・フランス王ルイ9世は、首飾りの業者にボタンを製造するように命じたという記録があります。
東方のビザンチン文化、イスラム文化はその後のヨーロッパの産業発展に寄与したのはもちろん、ルネサンスにも大いに影響を与えました。

原意は古仏語の「蕾」、ポルトガル語から「ボタン

昭和23年(1948年)パラマウント映画「ザ・ベイル・フェイス」邦題;腰抜け二丁拳銃の主題曲「ボタンとリボン」がアカデミー主題曲賞を受賞しました。ダイナ・ショアのレコードがヒット、池真理子が日本語で歌ったレコードも昭和25年(1950年)に大流行しました。
Button and Bowsという英語のフレーズが何回聞いても「バッテン・ボー」としか聞こえず「バッテン・ボー」とはどんな棒・・・というのは冗談ですが、意味が分からないまま耳から学んだ英語の歌を口ずさんだものです。英語では「t」が強調されるためその様に聞こえたのですが、その「ボタン」の語はどこからきたのでしょう。
古代ラテン語のボタール(bottare)あるいは古代ゲルマン語のボタン(boton)のどちらかだろうといわれています。英語はバトン(button)、フランス語ではブートン(bouton)といいます。語源をたどると古仏語のboton(つぼみ)に行き着きます。
日本で一般に使われているボタンという名称は、輸入経路から考えてポルトガル語のボタン(botao)が変化したものと考えられます。

南フランスで開発され「ボタンホール」

芸術、建築、衣服はそれぞれ密接な関係を持っています。11世紀には古代ローマ文化の影響受けたロマネスク調が主流となりました。曲線を重んじ、ディフォルメした多彩な装飾性が特徴とされていました。
12世紀の半ば頃にはフランスの都市を中心にゴシック形式が取り入れられるようになりました。高くそびえる尖塔、ステンドグラスの採用が教会の雰囲気にぴったりだったこともあり、中世のヨーロッパの街並みに新たな彩りを加えました。
過剰な装飾を良しとしたロマネスクに比べ、ゴシックは自然的、現実的を基調においていました。そのため、ゲルマン人の野暮ったさが目立つ粗野なデザインという人もいましたが、反面、男性的で力強いという評価を受けていました。
洋服もレースなどでゴテゴテ飾る手法から、自然らしさを装うために体型にフィットしたものへと移行します。
当時の服装はシェーンス(Chainse)と呼ばれる下着(シュミーズ)の上にチュニックの一種であるブリオー(Bliau)、あるいは、コット(Cotto)を着て、さらにマントルを羽織るというものでした。
細くなった袖口の開閉にはどうしてもボタンが必要です。体にフィットした上衣の着脱を容易にするために襟元にボタンを付けた洋服も出てきました。ちょうどその頃、日々に都市としての賑わいを増してきた南フランスで、生地に穴を明けて、ここにボタンを通す技術が開発されました。
これまでの紐でわなを作って引っかける方式からすると、生地と生地を直接合わせることができる画期的な発明で、洋服のスタイルにも少なからぬ影響を与えました。
王侯から貴族へ、貴族から上流社会へ、さらに、一般庶民へと、この洋服は広がっていきましたが、フロントにはこれ以上は付けられないというほど沢山ボタンを並べ、それでも飽き足らず袖口から肩までズラリとボタンを並べた、まるでボタン屋さんの回し者のような洋服まで登場しています。

伯爵の上衣に78個の銀製ボタンが・・・

14世紀半ばになるとフランス語でプールポワン、英語ではダブレットという丈の短い上衣にブリーチズという半ズボンを組み合わせた洋服が主流を占めるようになりました。このスタイルは当時の男性のお洒落心を見事にキャッチしたのか、フランス革命までの長い間、同じスタイルの洋服が着続けられました。
ダブレットは昔の兵士が鎧の下に着た胴衣が変化したものです。アンダーウエアだったものが、洗練されて次の時代にアウターウェアとして登場してくるのは、服飾史にもよく出てくる現象です。ことに鎧には男のロマンがこもっています。それ故に何百年もの長い間着用されたものと思われます。
肘から手首まで、ネックラインからウエストまで、ボタン本来の留める機能と装飾を兼ね多くのボタンを並べたてました。
フランスのシャルル・ド・ブロア伯爵のダブレットには78個の銀製のボタンが付いていたといいます。

ボタンは富の象徴、ついに奢侈禁止を発令

ボタンの材料は金、銀、象牙、べっこう、銅およびその合金です。ボタンは富と地位の象徴でした。王侯、貴族、上流階級の人々は財力の許すかぎり高価なボタンを、自分の洋服に付けました。「ボタン戦争」はさらに広がりを見せ、素材、デザインなどで差別化を図ろうと、難しい注文が相次ぎ、金属細工師は休む暇もないくらいに多忙となりました。
素材も金、銀、水晶、大理石、真珠貝、珊瑚、べっ甲、琥珀とバラエティに富んでいました。最後の切り札・ダイヤモンドを使ったボタンまで登場することになりました。当初はもちろん限られた富裕階層だけに見られた現象でした。
留め具というより、装飾品としての役割の方が、多く要求されるようになったのです。その動きが余りにも顕著になり、一般市民にまで広がったので、奢侈禁止法が施行され、ボタンの使用に制限を設けられました。
人の心にはブレーキが掛けられないと言いますが、日本でも服装が華美になるたびに贅沢禁止、奢侈禁止令が出されたようですが、表面的にはストップしたかのように見えても、隠れたところで、その欲望は果たされていました。

沢山ボタンを付けたジュストコール、掛けるのは一つだけ

中世以来、男の上衣として愛用されてきたプールポワン(ダブレット)は丈が短くなり、身体にぴったり添ったものになってきました。上衣の裾がウエストラインに至り、これ以上短くするのは不可能というタイミングを狙って、ジュストコール(Justaucorps)と呼ばれる新型のコートが登場してきました。
実はこの洋服は10世紀ごろから主に男子が着ていたもので、もとは胴のくびれた着丈の長いペルシャ風のコートです。 1670年にルイ14世がリボンや安物の飾りがついた、袖なしのブラシェール(Brassiere)という短いカミソールを若い男女が着ている姿を見て、「だらしない服の着用を禁止しろ」と怒りの声を上げたのがきっかけになり、急に脚光を浴びることになったものです。
当時のものはカソック(Cassock)と、名付けられた軍事用のもので、飾りボタンが付いた、折り返しがある短い袖が付いていました。裾は長く、広がりを持っていました。この袖は時代とともに変化し、あるときは長く、またある時は短く、広くなったり、ほそくなったりしました。
素材は金襴、ビロード、絹などの高価なものが使われ、手の込んだ刺繍が施されたものもあったようです。前の打ち合わせにはボタンがずらりと並んでいましたが、このボタンは殆ど掛けられることなく、まれにボタンを掛けても中央の一つだけで、中に着ているチョッキを見せるのが粋な着方とされていました。そのチョッキにもボタンが沢山付けられていましたので、ボタン屋さんは大繁盛です。

フランス革命は半ズボン(キュロット)殺人から

1789年にフランス革命が起こりました。ブルボン王朝のたび重なる失政、啓蒙思想の影響、平民の台頭などを要因として発生したものですが、封建的な旧制度と絶対王制を倒し、人権を公布。ルイ16世は処刑され、共和制が成立しました。
革命の旗手になったのがサンキュロット派です。貴族の象徴であった「キュロット(半ズボン)をやめ、
トラウザース(長ズホン)を穿こう」をうたい文句に、キュロットを穿いた貴族を片っ端から殺していきました。恐れをなした貴族は以後キュロットを穿かなくなりました。
長らく続いた半ズボンの歴史に終止符を打ち、同時に豪華なボタンが沢山付けられた、きらびやかな貴族の衣装は「悪趣味」として葬り去れ、簡素で機能性に富んだ自然な洋服が求められるようになりました。
周囲の諸国との間にも革命戦争を起こり、ジャコバン派独裁の恐怖政治が始まります。そこに颯爽とナポレオンが登場します。1795年のことです。
1799年のクーデターを経て第一帝政が成立しました。ナポレオンの皇帝就任は1804年です。

袖ボタンはナポレオンが鼻拭き防止に用いた?

ナポレオン・ボナパルトは、フランスが生んだ偉大なる英傑だけあって、いろいろな逸話を残しています。私たちの子供のころはほとんどの子供が鼻汁をタラしていました。黄色いうどんを2本ぶら下げたような鼻汁を手で拭って遊びに耽っていました。
呼吸をする度にこのうどんが伸びたり縮んだりする様はまるで漫画の世界です。「昔の子供はこうだったよ」と話をしても「ウッソー」というだけで信じてもらえません。
現代の子供は風邪をひいたときに水鼻をのぞかす程度で、「鼻垂れ小僧」など想像もつかないことなのでしょう。お医者さんは栄養状態がよくなったので、青ばなが出なくなったのだといいます。
フランスの兵隊も寒い冬には出てくる鼻水を洋服の袖先で拭いたそうです。
閲兵式で兵士の袖がテカッテいるのを見付けたナポレオンは、袖で鼻を拭かないように注意したところ、前から見えない袖の裏側で拭き始めました。業を煮やせたナポレオンは金属ボタンを付けて拭けないようにしたというのです。
軍服が金属ボタンの需要を増加させた功績は高く評価されますが、この袖ボタン誕生説は眉に唾を付けて聞かなければなりません。装飾的な要素もありますが、もともとは袖先を開閉するためのボタンだったと考えられます。

袖ボタンはフォーマル度、前ボタンはカジュアル度指数

現代の背広の袖口にはボタンが3、4個ついています。フロントに使用するボタンに比べればサイズが小さくなりますが、礼服には4個付け、カジュアルになればなるほど、袖ボタンの数は少なくなるという約束ごとがあります。袖ボタンはドレスアップ度を示すバロメーターになっているようです。
フロントボタンはこれとは反対でフォーマルウェアはボタン数が少なく、カジュアルな服には多くのボタンが付けられます。
タキシードやモーニングコートは1つボタンです。モーニングコートはシングルブレストに限られていますが、タキシードや一般的な背広にはダブルブレストがあり、左右対称に同じ個数のボタンが付けられています。この場合もフロントボタンの数はカジュアル度を現す指数になっているといえます。
現在、若者を中心にシングルブレスト3つボタンの背広が好まれていますが、かってスーツの主流だった2つボタンより、カジュアルな感覚の洋服が主流になってきたと、解釈すべきでしょう。もっとカジュアルなサファリージャケットになるとさらに多くのボタンが使われます。

金属ボタンの主産地は英国のバーミンガム

まさに時代は19世紀を迎えようとていたときに、イギリスのバーミンガムでメタルボタンの技術が開発され、瞬くうちに主産地の地位を獲得しました。軍服の需要増大が金属ボタン業界の発展に大きく貢献したのはいうまでもありません。
一方、大きな犠牲を払った独立戦争のあと、1776年にアメリカは独立宣言をしました。軍服に付けられていた金属ボタンはイギリスのバーミンガムで生産されたものでした。
前後8年に及ぶ戦争が終わるとアメリカの国内で金属ボタンが作られるようになりました。
アメリカの国章となっている「羽を広げた鷲」をあしらった金属ボタンは国威の向上にはうってつけのもので、生産量は飛躍的に増え、本家の英国をしのぐ程になり、英国からの輸入禁止が国会で論議されました。機械を使った大量生産はアメリカが最も得意とするところで、英国からボタンを輸入する必要性が無くなったのです。

グッドイヤーラバーボタンを開発

アメリカとボタンの関わりでは、もう一つ興味深い話があります。F1レースなどで世界的に有名なタイヤメーカーのグッドイヤー社がラバー製のボタンを作っていたということです。
同社の公式ホームページによると、設立は1898年になっていますが、ボタンの販売を始めたのは、これより約50年前の1849年のことです。1851年にラバーボタンの特許も取得していますが、同社の沿革にはボタンに関することにはふれておりません。
グッドイヤーの創業者であるチヤールズ・グッドイヤー(Charles Goodyear)の個人的な業績にされているのでしょう。
グッドイヤーは発明好きで、ゴム製救命具用のバブルを開発して、大手ゴム企業に売り込もうとしました。ゴム会社は1830年頃に創業したところが多く、当時としては若い企業でした。冬には石のように硬いゴムが夏にはアメのように柔らかくなります。ベトベトして、くっつくのは欠陥品である、という抗議を受けて、ゴム会社には返品の山ができました。
多くのゴム会社は倒産し、グッドイヤーが考案した新しいバブルの話にはだれも耳を貸してくれませんでした。
グッドイヤーは膨大な借金を抱えてしまいます。借金を返さないので刑務所にも放り込まれました。
12人いた子供が6人まで、小さいときに亡くなっています。子供に充分な食事も与えられなかったのです。
彼はゴムを見直そうと決意しました。ベトベトするゴムにマグネシウムと生石灰を加えてみたところ、ある程度の改善がはかられましたが、暑い夏には惨めなほど柔らかくなってしまいました。
何度かの試行錯誤の後、ついに硝酸を加えることで、弾力性に富んだゴムを完成させました。
さらに1839年には硝酸を硫黄に置き換えることによって、いっそう特性の優れたゴムを世に送り出しました。彼自身がゴムで作った帽子、チョッキ、タイを身に付けゴムの良さをPRしたことも手伝い、ゴムの用途はゴム・ペンキ、自動車スプリング、フェリーボートのバンパー、手押し車のタイヤ、膨張式の救命いかだおよび潜水工作員用スーツと、広がりを見せました。
ラバーボタンもその中の一つです。やがて迎えるプラスチックボタン時代の幕開けを告げるにふさわしい新素材ボタンの登場です。

ビクトリア英女王が黒ガラス釦ブームを作る

大英帝国が最も輝いていた時代。その時代の頂点にあったビクトリア女王は、1837年から1901年の間、60余年の長きに亘り在位しました。夫君のアルバート公は、1861年に42歳の若さで他界してしまいました。良きアドバイザーであり、理解者だった夫君を失った女王の嘆きは大きく、黒ガラスボタンを付けた喪服で、生涯を過ごしました。
喪服は女性を美人に見せるといいますが、もともと美人の誉れが高い女王の黒の喪服姿、黒のガラスボタンはトップファッションとして世界の注目を浴び、黒ガラスボタンが、驚異的な売り上げをマークしました。この流行でベニス、ボヘミア、ドイツ、果てはアメリカまでが黒ガラスボタンを作り、利益を享受したということです。
1830年にイギリスで産業革命が起こり小さな手工業の作業場に代わって機械設備を備えた大工場が稼働するようになりました。革命のあらしの余波でフランスがもたついている間に、ファッションの発信地もフランスからイギリスに取って代わります。

ポルトガルのブタンを言い違え「ボタン」に

古くから日本人は和服を着ていましたので、衣服を留めるには、もっぱら紐が利用されていました。桃山時代や元禄時代にボタンのついた南蛮服を着たとか、陣羽織に貝ボタンを付けた記録は残っていますが、ごく一部の人のお話しです。
日本で「ボタン」という文字が初めて用いられたのは、故実家として知られている伊勢貞丈(1717−
1784) が、江戸時代中期に著した「安齋随筆」です。
貞丈はこの本にボタンのことを「和蘭国にてはコノブと言ふ、ポルトガル国にてはブタンと言ふ、それを言ひたがえて日本にてボタンと言ふなり」と紹介しています。
幕末ころ島津藩は幕府に対抗するための軍資金を捻出するために、藩の御用窯で陶器のボタンを作り、海外へ輸出していました。ボタンの表面には当時の日本文化が偲ばれる絵が繊細なタッチで描かれていました。
ちょうどフランスで万国博が開かれ、ジャポニズムがブームになっていたことsatumaもあり、鹿児島産の陶器ボタンは「SATSUMA」の名前で多くの人に買い求められ、貴重な外貨を獲得しました。
世界から注目された”薩摩ボタン”。僅か一寸にも満たない径(けい)の中に花鳥風月を優美に描いた薩摩ボタンは西洋文化の象徴に、和の美を融合させた歴史的逸品といえます。総てが工業化された現代では、職人芸を必要とするその独特な形状や精緻な絵付けゆえに復刻は難しいとされていましたが、MAKANA LEIプロデュースにより、ここに完全復刻しました。(写真右)

海軍制服決定で11月22日は「ボタンの日」

明治3年11月22日に太政官令が布告され、わが国海軍の制服が決定されました。イギリス海軍の服装を手本にしたもので、桜花に錨をあしらった金ボタンが、フロントには左右9個ずつが2列に、バックには3個ずつ2列、合計24個もつけられていました。
これにより軍服用の金属ボタンの需要が急増したのはもちろんのこと、大礼服、郵便局、鉄道員、警察官、学生などの制服などにその用途を広げ、一般市民のボタンに対する認識も高まりました。
ボタン業界は11月22日を記念して「ボタンの日」としています。洋服業界も同様の発想で明治5年11月12日の太政官令布告で洋服の需要に弾みがついたと、11月12日を洋服記念日としています。
陸軍の制服は1年遅れて明治4年に定められましたが、こちらはフランス式を参考にしました。将校服には桜の金ボタン、兵卒は銅ボタンと決まりました。

明治15年大阪でボタン作りが始まる

日本でボタンを一番最初に販売したのは大阪の中村儀助という人だといわれています。神戸の商館から鯨のヒゲを仕入れて、足袋のコハゼ作りを業としていましたが、もともと留めることに興味を持っていたのか、時代の流れがそうさせたのか、次第にボタンの扱い量が増えていきました。
ボタン工業の発祥地も大阪です。1882年(明治15年)に水牛角、馬蹄、牛骨、貝などを原料にしてボタンを作る小さな工場が、大阪を中心にいくつかできました。
1901年(明治34年)に和歌山県田辺・上富田地区で貝ボタン造りが家庭内職として始まりました。この内職は急速に広がり、規模も大きくなりました。1940年代には企業形態をもつの職場もできてきました。昭和の初めにはボタン工場は数十軒を数えるほどとなり、地場産業として繁栄してきました。
昭和24年ごろ、カナセ釦工業株式会社が貝ボタンから合成樹脂に素材を転換するための研究開発に着手、量産が可能な新しい工場体制を確立しました。さらに、合成樹脂よるボタン造りのノウハウと工場運営システムを地元の同業者に公開しました。
このことにより田辺・上富田地区は全国有数の合成樹脂釦の産地として知られるようになりました。昭和30年代の最盛期には約80社の企業数を誇り、輸出も盛んに行われていました。
しかし、円レートの切り上げによる輸出の不振、大手企業による原材料からの一貫生産、縫製拠点の海外への移行、後継者難、不況などで、企業数は最盛期の五分の一に、出荷額は10年前と比べると40%の減少になっています。

神の造化・天然素材を使った数々のボタン

ナットボタン
椰子の実で作ったボタンをナットボタンといいます。椰子には二千種以上の種類がありますが、そのうちボタンに適しているのは、南米エクアドル産のタグワ椰子です。実の中には五つぐらいの種があり、胚乳が象牙質でボタンの材料として用いられています。
象牙色の暖かそうな色彩、上品なツヤ、自然素材独特の木目が特徴です。
主として紳士服用として用いられましたが、プラスチックボタンの出現で生産量が激減しました。最近になってエコロジー商品として再び注目されてきました。

貝ボタン
貝ボタンの材料としては、高瀬貝、白蝶貝、黒蝶貝、茶媒貝、メキシコあわびなどがあります。
プラスチックでは味わえない深みがある光沢が特徴です。白蝶貝は真珠貝の一種です。西オーストラリアのブルームはかっては白蝶貝の輸出拠点として知られている街です。この周辺の海で世界最高級の白蝶貝が採れます。日本人ダイバーが外国人には真似の出来ない潜水技術と忍耐力で大活躍しました。日本のボタン工業も貝ボタン作りから始まり、プラスチックボタンへと移行していきました。
貝ボタンの魅力に取り付かれ自店で作る服には必ず付けるテーラーもあります。
革ボタン
動物の皮を細いひも状に切って、ボタンの形に編み上げ、高温、高圧のプレスで形状を整え、塗装し上げしたものと、厚めの一枚の革にプレスで形押しをしたものがあります。

水牛ボタン
インド水牛は、名前こそ水牛になっていますが、実際は乾燥地帯で飼われている陸牛です。角は細く長く、空洞部分が少ないのでボタンの素材としては、最適のものです。柄行から「ボケ」と言う別名が付いています。
本水牛は一部の湿地帯に野生種も少しはいるようですが、主としてタイで家畜化されたものの角が使われます。形は太く大きいものですが、大きな空洞があります。
そのほか、木、竹、 動物の角、骨、蹄などもボタンの素材として使われています。
自然の素材にはワシントン条約で捕獲が禁止されているものもあり、生産方法も昔ながらの手作りに近い方式が採用されでいますので、生産量には限度があります。コストが高くつき値段的にも高くなることが悩みのタネです。

金属ボタン
ブレザー、制服、学生服などによく使われます。真鍮板を金型でプレスして、模様を浮き出させたものと模様がない真鍮を裏蓋のような形にして、かしめてボタンにするため「かしめボタン」ともいわれています。
中身は空洞になっていますので、私達の中学生の頃、自分の釦を相手の釦に思い切り押しつけてどちらの釦が強いか競い合ったものです。需要量は圧倒的に多く、金属ボタンの主流をなしています。
ほかに、溶かした金属を耐熱性のゴム型や金属型に流し込み、冷却のあと、必要に応じ、磨き、メッキ、墨入れなどの加工を施して、ボタンに仕上げます。プレス方式より繊細なデザインや彫刻調の図柄も表現できます。原型さえあれば大量に同じデザインの釦が生産できます。
異素材と組み合わせファッションセンスの優れたボタンを作り上げることもできます。

高分子化学が生んだプラスチックボタン

エボナイトボタン
天然素材に代わるものとして、世界の化学者がプラスチックの開発に力を注ぎました。その結果、1835年にフランスのルニョーが、 ポリ塩化ビニールの粉末を発見しました。しかし,ここの粉末は熱分解しやすく,製品化までには至らなかったのです。製品化された最古のプラスチックは、1851年のエボナイトです。
エボナイトは天然ゴムの劣化と軟化を防ぐために偶然に見出された加硫ゴムに由来します。

ベークライトボタン
1907年に発明されたベークライト(Bakelite)はベルギー人のレオ・ベークランド(Leo Baekland)の研究結果によってもたらされたものです。この世に初めて姿を見せた完全な合成物質です。初めのうちは濃暗色のものしか出来なったのですが、強度に勝るにも関わらず加工が容易で、美しい輝きをもっおり、「プラスチックの宝石」の異名が与えられていました。車の部品、ラジオ、電話機、各種容器、文具など色々なものが作られました。
1930年頃には透明感に富んだ樹脂が開発されてからは、ボタン、アクセサリー、ジュエリーなどにも積極的に使用されました。

セルロイドボタン
セルロイドの登場は1860年代です。象牙で作られていたビリヤード玉の代替品を探し出したものに1万ドルの賞金をだすという錬金術的な手法が産み出した素材です。1868年頃から生産されるようになりました。
セルロイドは、加熱すると軟らかくなり、人形、おもちゃ、文具、ボタンなどの成形品から透明性を生かせた写真や映画のフィルムにと、自由自在に加工することができ、1920年代までの永らくの間、プラスチックのエースの座を確保してきました。
しかし,原料のニトロセルロースは火薬の原料でもあり、燃えやすい欠点をもつため,やがて他のプラスチックに取って代わられました。

カゼインボタン
洋服のボタンがバターやチーズと同じように牛乳から作られているといえば、「本当!」といわれそうですが「本当」の話です。ミルクを原料とするカゼインは1898年にドイツで発明されました。牛乳に牛の胃液に含まれているレンニンとよばれる酵素を加えて攪拌すると凝固し、レンネットカゼインになります。これを発酵させるとチーズになります。
レンネットカゼインをホルムアルデヒドで処理をするとカゼイン樹脂になります。乳白色の上品な光沢を持ち、加工、着色も容易で、ボタンに要求される耐衝撃性、耐薬品性、耐水性に優れ、ボタン素材として最適なものだといわれています。
様々な色調、柄行、表面感を表現できるため、ファッションセンスの優れた北部イタリアのボタン工場に所属するアルチザンが自分のアイデアを商品化するために、ガラライト(Galalite)と呼ばれるこの素材を好んで使用しました。

ナイロンボタン
繊維として優れた特質を持つナイロンはプラスチックとしても強度、耐寒、耐熱、耐薬品性など数々の特性を持っています。原料を熱で溶かし射出成形したものを冷やしてボタンにするため、大量生産が可能です。重量も軽いので婦人服のボタンとしてよく使われます。

アクリルボタン
アクリル樹脂は透明性に優れているため、自動車や航空機の風防ガラス、照明器具にも使われています。太刀魚の鱗や雲母などを加えて、魅力的な光沢を持つパールボタンも作られています。

ポリエステルボタン
不飽和ポリエステルを原料にしています。ガラス繊維と合わせて使うFRPは非常に強靭でバスタブ、スキー、ヨットなどが作られています。原料は少し粘りのある液状で、成型するのに高温、高圧を必要とせず、常温でも硬化します。貝ボタン、水牛ボタンなどに似せたボタンも容易にできます。

ユリアボタン
尿素とホルムアルデヒドを反応させて得た樹脂です。値段が安いので作業服のボタンによく使われていましたが、熱や酸が加わると毒性の強いホルムアルデヒドが分離することがありますので、注意を要します。

釦雑学・デザイナーもボタン効果に注目

今から20年以上も前の話ですが、フランス、イタリアの有名クチュールやデザイナーが、ブランド力を後ろ盾にして、注文服用紳士服地の販売に乗り出してきました。それまではミル物といって英国のはダースフィールドに工場を持つ毛織物メーカーのブランドかロンドンに販売拠点をもち世界各国のテーラーを対象に販売をするマーチャント物がありました。
前者は最高級ウーステッドメーカーブランドの「リーロイド」、モヘアで知られる「ベックサイド」、コート地の「コロンビー」、礼服地の「アーサーハリソン」、ツイードの「カイノック」などがあります。
後者に属するものとしてウールンマーチャントの代表的な存在「ドーメル」、総てに最高を目指す「スキャバル」,高品質で有名な「フインテックス」、英国の良さを伝える「Hレッサー」、洗練された柄行の「ウェインシール」などです。
しかし、残念なことにこれらのブランドは関連業者と一部のお洒落な紳士がその名を知っいるだけです。
洋服を注文するときの生地選定に発言力を持ってきたご婦人方まで、ブランド名は浸透しておりません。その隙間を狙って登場したのが、デザイナー、クチュールブランドで、パリコレクション、ミラノコレクション、婦人服、洋品雑貨、装飾品、化粧品などで、その名が知られています。
洋服店の店頭ではブランド力のおかげで、いちいち製造元の説明をすることもいらず、販売が容易になりました。これまでの服地では求めることができなかった新しい感覚の色彩、洗練された柄行などとあいまって、大変な人気を呼びました。
デザイナー、クチュールブランドが他の一般ブランドとの差別化を図る小道具として起用したのが、オリジナル裏地とオリジナルボタンのセットです。これを服地に付けて販売しようという戦略です。
裏地にもボタンにもデザイナー、クチュールのブランド名かマークが、さりげなく、上品にあしらわれています。小さな存在でありながら、ボタンが洋服を着用する人の個性表現に大きく貢献していることをデザイナーはよく心得ていた証拠です。
裏地は洋服着用時の滑りを助ける機能から「裏で洒落る」という羽織の伝統を洋服に持ち込んだもので、隠れた存在ながら自己満足のツールにされています。

釦雑学・古い釦を大切にするヨーロッパ

洋服の歴史の長いヨーロッパでは洋服のボタンについての思い入れは深く、古くなった洋服を処分するときには、ボタンを取り外して大切に保管し、新しい洋服につけ直すということもあります。13世紀から今日までの長い歴史を持つボタンにはそれを着用していた人の想い出と魂が込められています。少しぐらい値段が高くても何代にも亘って使うならその出費は無駄になりません。
パリのクリニァンクールやロンドンのカムデンロックなどで週末になると「蚤の市」が開かれますが、時には時代もので骨董価値の高いボタンに出くわすことがあるそうです。カムデンロックで撮影用の炭火アイロンを探しているとき、ロンドン在住の特派員が「見つかりました」と嬉しそうな声を上げたので振り返ると、アイロンではなく小さいボタンを手にしていました。ビクトリア時代の銀ボタンで、かねてから探していたものだといいます。
正式な値段は忘れてしまいましたが、私には高く、彼には安く感じたのでしょう。そのボタンはいま彼のジャケットで銀独特の渋い光沢を誇らしげに放っています。

釦雑学・昔は「ライン」を単位にしてサイズを測った

ボタンのサイズを測る単位として、昔は「ライン」を使っていました。ヨーロッパを蕩々と流れるかの有名な川のことではありません。
今はほとんどがミリ表示となり、一部の輸入品がこの単位を使っている程度です。
1ラインは40分の1インチ、1インチは25.4ミリ、したがって1ラインは0.635ミリ、30ミリのボタンは47.2ラインということになります。
こんな複雑な計算を一々していると商売になりません。自然の流れとしてミリ単位での取り引きするケースが増えてきました。
個数の計算も英国の伝統を引き継いで難しいものでした。12個で1ダース、12ダースで1グロス。鉛筆やコンドームの箱詰めは、いまでもダース、グロスを採用しています。ついでにふれると昔の英国通貨は12ペンスが1シリング20シリングが1ポンドでした。
教養のない植民地の人をだますための、英国の陰謀だと言う人もいるようですが、グレートブリテン・大英帝国のゼントルマンがそんなしょぼくれたことはしないと信じています。1年は12カ月、12教徒、12支、12単衣、午前12時間、午後12時間、12を根拠とすることはいくらでもあります。

釦雑学・「釦」の字は大村益次郎の考案?

日本で「ボタン」という言葉が初めて使われたのは、江戸時代中期に出版された「安斎随筆」であることは前に書いた通りですが、ポルトガル語を流用したものです。外来語なのにどうして「釦」という漢字が存在しているのでしょうか。古い時代からあつた「紐」という字もボタンと読みますが、「ひも」のことを意味する言葉でもあります。古代に契り合った男女は別れるときに衣服の紐を結び合って次に逢うまで解かないようにしたといいます。
「釦」は大村益次郎が考え出した和製漢字です。日本人が考え出した文字ですから、和字といった方が正しいかも知れません。
衣服の端口を留める金属という意味を含ませた、よく考えられた文字です。
大村益次郎は1825年(文政8年)5月3日に、医者を業とする村田家の長男としてまれました。医者といっても身分は百姓で、4反程度の田畑があっただけです。子供のころは村田惣太郎と名乗っていました。17歳で防府の三田尻にある塾で医学を学びました。21歳で大阪の適塾に入り、3年後には塾の先生になったほどの天才です。
宇和島藩から招かれ名を村田蔵六と変え、医学や軍事を教えながら、蒸気船(軍艦)を建造したり、砲台を作ったりして、技術者としても有名になりました。宇和島藩の特別な配慮で幕府の講武所の先生に就任しました。
桂小五郎の働きかけで、長州藩に入り軍の制度、装備を飛躍的に改善させました。このときようやく武士の身分となり、大村益次郎と名乗りました。
長州藩の倒幕運動を叩きつぶすために、幕府は大勢の兵を送り込んできましたが、益次郎の指揮する長州軍は独特の戦法で、ことごとく破ってしまいました。
戦いに勝ち、政府の中心人物となった益次郎は兵部大輔、今風に言うなら陸海軍総司令官になっています。そして、果敢に行政改革を実行しました。
藩兵を解散させる、武士の佩刀を禁止する、断髪を励行する、軍服を機能的な洋風にするなどが改革の骨子でした。武士連中は「西洋かぶれの元百姓が武士を否定しようとている」と大反発、京都に出張中に長州藩の武士によって襲撃をうけました。瀕死の重傷を負った益次郎は自分が新政府軍用に作った大阪の病院で1869年(明治2年)11月5日に45歳で亡くなりました。
死の前に新しい軍服に金属ボタンを採用することも決めていましたが、明治3年11月20日に布告を予定している太政官令の作成に当たり、「ボタン」を現す適当な漢字が見つからなかったことで困惑しました。ポルトガル語を転用した外来語ですから当然のことです。
しかし、カタカナで表記するには権威がなさ過ぎると考えた益次郎は「釦」という文字を創案しました。これまでからあった「紐=ちゅう」の字を組み合わせて「紐釦=ちゅうこう」という文字を採用することにしました。彼が亡くなったのは明治2年11月、太政官令は1年後の明治3年11月ですから、「釦」は益次郎の置き土産と言えるでしょう。
そういえば「日本紐釦貿易株式会社」という社名の会社がありましたが、どのように読んでよいのか思案したことがあります。

釦雑学・ボタンの掛け違いを防ぐには・・・

ボタンの掛け違いという言葉があります。後になって矛盾や不都合を生ずるような最初の方でを犯した間違いのことです。最初のボタンを1つ掛け違うと、ずっと掛け違いが続き、最後の釦でやっと間違いに気付きます。また一からのやり直しです。人生にはよくあることです。
この掛け違いを防ぐためには、自分の目で見ることができる一番下のボタンから掛けるのが良いと、ものの本にあります。最近のシャツは裾の方にスペアボタンがつけられているものが多くなりましたので、裾のラインを良く確認しておかなければ、掛け違いは起こります。
洋服のボタンなら簡単にかけ直しもできますが、人生のボタンともなれば、「若気の至り」とばかり、言い訳をしているわけにはいけません。

釦雑学・人類の滅亡を賭けた核ボタン

一口にボタンといっても、いろいろなものがあります。洋服に使用するものはClothing Buttonと洋服という言葉が初めについています。
建築や工事現場でボタンと言うと、ベルをならしたり、機械を作動させるために指で押す突出した部分をさします。
この世で一番恐ろしいことは「ボタン戦争」です。ボタン戦争とはミサイルの発射ボタンなどを押すだけで、開始、終了するような形態の戦争です。軍事技術の高度化、自動化や核兵器の発達を例えて「ボタン戦争」ということもあります。このボタンを押せる権利は米・露ともに大統領に与えられています。大統領といっても人間です。何かの調子で誤ってボタンを押してしまうこともあります。人類の命運がかけられた「ボタン」です。

釦雑学・人間からパソコンへの意思伝達手段

パソコンマニアにとってのボタンはマウスでクリックするあのボタンを思い出されるでしょう。アスキーのデジタル用語事典には、次のように説明されています。
ダイアログやウィンドウに表示される、丸みのある長方形のスイッチ。この部分をマウスでクリックしてソフトウェアに命令を与える。ボタンには操作内容が記されている。操作内容は「はい」や「いいえ」といった、質問の答えであることが多い。ダイアログやウィンドウに表示される、丸みのある長方形のスイッチ。この部分をマウスでクリックして、ソフトウェアに命令を与える。ボタンには操作内容が記されている。操作内容は「はい」や「いいえ」といった、質問の答えであることが多い。

Hな形、背広のフロントボタンの穴

再び洋服のボタンに話題を変えます。
ボタンを通すために衣類の上前に明け、糸でかがったり布で縁取りをした穴をボタン穴といいます。背広のフロントに明けられたボタンホールをもう一度ゆっくり観察してみてください。
端に鳩目が開けられ、あと一直線に延びる姿は、男のシンボルとそっくりだと思いませんか。穴の寸法はボタンの直径にボタンの厚さの二分の一を足したものにするという約束事があります。穴の回りは美しい糸で丁寧にかがられますが、下手な職人さんがかがると草履虫のようになってしまいます。
必要な糸の長さは穴の寸法の30〜35倍といわれています。



sijukuボタン博物館(ボタンに関するあらゆる資料を収蔵)
 http://www.iris.co.jp/
薩摩ボタンの復刻版を発売したMAKANA LEIのページ
http://www.makanalei.com/


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