フロックコートを広辞苑で引いてみると、「男子の昼間正式礼装。
上衣はダブルで丈が膝まで及ぶ。黒羅紗を用いチョッキも同布地、ズボンは縞物をはく。」とあります。
フロックコートは16世紀から17世紀にかけて、農民が着用していた労働着が変化して、昼間の礼服になったものだといわれています。
フロックコートが礼服として登場したのは1870年頃で、1920年代にはモーニングコートにその地位を譲っています。
夏目漱石から田舎の校長先生まで、一時は多くの人に愛用されたフロックコートは世間の認知を受けて50年程で引退してしまいました。
男性的な身体的な魅力をすっぽり覆い隠してしまう、牧師の法衣を思わせる地味なデザインが原因になっているかも知れません。
流行の変化が少なく、それだけに息が長い紳士礼服の世界では珍しく短命な存在でした。
フロックコートの先祖を探ってみると二つの源流にぶつかります。そのひとつは、16世紀から17世紀に掛けて、農民が作業着や外出着として着用した、粗末な布で作った長袖の、丈も長い洋服のかたちはそのままで、高級な服地を使い年期の入った職人さんが入念に縫い上げることにより、昼間の礼装という最高の地位を得たという説です。
もう一つは17世紀から18世紀にかけてフランスの宮廷を中心として男性の間で好んで着られたジュストコール(Justaucorps)に源を求めるものです。ジュストコールとはひ「ピッタリ身体にあった」という意味で胴のくびれたタイトフィットの服です。丈が少し長くなり、胴の絞りも少し緩やかになったものが、フロックコートになったというのです。
プリンス・アルバート、アルバート・フロック、ビクトリアン・フロックとも呼ばれています。
生地は高級な黒色の毛織物,ダブルブレスト6つボタン、あるいは8ボタン、シングルの場合は3つボタン、丈は膝丈、ラベルには光沢のある絹地の拝絹を掛けます。ベストは衿つきのダブルが中心ですが、シングルも使われます。共生地、グレー、イエローなどの薄手のウール地が用いられます。
ズボンはグレーのストライプ、喪服として使用する場合は黒無地とします。
アクセサリー、コーディネートはモーニング・コートと同じです。タイはグレーのダービータイかアスコットタイ。
洋服の先進国・イギリス、ヨーロッパではテールコート(燕尾服)は夜、フロックコートは昼の礼服と住み分けがはっきり決まっていますが、日本では当初からTime、つまり時にによって洋服を着分ける考えはまるっきりなく、それよりも燕尾服が一番、フロックコートが二番、モーニング・コートが三番と順序付けを重んじたようです。
洋服を取り入れることで精一杯、着こなしのマナーまでとり入れる余裕がなかったのだろう、ともいわれています。
時期的には少しずれますが、明治29年3月22日の「当世流行間の洋服」という新聞記事によると、燕尾服が45円から25円、フロックコートなら上衣だけで、30円から15円、モーニングコートは35円ないし15円と仕立て代を紹介しています。これは当時の給与からすると相当に高いもので、礼服を2着も3着も誂えて、時間によって着分ける経済的な余裕がなかったことも、原因となっているものと思われます。
洋服に長い歴史を持つ西欧諸国では、お金に不自由しない王侯貴族が新しく生まれた洋服をいち早く身に着け、着装マナーが確立されてから、一般に普及するという過程を踏んできています。次の時代に着る人もこのルールをかなり厳密に守ってきました。
明治維新、文明開化のどさくさに紛れて導入され、田舎の校長先生まで急激に洋風化しようとした我が国では、洋式の礼服を1着持っていることが大変な名誉だったのです。政府も階級を重視して勅任官はこの服、奏任官はこれという具合に着る服を指定していますが、朝、昼、晩といった時間で着分ける習慣は全く無視してきました。
TPOの中で場所、場合は考慮に入れられていますが、Tの時が抜け落ちています。
1876年(明治9年)のことです。フロックコートに身を包んだ紳士が、三々五々、築地の西洋館に集まってきました。人力車や馬車でやってくる人の中には和服姿の人も見掛けましたが、当日の主賓に敬意を払って仕立ての良いフロックコートを着用する人も何人かいたようです。
藩命によりイギリス、アメリカに留学した経験の持ち主、森有礼[1847(弘化 4)〜
1889(明治22)]と広瀬つね子と の結婚式が行われようとしていたのです。
結婚式は古い習慣を打破して、耶蘇教式を取り入れた当時にしては画期的なものでした。福沢諭吉を立会人として「共に愛し夫婦の道を守る」という誓約書を交わしました。
文明開化を積極的に推進し、信仰の自由、婚姻制度の改革を称えていた有礼は、自ら時代の先端を行くフロックコートを着ての結婚式でした。
ここまでは良かったのですが、来賓として式に出た大久保利通[1830(文政13)〜
1878(明治11) ]が狩猟服のようなラフな服装で出席、場違いの洋服は新聞種になったということです。岩倉遣外使節の副使としてアメリカ・ヨーロッパに随行した経験の持ち主、日本の指導的な立場にあった人の服装に関する知識がこの程度であったことを物語る一つのエピソードです。
後日談。広瀬つね子は目の色の違う子供を産んで離婚させられました。
森有礼は暗殺により命を落としました。有礼が伊勢神宮に靴のまま上がり、ステッキで御簾を揚げたことに激怒した西野文太郎が、「国体に背を向けた国賊、西欧かぶれもいい加減にせよ」と、有礼が宮中で行われる憲法発布式に参列するために、官邸で大礼服に着替え階下に降りたところを、出刃包丁で刺したのです。
世の人々は急激な変化は望まないようです。
明治維新の前年、慶応3年(1896年)に生まれた夏目漱石はフロックコート愛用者でした。明治を生き抜き大正5年(1906年)に胃潰瘍を悪化させ49歳で亡くなった夏目漱石にとっては、少し改まったところに行くための洋服としてフロックコートは手放せないものだったのでしょう。漱石の作品にも、彼の行状を書き留めた文章にもフロックコートは良く出てきます。
漱石が29歳の時に熊本の五高の先生に就任するときの模様を描写したものがあります。
明治29年4月13日(月)午後1時50分過ぎ、停車場(現上熊本駅)に四人の男が降り立った。先頭のひげをはやした紳士は、第五高等学校着教授の菅虎雄先生、次に、重たそうなトランクを提げ、フロックコートを着たひときわりっぱなひげの紳士,これぞだれあろう、夏目金之助こと、わが漱石先生である。
フロックコートを着て得意げに胸を張っている漱石の姿がそこに見えてきそうです。
漱石は明治34から2年間ロンドンへ英語の勉強のために留学していました。「倫敦消息」で英国人の服装にふれています。
『それから公園へでも行くと角兵衛獅子に網を被(かぶ)せたような女がぞろぞろ歩行(ある)いている。その中には男もいる。職人もいる。感心に大概は日本の奏任官以上の服装をしている。この国では衣服では人の高下が分らない。牛肉配達などが日曜になるとシルクハットでフロックコートなどを着て澄している。しかし一般に人気が善(よ)い。我輩などを捕えて悪口をついたり罵(ののし)ったりするものは一人もおらん。ふり向いても見ない。当地では万事鷹揚(おうよう)に平気にしているのが紳士の資格の一つとなっている。』
漱石の代表作「吾輩は猫である」にもフロックコートが出てきます。
『それはない。赤十字などと称するものは全くない。ことに宮様の御顔を拝むなどと云う事は明治の御代(みよ)でなくては出来ぬ事だ。わしも長生きをした御蔭でこの通り今日(こんにち)の総会にも出席するし、宮殿下の御声もきくし、もうこれで死んでもいい』
『まあ久し振りで東京見物をするだけでも得ですよ。苦沙弥君、伯父はね。今度赤十字の総会があるのでわざわざ静岡から出て来てね、今日いっしょに上野へ出掛けたんだが今その帰りがけなんだよ。それだからこの通り先日僕が白木屋へ注文したフロックコートを着ているのさ」と注意する。なるほどフロックコートを着ている。フロックコートは着ているがすこしもからだに合わない。袖(そで)が長過ぎて、襟(えり)がおっ開(ぴら)いて、背中(せなか)へ池が出来て、腋(わき)の下が釣るし上がっている。いくら不恰好(ぶかっこう)に作ろうと云ったって、こうまで念を入れて形を崩(くず)す訳にはゆかないだろう。その上白シャツと白襟(しろえり)が離れ離れになって、仰(あお)むくと間から咽喉仏(のどぼとけ)が見える。第一黒い襟飾りが襟に属しているのか、シャツに属しているのか判然(はんぜん)しない。フロックはまだ我慢が出来るが白髪(しらが)のチョン髷(まげ)ははなはだ奇観である。』
「吾輩・・・」は明治38年(1905年)に発表された作品です。洋服縫製技術の水準や田舎紳士の着こなしが良く判ります。
明治40年ごろの京都風俗図絵によれば、フロックコートは医師、上級官吏、政治家、大学教授らが着用していたようです。また燕尾服着用の写真師の絵もあります。一般の男性の間では、和服の上に二重まわし(インバネス、「とんび」とも呼ばれた)を着るのが大流行しました。
ヨーロッパでも同じ現象が見られますが、上層階級が堅苦しい洋服に嫌気を差さして捨てたフォーマルウェアを下の階層のものが着用することは良くあります。次第に人気をなくしつつある燕尾服を写真師が着たり、ホテルのドアマンが着用するケースを見掛けますが、これはお客さんへの最大の敬意を表す一つの手段として理解した方がいいかも知れません。
明治から大正にかけて良く着用されたフロックコートも昭和に入ると人気が衰えました。
しかし、昭和4年(1929年)天皇に神島の粘菌、海中生物に付いてご進講するため、南方熊楠はアメリカ時代から大切にしまってあったフロックコートを着用したと記録にあります。
昭和39年総理府告示として発表された勲章等着用規程には次のようなことが書いてあります。
勲章等は、燕尾服若しくはローブデコルテ若しくはローブモンタント又はこれらに相当する制服を着用するものとする。ただし、一等勲章以上の勲章の副章、二等勲章以下の勲章若しくは文化勲章、褒章又は記章を着用する場合には、男子にあっては紋付羽織袴若しくはフロツクコート若しくはモーニングコート又はこれらに相当する制服に、女子にあっては白襟紋付又はこれらに相当する制服を着用し、四等以下の勲章、褒章又は記章を着用する場合には平服に着用することができる。
規則ではフロックコートはまだ生き延びているようです。何故か結婚式場にもフロックコートがたくさん用意され、時代の先端を行くはずの若者が、喜んで着用しているということです。
タキシード会議の楽しい紳士礼装礼服フォーマルウェアの着方
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