アイビーリーグ・モデル(Ivy League Model)

「みゆき族」からアメリカ大統領まで

「アイビールック」。団塊の世代には懐かし響きを持つ言葉でしょう。そうです。
VANの社長だった石津謙介氏がアメリカで大流行していた洋服スタイルを日本に紹介したものです。
新しいファッションに飢えていた日本の若者が一斉にこれに飛び付き、石津さんは「アイビーの教祖」となりました。教祖が「私はファッションではなく、風俗を作る」と予言した通りに銀座にアイビールックに身を包んだ「みゆき族」が誕生しました。
アメリカの歴代大統領も、着用したといわれている「アイビーリーグ・モデル」とはどんな洋服なのか、歴史的な考察も含めて、探りを入れてみました。
カット写真はアイビーリーグの一つ、プリンストン大学。渡里 勇二氏の撮影。
同氏のホームページ・北米大陸横断【後編:中−東部都会地】より。

アメリカを支える人材の輩出で競う「蔦のある大学」

アイビーと(Ivy)とは英語で「蔦=つた」のことを意味します。アメリカの東部には8つの名門大学があります。ハーバード(Harvard University)、イエール(Yale University)、ブラウン(Brown University)、コロンビア(Columbia University)、コーネル(Cornell University)、ダートマス(Dartmouth)、ペンシルベニア(University of Pennsylvania)、プリンストン(Princeton University)の各校です。いずれの大学も長い歴史を誇り、学問レベルが高く、優秀な人材をあらゆる産業、政財界に送り出しています。
煉瓦造りの校舎、生い茂る蔦はシンボルになっています。設立の一番早いのはハーバードで1636年、一番新しいのが1769年設立のダートマスです。
アイビーリーグの由来は1937年に上記8大学の参加によってフットボール連盟が結成された時にザ・ニューヨーク・ヘラルドのスポーツ担当記者が煉瓦造りの校舎に蔦(アイビー)が生い茂っていることからヒントを得て命名したといわれています。
もっと古く1920年代にハーバード、イエール、プリンストン、コロンビアの4大学で結成されたフォー・リーグの「4」をローマ数字を「W」と書き、最後に「Y」をつけてIVYになったという説もあります。

フットボールと洋服、ライバルであり、仲間でも

1930年ごろから8大学の間でフットボールの試合が行われるようになりました。一般にアイビーリーグといわれているものです。
アイビーリーグは9月に始まり11月に終わります。この期間はアメリカンフットボールの話題で持ち切りとなります。ハーバードとイエールの試合で幕を閉じるのが恒例となっていますが、この最終試合は「THE GAME」と呼ばれアイビーリーグ中でも一段と格調の高いものとされています。
このアイビーリーグ出身者が好んで着る服がありました。家柄が良く、優秀な頭脳の持ち主、社会的にも指導的な立場にある人々が着る服ですから、てらいが無く、オーソドックスをベースにした伝統的なものながら、着やすく、活動的なものです。
トラディショナルという言葉がぴったりのこの服に注目したアメリカのファッション・トレンドを決定付ける機関であるIACD(国際衣服デザイナー協会)が、アイビールックと名付けたのが始まりです。

自然な肩線、直線的なデザインが特長のIVY

アイビーモデルのデザイン的な特徴は、第一に自然な肩線(ナチュラルショルダー)をあげることができます。肩綿でショルダーを強調することはしないので、ややなで肩の優しそうなショルダーラインを形成しています。
次の特徴は胸にダーツがない直線的なシルエットです。ウエストに絞りがないため、ほっそりしたように見えますが、ウエスト部分にはゆとりがあります。シングルブレスト、3ボタン、2つ掛け、または専門的には段返りといわれている衿の返りを甘く設計した、中1つ掛けが基本となっています。細目のノッチドラペル、水平につけれられた箱型のウエルトポケット。上着の裾にはセンターにフックベントが切られています。洋服の保守本流といわれているイギリス調の服とは好対照をなすアメリカ生まれのアメリカ人好みのウェアといえるでしょう。

スラックスはパイプ軸に似て細身で直線的

スラックスはパイプの軸に似ていることからパイプステムと呼ばれている細身で直線的なものが組み合わされています。スラックスの後ろに尾錠が付いています。かってはこれでウエストサイズを調整していました。
現在は形骸化してしまい実際には用いられず、アイビーリーグのシンボルとなっています。
活動的で機能性に富んだスタイルであるために、学生に人気があったが、アイビーリーグ出身の年配者も好んで着用しました。
表地には流行に左右されないダーク−カラーの無地物を使います。
コーディネートするシャツはオックスフォード地を使ったボタンダウンです。ネクタイは渋い感じのストライプを用います。
ナチュラルショルダー、3つボタンヂャケット、パイプステムのスラックス、オックスホード地のボタンダウン・シャツ、ストライプ・タイの4点セットはアイビーモデルの必須アイテムで、どれ一つ欠かすことが出来ません。

ワスプの誇りと共に着られるアイビーリーグモデル

服装のカジュアル化を世界で一番早く進めたのはほかならぬアメリカですが、案外保守的なものが根強く残っています。特にアメリカのアングロサクソン系住民は伝統的なスタイル(Traditional Style)に愛着を持っているようです。
彼らを総称してワスプ(WASP=White Anglo-Saxon Protestant)と呼ばれています。白人でアングロサクソン系のプロテスタント、つまり、イギリスおよび北ヨーロッパから移民してきた人の子孫のことです。
エリート意識が強く、お祖父さんも、父親も、自分も、子供もアイビーリーグ出身者で固めています。
アイビーリーグといえば良家の子女が頭に浮かび、金持ちファッションを想像しがちですが、彼らの生活は案外質素で親譲りの着古したジャケットやセーターを何のてらいもなく着用します。ヂャケットの肘が抜けてしまうと、スエードのエルボパッチを張りつけて、また何年間、着続けるという具合いです。
スラックスの後ろにウエストサイズ調整用の尾錠が付いているのは、少し大きめのスラックスにしておき、体型変化に備えるという節約精神から考え出されたものです。
日本流の表現なら弊衣破帽、バンカラと共通するものがあります。そんな彼らも大切なパーティ、セレモニーに出席するときには、アイビーモデルの洋服をバッチリ着こなします。

ブルークス(米)とVAN(日)が普及に一役

アイビーモデルは1940年後半から1960年代前半にかけて、メンズ・ファッション界の注目を浴びました。1952年(昭和27年)にアメリカでポピュラーになり、5年後の1957年(昭和32年)に日本に紹介されました。
アメリカではTraditional (トラッド)の中の一モデルとしてアイビーが地位を占めているにもかかわらず、日本ではアイビールックが先に紹介されたために、アイビールックは青年向き、トラッドは大人向きと位置付けられてしまいました。 
この、トラッドとアイビーリーグモデルの洋服を語るときに欠かすことが出来ない会社が2社あります。トラッドの元祖として定評のあるアメリカのブルークス・ブラザースと日本アイビー教の教主・石津謙介氏が経営していたVANです。

高品質で顧客を引き付けるブルークス・ブラザース

ブルークス・ブラザース(Brooks Brathers)の歴史は1818年にさかのぼります。同年4月7日に、ヘンリー・サンドス・ブルークスが45歳のときに、ニューヨーク市に店舗を開いたとことに始まります。
彼は:「最も素晴らしい質の商品のみを作り取り扱うこと」を指針にしました。
公正な利益を付加して売ります。「そのような高品質商品の本当の値打ちを求めて、評価してくれる人々に買ってもらう」ことに徹しました。
1833年にはヘンリーが亡くなり、会社の経営は彼の長男、ヘンリー・ジュニアにゆだねられました。1850年には、ヘンリーの息子ダニエル、ジョンおよびエリシャがファミリービジネスを継承します。文字通りのブルークス・ブラザースの誕生です。
同時にゴールデンフリース(金の羊毛)を会社の商標として採用しました。これは15世紀から続いていてきた、英国のウールンマーチャント(毛織物卸商)がシンボルとして用いてきた紋章です。
1858年にはブロードウェーにも店舗を構え、1903年には株式会社に組織を変え 1915年にマディソン街、1931年にウォールストリートと着実に出店を続けました。
現在アメリカに158の店舗があり、日本、香港、台湾およびイタリアなど90カ国を越す国に商品を売っています。日本では1979年にBROOKS BROTHERS JAPANが設立されました。

1845年に米国で初の既製服を発売

「トラディショナルな洋服はブルークス・ブラザース」という定評を確立させ、大統領を含むアメリカ社会の中枢を支えてきた人々を顧客に収めるために、ブルークス・ブラザースは流行の面でも積極的に新しい提案を行ってきました。流行というよりも、新しいライフスタイルを提案してきたと表現した方が適切かもしれません。
一番初めの提案は1830年になされましたた。暑い夏を涼しく過ごすために、凹凸感があるコットン素材、シヤーサッカー(Seersucker)をフロックコートに導入しました。軽く、生地表面の凹凸は涼感を誘い、夏の衣料に革新的な提案として迎えられました。
1845年にはアメリカで一番早くレディメード・スーツを発売しています。1849年にカリフォルニアで起こったゴールドラッシュは人間をせっかちにしたようです。既製服ができる前は注文服でした。注文してから洋服ができあがるまで当然時間がかかり、気長に待たなければなりません。テーラーの気まぐれによって納期がのびることもしばしばありました。
気に入った洋服でサイズが合えばすぐに着られることは、当時には革命的なことでした。

リンカーン大統領暗殺時のコートはブルークス製

1865年にアブラハム・リンカーンの第二回目の大統領就任式が行われました。その時に着ていた格調の高いコートはブルークス・ブラザース製でした。コートの裏には手の込んだハンドステッチでアメリカの象徴である「イーグル」と「一国、一つの運命」の言葉が縫い込んでありました。
1860年共和党の大統領候補に指名されたリンカーンは、自由州の支持を受けて11月6日、第16代アメリカ大統領に選ばれました。
残念なことにリンカーン大統領はフォード劇場で暗殺されてしまいました。リンカーン大統領は、「人民の、人民による、人民の為の政治」を初めとする数々の名演説、奴隷解放宣言、丸木小屋生まれ、悲劇的な死といったことで名をあげ、ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソンなど建国の父達と並んでアメリカ国民に最も愛された大統領の一人となりました。
他にも多妻婚の禁止と取締りのための法律など、多くのものを残して亡くなりましたが、国民総ての悲しみが、同社の名前をより一層多くの人々に知られるという皮肉な結果になりました。

1895年、トラッドの原点サックスーツを開発

1890年にはブルークス・シニア・パートナー(フランシスG.ロイド)が英国を訪れて、現在、われわれが締めているような薄手のシルク地を使ったネクタイを見つけ、いち早く商品として取り上げています。
1895年当時、背広は袋のような形をしていましたので、サックスーツ(Sack Suit)と呼ばれており英国のデザインが本流とされていました。ブルークス・ブラザース社はアメリカ人が着て本当に良く似合う、どんな体形の人にでもフィットする純粋のアメリカ生まれの洋服を開発しました。
肩綿をほとんど入れないソフトでナチュラルなショルダー、シングルブレストのヂャケット、それに前タックのないプレーンなフロントのスラックスを組み合わせたもので、アイビーリーグモデル、アメリカン・トラディショナルの原点をなすスタイルが採用されました。
肩綿によりショルダーラインを少し強調しながら、肩先が下がらないようにラインを整える、胸や肩胛骨にボリュームを与え丸みを帯びたシルエット、ウエスト部分では少し絞りを入れる、というブリティッシュ調の洋服とは一線を画すフレッシュで活動的なイメージを与えるものでした。

創業者の孫が考案、ボタンダウン・シャツが大ヒット

1896年、ジョン・ブルークス(創業者の孫)は、ボタンダウン・シャツの導入により新しい流行史を作りました。
衿先に穴を開け、身頃に付けた釦で留めるようにしたこのシャツは、ジョン・ブルークスがイギリスでポロ競技を観戦した時、選手たちがユニフォームの衿を釦で留め、風にあおられても翻がらないようにしているのを見て、インスピレーションを得たといいます。
The Button-Down Polo Collar Shirt と名付けられたこのシャツは多くの顧客の支持を得て、たちまちのうちにベストセラーになります。
ネクタイを結び衿先の釦を止めると、カラーが柔らかくロールして独特の美しいラインを形成します。アイビーリーガーをはじめとする人々にはこの襟元がたまらない魅力になっています。
フロント部分の表前立、背部のボックスプリーツという同社が決めた約束事を含めて、1920年代にはアイビーリーガーの必須アイテムとされるほどの地位を得ました。アメリカの指導的な立場の人が好んで着用したため、一般人にも広がり、世界レベルでの支持層を獲得することになりました。

英国レジメンタル柄を反対にしたストライプ・タイ

顧客を退屈させず、企業に利益をもたらせるため、適当な期間をおいてヒット商品の投入が継続されます。
シェトランド・セーター(1904年)、ポロコート(1910)、ストライプタイ(1920)、 マドラス(1920)、軽いサマースーツ(1930)、3つボタンスーツ(1930)、2つボタンスーツ(1961)、ストレッチウールによる旅行スーツ (1963)などです。それぞれの商品は時代の要請にこたえるものでしたが、息の長い商品が多く、長期間にわたって業績の向上に貢献してきました。
同社の開発したストライプタイは英国の近衛連隊将校が結んでいたといういわれを持つレジメンタル・ストライプがヒントになっています。生地をバイアスに使っているので、英国のそれはネクタイに向かって左上から右下へとストライプが流れています。ブルークス・ブラザースのストライプタイはこれとは反対に右上から左下へと流れています。
ストライプタイが一般に普及したのは、第一次大戦後に英国の皇太子(後のウインザー公)がアメリカを訪問したことがきっかけになっています。
皇太子は近衛歩兵第一連隊の青と真紅のストライプにロイヤル・クレスト(紋章)を配したネクタイを締めての訪米でしたが、メンズファッション界に大きなインパクトを与えました。英国のレジメンタルタイと好対照をなすアメリカのストライプタイは、アイビーリーグモデルの必須アイテムとなっています。

ケネディ元大統領もブルークスファン

時の権力者、アメリカでは大統領が特定の会社の洋服を着用すると、テレビのCMや新聞広告にも増したPR効果が上がります。ジョン・F・ケネディ大統領は公式の場ではブリティッシュスタイルの洋服を好んで着用していました。同大統領はアイビーリーグのひとつハーバード大学の出身だから、公式行事はともかくとして、自分の時間にはアイビーリーグモデルを着用していたという見方もあります。
1961年にブルークス・ブラザースは2つ釦のスーツを発表しました。本質的にはアメリカのアイビーリーグモデルのデザインをベースに置いたものですが、随所にブリティシュの要素が取り入れられています。
ケネディ氏はこの洋服が気に入り、大統領就任式に着用しました。たちまちのうちにに評判となり、ブルークスの新モデルは、世界的に成功マインドの強いビジネスマンの服装として認知されるようになりました。

石津謙介氏にアイビーの魅力を語ったオブライエン中尉

アイビーリーグモデルの洋服を語るときに欠かすことの出来ない会社があります。日本の若者にアイビールックの服をヂャカスカ売って、自らを「アイビー教教祖」の立場に押し上げた石津謙介氏が昭和26年(1951年)に設立したVANです。同社は昭和53年(1978年)あっけなく倒産してしまいましたが、アイビーリーグの普及に尽くした貢献は、国民栄誉章ものと言えます。
石津謙介氏は終戦当時、家族とともに中国の天津に居住していました。終戦直後の昭和20年10月(1945年)にアメリカの海兵隊が天津に進駐してきました。石津氏は語学力を買われて、トラブル解決のための要員として海兵隊の所属となり、アメリカ軍のオブライエン中尉と知り合いになりました。
オブライエン中尉はアイビーリーグ校の一つであるプリンストン大学出の秀才で、石津氏を前にして、アイビーリーガーの生活や服装についていろいろと話してくれました。聞くものすべてがフレッシュで、ある種の憧れと興奮を感じずにいられなかったといいます。
石津氏とアイビーの出会いの仲人役を果たしたのはオブライエン中尉でした。

石津商店をVANに改名、3つ文字文化の先駆け

終戦で中国・天津から日本に引き上げてきた石津氏はレナウンの前身である有信実業の営業部長として迎えられ、レナウンの小売り部門であるパイロットショップで紳士服の販売を担当しました。大阪での実績が評価され、神戸にパイロットショップを出店するときには、すべてを任せられるまでに社内の信頼は高まっていました。
昭和26年(1951年)、レナウンを円満退社して、パイロットショップ時代に一緒に仕事をした高木一雄氏とともに独立することになりました。退職金の代わりに大阪市南区(現中央区)炭屋町にあった社宅を貰い「石津商店」を開きました。この一帯は後に「アメリカ村」と呼ばれ、若者向けのファション情報の発信地となったところです。
商品が売れ始めると、ひとつのことが石津氏の悩みとなってきました。それは「石津商店」という「社名の野暮ったさ」でした。思い切って社名をVANと変更しました。VANというのは英語で有蓋の貨物自動車を意味しますが、「先頭に立つ」「先駆となる」という場合にも使われる言葉です。実は石津氏の兄の友人である写真評論家・伊藤逸平氏が風刺雑誌のタイトルとして使っていたので、これにぞっこん惚れ込んでいました。ダメもとでタイトルの借用を申し入れたところ、意外にあっさりとOKが出ました。喜び勇んでVANの旗揚げをここ炭屋町で行いました。
石津氏が惚れ込んだだけあってVANは時代の最先端を行くファッション産業にはうってつけのネーミングでした。単純で覚え易い、音の響きがよいなどから、英字3つを社名やブランド名に採用する会社が増え「3つ文字文化」の先駆けとなりました。
ブランド名を石津「謙介」と「高木」一雄の名前の一部を取り『ケンタッキー』としました。商品はコットンのワークシャツ、ジーンズなどアメリカ調のカジュアルウェアが中心でした。斬新なデザイン、グレードの高い縫製、覚え易く、響きがよいブランドが相まって一流洋品店、デパートなどが競って商品を買いつけてくれました。

アメリカ視察でアイビーの日本導入に自信

当初の洋服生産ポリシーは石津氏が着たいと思っている服を作ることでした。これほど確かな手段はありません。自分の好みに同調してくれる人を客にすればいいのです。そのような形で顧客になったのが、新劇の俳優さんでした。
しかし、時代は大きく変わろうとしていました。戦後の民主主義教育を受けた個性豊かな若者が自己主張を始めようとしていました。学生服のようなおし着せスタイルを敬遠し始めていました。
「若者の心をつかむためのコンセプトは如何にあるべきか」を考えていた石津氏の脳裏にかってオブライエン中尉から聞いたアイビーリーグの話が浮かんできました。昭和30年(1955年)、組織を株式会社に変え、会社の名前も「ヴァン・ヂャケット」と変更しました。昭和31年(1956年)にはアイビーファッションを視察するためにアメリカの東海岸を訪れましたが、ここでアイビーは日本でも受け入れられるという確信を得ました。

「働くことより、いろいろな遊びを体験せよ」

アイビールックのデザイン的な特徴、本場アメリカの実情、具体的な着こなし方法などが石津氏が編集顧問をしていたメンズファッション雑誌「男の服飾」(後にメンズクラブと改称)で大きなスペースを取ってPRされました。木村功、岡田英次、菅原文太などの若手俳優をモデルに使っこともあり、想像以上の反響が得られました。信欣三、東野英治郎、 小沢栄太郎らにも衣装の提供をしてしきました。
石津氏は自分がいろいろな遊びをしてきた体験が仕事の上で非常に役になったことから、社員に働けとはいわず、新しい遊びを覚えるように指示しました。
そのころ新米のファッション記者であった私も時折炭谷町のVANを取材で訪問したことがあります。、会社というより同好会かクラブという雰囲気で、勝手気ままに仕事をしていたのが、印象に残っています。

「アイビーはファッションではなく風俗である」

アイビーファッションに火がついたのは昭和38年(1963年)のことです。団塊の世代が高校生になった時です。コットンパンツにボタンダウンのシャツ、手にVANの紙袋を持った高校生が、銀座のみゆき通り集まってきました。マスコミがこれを大きく取り上げて、「みゆき族」という言葉まで誕生させました。
昭和39年(1964年)には若者向けの雑誌「平凡パンチ」が創刊され、新時代のライフスタイルとしてアイビールックを紹介するなどのこともあり、アイビールックは全国にに広がりを見せました。
「アイビーは一時の流行ではない、いつまでも大切に育て、風俗として定着させたい」という石津氏の言葉通りになりました。
ヴァン・ヂャケットの売上も年々飛躍的な伸びを続け、昭和46年(1971年)にはついに年商が百億円の大台を突破しました。最盛期には300億売って、 37億の利益を出したことがあります。

「好きな服が作れない」。VAN400億の負債で倒産

商いのスケールが大きくなるにつれ、「自分が着たい服を作る」という会社設立当初のポリシーを貫徹することができなくなってきました。
一般的なアパレルメーカーは素材価格、縫製工賃、マージンなどを足し込んで、販売価格を決定しますがが、VANは違っていました。出来上がった服を消費者がいくらで買ってくれるだろうかという観点から売り値を決めます。コストが安く、高く売れる、つまり付加価値の高い洋服を企画したものが勝ちとなります。しかし、組織が大きくなると資本の論理に従わねばならず、他のアパレルメーカーが採用していた方式で売値が決定されます。物作り、価格設定などの面で他社製品と差別化が図れなくなってきたのです。総合商社が資本介入し、役員が派遣されてきたのでこの傾向はますます強くなりました。
昭和46年(1971年)頃には石津氏は完全にやる気を無くし、程なく社長の座を降りてしまいました。石津氏にアイビーを中心に服装哲学、着こなし、マナーなどの教育を受けた「IVY教」熱心な信者も就職してサラリーマンになった途端に、普通の人間に戻り、IVY愛好者は大学生、高校生、 中学生へと経済力に劣る若年化が進みました。家業から中企業、業界を代表する大企業へと肥大する一方で、客層にも大きな変化が見られたのです。
昭和53年4月(1978年)にヴァン・ヂャケットは当時ではアパレル史上最大と言われた400億円の負債を抱えてあえなく倒産してしまいました。
会社は消えても、石津氏のアイビーを日本に紹介した功績、単なる流行に止めず風俗、文化まで創造した事実は日本の服装史に残る出来事といえます。


link
sijukuブルークス・ブラザース公式ホームページ
 http://www.brooksbrothers.com/


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