ギリシャ時代に誕生し、以来紳士の頭を埃、風雨から守り、装飾機能も立派に
果たしてきた帽子。明治の後半から大正、昭和にかけては多くの人に愛用されてきました。
戦時中は個人的なお洒落が許されず、仕方なく戦闘帽、国民帽が紳士の頭を覆っていました。その反動もあり、戦後もしばらくの間はソフト帽が、飛ぶように売れました。昭和30年代に入って次第に紳士の頭上から帽子が消えていきました。
洋服が身体を美しく見せるものとすれば、頭に被る帽子は顔を美しく見せる小道具ともいえます。男性はまたしてもお洒落の手段を自らの手で放棄したことになります。帽子離れは世界的な傾向といえますが、ヨーロッパでは「帽子をかぶらないものは紳士ではない」という諺が残っています。伝統がある紳士帽子をこのまま消滅させてしまっては悔いが残ります。
帽子に興味を持ってもらおうと、いろいろ調べてみました。
かって帽子を愛用している人は二つのグループに分れていました。第一には時代風潮、流行にかかわらず本当に帽子の好きな人です。もうひとつは若ハゲを隠すために帽子を着用している人です。そのためか帽子をかぶると、「頭が蒸れてハゲになる」というデマが飛び交ったことがあります。
帽子がハゲの原因になるのなら、四六時中帽子をかぶっている自衛官、警察官、鉄道員は全員がハゲということになります。帽子をかぶるからハゲになったのではなく、もともとハゲていた人が帽子をかぶっていたというのが正解です。頭の天辺の毛は男性ホルモンの支配下にあります。ハゲは男性的であるが故の悩みともいえます。
これらの人も、今日ではアート○○をはじめとする巧みに作られたカツラが開発され、帽子のお世話にならなくても良いようになりました。したがって、現在、帽子を愛用している人は心の底から帽子を愛している人だといえます。
「帽子」の起源は古く、紀元前4千年頃のエジプトでは、王が王冠をかぶり、庶民が頭巾をかぶっていたことが、遺跡調査の結果から分かっています。古代ギリシャ時代に小さなクラウンにブリムのついた帽子「ペタソス」が誕生しました。このぺタソスが帽子のルーツだとするのが一般的です。
日本では平安朝以降の烏帽子(えぼし)や、頭巾(ずきん)などがかぶられていましたが、これを「帽子」と呼ばず、外国から来たかぶりものに限って「帽子」と呼んでいました。
広辞苑によれば帽子とは「頭にかぶって寒暑または塵埃を防ぎ礼容を整えるもの」と、難しい言葉を使って解説しています。
外来のキャップやハットをなぜ「帽子」というようになったのでしょうか。明確な資料はありませんが、僧侶のかぶる一種の頭巾を「帽子」と書いて「もうす」と読ませていました。今昔物語にも「小さき船に乗りたる翁の「帽子=もうす」をきたる」という一文があります。
わが国が西洋の帽子を初めて目にしたのは、安土桃山時代で、フランシスコ・ザビエルが西洋風の烏帽子(えぼし)をかぶって、日本にやってきた時でした。当時は南蛮笠、南蛮頭巾と呼んでいましたが、織田信長がこれに興味を示し、そっくり真似たもの作り、得意になってかぶったこともあり、帽子に対する人々の関心が高まりましました。新しいものが世の中で認識されると、相応しい名前が必要になります。坊さんのかぶりものと区別するために、「もうす」を言葉の響きが新しい「ぼうし」と読み替えたものと推察されます。
「帽」だけでもかぶりものを意味しますが、後に付けられた「子」は一定の物の名に添えて、漢字二字の熟語を作る接尾語です。金子、銀子、扇子、様子のように「す」と読ませる場合と帽子、調子のように「し」と読ませる場合があります。
数ある帽子の総代格はなんて言っても第一礼装・燕尾服を着るときにかぶるシルクハット(トップハット)でしょう。この帽子はフォックス・ハンティング(狐狩)用の乗馬帽として考えられたもので、ハンティングトッパーという異名を持っています。
円筒形の高いクラウンが、堅く、丈夫に作られているのは、落馬したときに頭を保護するためだといわれています。また、この帽子には礼装用としては必要がないと思われる脱落防止用の紐までついてるのは、乗馬帽の名残を残しているからです。ヘルメットが時を経て第一礼装用の帽子にまで出世したということです。
シルクハットの起源についてはいろいろな説があり、どれが本当か分かりません。1760年にイタリアのフィレンッエで誕生した。1775年にフランス人が中国・広東省の帽子屋に作らせた。1797年にロンドンの帽子屋ジョン・ヘザーリントンが考案し、これを着用してロンドンの目抜き通り(たぶんリーゼントストリート、あるいはオックスフォードストリートだと思うが)を得意げに闊歩したのが始まりだ。という諸説があります。
いずれにしてもシルクハットは1700年代の後半に誕生したことは事実です。
1823年にフランスの帽子屋アントワーヌ・ジビユスが折り畳み式のシルクハットを発明しました。腕に抱えて持ち運びできる便利さが受け、1837年には一財産を築くほどの売り上げをマークしました。オペラを観劇する時にもこれまでの背の高いシルクハットではでは邪魔になり、クロークに預けるのにも、かさばるので困っていた人が多かったのでしょう。後にこの帽子は「オペラハット」と呼ばれるようになりました。
1820年から50年代にかけて、紳士帽子の大部分はシルクハットで占められていました。ビーバーハットは値段が高いので、台紙に絹織物を張付けただけの簡便なものも考案されました。しばらくして布の芯地にシルクプリユシュを張る方法に改良されました。黒色が一般的で、アスコットダービ用にはグレーが当てられでいました。昼間用として白いハットも見られました。
端がまきあがったブリム(つば)の幅は比較的に狭く、高いクラウンが特長とされているシルクハットはその形状からシリンダハットとも呼ばれていました。
男の世界では長さや大きさを競うことが少なくありませんが、シルクハットのクラウンも例外ではなく、1850年には8インチ(20センチ強)という驚くほど長いものが登場しました。そうかと思うと1860年代末にはロンドンの若者の間で、円筒形のクラウンを半分ぐらいにカットした山の低いシルクハットが大流行しました。「ミューラーカットダウン」、あるいは「ミューラーハット」と呼ばれるものです。
実はこの帽子、殺人犯として指名手配を受けていたミューラーが高いクラウンでは人目に立つので、持ち前の洋服技術を発揮してクラウンを短くカットしたものでした。それが格好良いとして若者にもてたというわけです。流行とはおかしなもので、何がヒットするかわかりません。犯行前に自分が考案した帽子がヒットしていれば、お金がたんまり入り、殺人の罪を犯さずにすんだかもしれません。シルクハットのクラウンは時代と人の心理の変化により、高くなったり、低くなったり、変化してきました。
ロンドンのタクシーはオースチン社特製の黒塗りハイルーフですが、クラウンの高い帽子をかぶった時に天井につかえないように配慮された設計になっています。
ロンドンでも帽子をかぶらない人が増えてきましたが、さすがに伝統を大切にする国です。タクシーは昔ながらのスタイルのままです。
運が良ければ、ロンドンの金融の中心街・シティではチョークストライプのオーソドックスな三揃えに山高帽、手にはステッキを持った、古い映画のシーンを思い出させる光景に接することができます。
福沢諭吉が片山淳之介のペンネームで、慶応3年(1867)に出版した「西洋衣食住」には、身分の高いものは高帽子を用い、丸帽子は軽きものが用いるものなり・・・と、シルクハットのかぶり方を解説しています。
日本でシルクハットのことにふれた、文献はこれが初めてです。
慶応4年に王政復古がなり、明治天皇は江戸へ行幸されたましたが、その時の服装はマンテル型の三揃えにシルクハットだと、伝えられています。
天皇や閣僚級の上層部の話は別として、日本の庶民階級が「帽子」をかぶるようになったのは、明治16年の鹿鳴館時代以降です。
明治20年頃から商人が「鳥打帽」をかぶり初め、またたくのうちに「鳥打帽」は商人の象徴となりました。
明治30年頃には「山高帽」が大流行し、明治45年頃には、今のポリビアのように誰もが「帽子」をかぶっている状態になりました。
帽子を作る木型は外国からの輸入に頼ってきましたが、国産の木型を求める声が高くなり、これまで農具などの柄を作っていた木工職人が帽子木型の職人へと転職していきました。
帽子木型職人を「ぼうや=棒屋」と呼ぶのは「帽子の帽」から来ているのではないかと思っていましたが、木の棒を作る技術を転用したことが由来となっているというのです。
夏目漱石は『わが輩は猫である』に、パナマ帽のことを「高価であるけれども丈夫で重宝なもの」と書いています。漱石は『夢十夜』など自作の小説の殆どに、何らかの形で帽子を登場させているほどの帽子好きでした。文人には帽子の愛好者が多くいたようです。
森茉莉(森鴎外の長女)の『父の帽子』、漱石の弟子・内田百閧フ『山高帽子考』『円筒帽子と山高帽子』、国木田独歩の『帽子』、川端康成の『帽子事件』、三島由紀夫の『帽子の花』、樋口 覚の『日本人の帽子』などにその片鱗がうかがえられます。
大正から昭和に掛けての間は帽子最盛期といえるでしょう。ピーク時の日本における帽子着用率はなんと95%に及んだといわれています。
「猫も杓子も・・・」とは言い過ぎですが、よほどの事情のある人か、よほどの変人ではない限り帽子をかぶっていたことになります。
夏はパナマ、冬はソフトを中心にTPOに合わせてさまざまなハット、キャップが、かぶられました。戦争中は国防色の戦闘帽形式のものを着用するように強制にされましたが、戦争が終わるとしばらくの間、着用できなかった反動もあり、焼け残りのソフト帽が飛ぶように売れました。
日本一の注文洋服チェーンとして知られている銀座・英國屋は紳士服の素材である毛織物が統制解除になるまでの間、「銀座ハット」という店名で銀座で帽子屋さんを始め、短期間で5つの店を持つようになったそうですから、売れ行きの凄さが分かります。
そのころの帽子はステータスシンボルでもありました。角帽の格好の良さで志望大学校を選択した人も少なくありません。芸術家は好んでベレー帽をかぶりました。われわれジャーナリストの間ではダスターコートと同素材のハンティングベレーを得意げにかぶった一時期がありました。
それだけかぶられていた帽子がどうしてかぶられなくなったのでしょうか?
明治時代から戦前まで、日本の洋服マナーはヨーロッパとりわけイギリスの紳士をお手本にしてきました。戦後、アメリカ兵が日本に駐留するようになって、アメリカ文化の影響をモロに受けることになりました。合理的というか、無駄と思われることはしない、面倒なことはお断り、古いものにはこだわらず、勇敢にカジュアル感覚を採用するアメリカの影響をうけたので、ハットレス化が進むのは当然の結果と言えるでしょう。
押し合いへし合いの満員電車で帽子をかぶると周りの人に迷惑をかけます。人が集まる場所でも帽子を預かる施設を持たないところが少なくありません。髪型が帽子着用にふさわしくないといった日本独自の理由が加わって、本家のアメリカ以上のハットレス化が進んでしまいました。
帽子は顔に近くにあるもので、顔の輪郭を考慮に入れてかぶると欠点をカバーすることができます。一口で説明すると「顔の形とクラウン形が同じ傾向の帽子を選ぶ」ことが原則です。
丸顔の人は丸い感じの帽子を、角張った顔の持ち主は角張った感じの帽子をかぶります。欠点を補おうとして、丸顔の人が角張った帽子をかぶると逆効果になってしまいます。
あごの細い人はクラウンの先が細くなったものがいいでしょう。頬がこけて貧弱な顔をを補うにはクラウンの横幅の狭いものをかぶります。
クラウンが高く角張った帽子は権威の象徴で、低くて丸いクラウンは親しみ、愛嬌を感じさせます。
かぶり方でも雰囲気は変わってきます。帽子を目深にかぶると、落ち着いた雰囲気となり、気品があふれ、高尚さ、個性が感じられます。ブリムを持ち上げてかぶると、陽気、若々しさ、解放感が感じられます。
紳士服地メーカーの依頼を受け、モデルを使ってファッション写真を撮影していたときのことです。シャッターを切る寸前に何か物足りない感じがすることがあります。そんな時に帽子を手に持たせたり、かぶらせたりすると、「これで決まり!」と思わず叫びたくなることがしばしばありました。帽子は「はっと」するほどの効果を生み出す魔力を持った小道具といえます。
ファッションショーでも同じです。全部の服に帽子をつけるのは無理だとしても、これはと思う服に帽子をコーディネートさせると、その服はもちろんのこと、周りの服まで引き立ててくれます。大切な脇役を務めてくれる帽子を撮影やショーが行われるたびにFハットさんから借りてきます。「気にいった帽子があれば差し上げますよ。」という言葉に甘え、時々プレゼントしてもらっていたので、かぶる帽子には不自由しませんでした。
その中で一番気に入っていたのがノックス社製のソフト帽でした。帽子のリボンに添って脱落防止用のひもがついていました。ひもの端についたボタンを洋服のラペルに付いているフラワーホールに掛けておくと、風で帽子が吹き飛ばされても地面に落ちることはありません。
風の強い日に帽子を吹き飛ばされたことがありますが、伸縮するこのゴムひもに助けられ、魔術師の帽子のように地上数十センチのところで浮遊していました。後ろを歩いていた人のびっくりしたような顔が今でも思い出されます。
そのころお洒落な人に人気のあったというか、憧れの的となっていた輸入帽子はボルサリーノ(Borsalino)、ノックス(Knox)、ステットソン(Stetson)のように記憶しています。
ボルサリーノ社(Borsalino Hats)は世界で最高品質の帽子を作るメーカーとして知られています。北イタリア・ミラノ郊外にあるピエモンテ州・アレッサンドリアは「帽子の町」として知られています。同社の創業者・ジョゼッペ・ボルサリーノ(1834-1900)は1857年、ここに帽子工場を作りました。創業者の並はずれた能力と新しい生産設備を積極的に取り入れたことが幸いして、飛躍的に業績を伸ばしました。
創業者が亡くなった1900年には75万もの帽子を作るメーカーに成長していました。
そのうちの約60%が世界各国に輸出されました。
跡を継いだテレシオ・ボルサリーノ(Teresio Borsalino)も業績を急成長させ、1913年には2500人の従業員を抱え、年間に200万以上の帽子を生産するスケールになりました。世界の男達に愛されたヘッドウェアを百数十年間生産し続け、今日に及んでいます。
このボルサリーノをいっそう有名にしたのが、社名をそのままタイトルにした映画・ボルサリーノです。
1969年に製作されたフランス映画で、当初はアラン・ドロンとジャン・ポール・ベルモントというフランス映画界を代表する二大俳優が共演することで話題を呼びました。
1930年代のマルセイユが映画の舞台です。フランス第二の都市・港町として知られるマルセイユで2人男がギャングとして、成り上がっていく様子を描いたアクションものです。
題名に相応しく、あらゆるシーンでボリサリーノの帽子が登場してきますが、帽子がステータスシンボルになっていることが、映画を通じてはっきり認識されます。
「日曜洋画劇場」、「金曜ロードショウ」、「木曜ゴールデン映画劇場」でも取り上げられ、よく流れた映画ですから御覧になった人も少なくありません。
ステットソンの歴史は1850年代に始まります。ジョンB.ステットソンの父親は帽子職人でした。
ある日、ジョンB.ステットソンは健康を回復するために、友人を伴って明るい空、澄んだ空気を求めて西部へ狩猟旅行をしました。
狩猟で集めた毛皮を熱湯につけて、それを広げ、擦り合わせて、再び湯につけ、織らずに布を作り、友人を驚かせました。つまり、毛の収縮を利用してフェルトを作ったわけですが、その様な手法を知らない友人にはマジックのように思えたのです。
また、彼は避難用の小さなテントを作りました。父親から教わった帽子作りの手法を応用した機能性に富んだもので、好評を博しました。
彼は西部の男を対象にして帽子を作りました。その帽子は照りつける太陽を遮り、降りしきる雨から頭を守るために広いつばと大きくて高いクラウンを持ったユニークな形をしていました。これまでの帽子には見られなかったスタイルでしたが、カウボーイたちはこの帽子の価値を認め、15ドルのお金を支払ってステットソンの帽子を買い求めました。
1865年にステットソンはフィラデルフィアに100ドルで小さい部屋を借りました。1年後に「平原のボス」と名付けられた帽子を開発しましたが、西部の男に好評を博したあの帽子がデザインの基本になりました。西部の開拓精神に合理的なアメリカのライフスタイルを巧みに融合させたものです。
ステットソンはディーラーのもとにサンプルを送りました。「平原のボス」という分かりやすいネーミングとデザインコンセプトが、多くの人の支持を得て、注文が殺到しました。
この成功をきっかけに企業スケールを拡大させ、130数年経過した今日では、いろいろな種類の帽子を生産していますが、ウエスタン・ハットに関しては、他の追随を許さない確固たる地位を確立しました。
たゆまない技術の革新、新しいライフスタイルに対応したデザイン、適度な流行の取り入れを基本理念としていますが、どんな場合でも品質を落とさない真摯な態度が、アメリカはもとより、世界の紳士から大きい支持を得たのでしょう。
名将軍、石油王、映画スター、大実業家、アメリカの大統領の頭の上にステットソンの帽子が誇り高く輝いている光景を何度か見ております。
冬の紳士帽の素材としてはファーとウールがあります。カジュアルな雰囲気でかぶる帽子を入れるとツイード、麻、コットン、化学繊維と繊維全般に及びますが、ここではハットに限って話を進めます。
ファーもウールも石鹸・アルカリ溶液に漬けて、圧力、摩擦を加えると、収縮して繊維の組織が密度を増し、表面の毛端が絡まって毛布状になります。これをフエルトと呼んでいます。
毛独特の性質を発見したのはクレメンテスというお坊さんで、聖地を目指して歩いていたところ、靴が大きいので羊の毛を詰めました。聖地へ着いたときには、足のぬくもり、汗、歩くことによる圧縮で羊の毛は立派な。フエルトになっていました。
ファーはウサギの毛、ウールは羊の毛が原料です。フエルトを大まかな帽子の形にしたものを「帽体」と呼んでいます。木型を利用して蒸気で帽子の形に整えていきます。
いちばん上等なのはウサギの毛で作った「ファー帽体」で、毛質が優れ、毛足が長いため薄くても形が整えられます。そのため軽くしなやかで、手触りの良い帽子ができあがります。染色性に勝れ、優雅な光沢を持っており、帽子には最高の素材だといわれています。
反面、原料が高い、薄くて破れやすい、一度伸ばしてしまうと元に戻せない性質を持っていますので、高度な技術を持った熟練職人でないと作業ができません。
「ウール帽体」は羊の毛で作られたものですが、丈夫で実用的な帽子にはうってつけのものです。ファーと比べると少し厚く、固い感じがしますが、日常にかぶる帽子としては十分な特性を持ち合わせています。原料の値段が安いので、量的には一番多く使われています。
夏の帽子素材はなんといってもパナマでしょう。原料は南米のエクアドル、コロンビア、ペルー産の「トキヤ草」です。収穫した草をいったん乾燥させてから水に浸し、軟らかい状態にして帽体に編みあげていきます。日本は世界に名だたる高級品好みの国で、複雑なレース編みを要求したり、ちょっとした傷でもクレームの対象にするため、現地では良い得意さんと言いながら、うるさく注文をつける国だと認識されているようです。
原料がパナマ産ではないのに、どうしてパナマ帽というのでしょうか。帽体の出荷したところがパナマ市であった。1895年にアメリカの軍人がパナマでこの帽子を見付けて持ち帰った。1906年セオドア・ルーズベルト・アメリカ大統領がパナマ運河を視察したときに、この帽子を大いに気に入り着用した。と、いずれももっともらしい名前の由来が紹介されていますが、真相は薮の中、パナマ運河を経由してアメリカに運ばれたことだけは事実です。
これは私の独断と偏見に満ちた解釈ですが、ブラジルハットではコーヒーの回し者のようだし、エクアドルハットでは音の響きが良くない。原料のトキヤ草はペルーでも産出するので特定の国の名前をつけるのはまずい。誇り高きアメリカとしては避けて通りたい道である。これらの国々と関連の深いランドスケープとして、パナマ運河を持ってきた。語呂がよいし、単純で覚えやすい。案外こんなことから名前が決まったのかも知れません。
日本ではパナマという言葉が拡大解釈して使われており、麦わらが原料のストローハット、モコラ、パーム、カンピ製の帽子までをひっくるめてパナマといわれているようです。夏の帽子を購入するときは注意が必要です。本物のパナマを求めるときは「本パナマ」と表示してあるものを選ばなければなりません。
本パナマ帽は夏季の昼間に着用するものです。強烈に照りつける太陽光線をはねつけ、涼しい日陰を作ってくれます。にわか雨にあっても型くずれしないものでなければなりません。防暑性、耐久性、軽量、しなやかさ、適度な張り、編み上がりの美しさ、どれをとっても本パナマは他の原料に比べ、一頭地を抜いています。
昭和の初期には台湾のパームを使った帽子が「パナマ帽」という名前で売り出されました。
外見は本パナマとよく似ていますが、原料が太くその分だけ重くなっています。慣れると
簡単に見分けられますが、本パナマと信じてかぶっていた人もいたようです。
大正時代にモダンガール、モダンボーイ、つまりモガ・モボが一世を風靡したことがあります。モボが好んで着用したのは俗にカンカン帽と言われているボーダーハットです。これは麦わらで作られていました。
広辞苑を見ると「脱帽」の意味として、1.敬意を表すために、帽子を脱ぐこと。2.比喩的に(その相手には、とてもかなわないとして)敬意を表すこと。とありました。
帽子はかぶるものですが、脱ぐときにその人の人品が問われることになります。広辞苑が紹介するように帽子を脱がなければ、相手の存在を無視したことになります。帽子をかぶる以上は国際スタンダードとして決められている「脱帽」のマナーを心得ておく必要があります。
【エレベーター】
居住・宿泊施設がある建物(ホテル、アパートなど)のエレベーターで、淑女と乗り合わせたときには脱帽する。淑女はこれに対して会釈を返します。デパート、ビジネスビル、官公庁など宿泊設備ない建物のエレベーターでは脱帽しなくても失礼になりません。
【路上】
知り合いの淑女と路上で行き会ったときは脱帽します。一声かけて行き違ってしまうケースでは、片手で帽子を持ち上げる程度でOKですが、立話をするような場合は、別れるときまで帽子を脱いでいなくてはなりません。
【飛行機】
機内は原則として脱帽です。カジュアルなもの、スポーツ用の帽子も脱いだ方がよいようです。
【その他】
靴を脱ぐ所は原則として脱帽です。
日除けを目的にかぶるパナマ帽は室内では脱帽。
手袋を脱ぐところは、帽子も脱ぎます。
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