ネクタイ(Cravate)

男のシンボル、ノーネクタイ運動には「ノー」

夏になると「ネクタイ」無用論が毎年、論議の的になります。どういう理由かしnecktie
りませんが、影響力の強い大学教授の発言が多いようです。「何故ネクタイという何の意味もない紐を首に巻かなければならないのか」「ブラブラして邪魔になる」「日本の夏はシャツを着ているだけでも暑いのに・・・」などを論拠に学者独特の難しい言葉を使って説明されているようです。
言われるようにネクタイは何の役目も果たしていないのでしょうか。
しかし、何回も無用論が出されても、ネクタイはしぶとく生き残っています。
なぜでしょう。
男の唯一のお洒落ポイントであるVゾーンを飾り、個性表現という大切な役割を果たしているのもひとつの理由です。
もう一つ根源的な理由があります。フロイド流の解釈ですが、今やネクタイは男のシンボルとなっているというのです。ただでさえに弱くなった男性がシンボルを失うなんて耐え難いことです。ネクタイに付いての話題をどうぞ。

ルーツは戦争(ローマ兵)か平和(弁士)?

数万年前にネアンデルタール人が布を首に巻いていたという記述がありますが、これをもってネクタイの元祖とするには無理があります。
二世紀の初めローマ帝国の兵士がウールの布を首に巻いていました。戦地に向かう兵士たちの無事を祈って妻や恋人が贈ったお守りで、防寒の役目も果たしていました。
他説によると、ローマ時代には弁士が街頭に立って演説をする時に、大切なのどを守るため、フォーカル(Focale)と呼ばれる一枚の布をいていたのが、ネクタイのルーツだといわれています。
服装に多くの影響を与えてきた軍人か、文民派の弁士か、そのルーツをどちらかに絞り込むのは難しい問題です。

クロアチア兵の首巻きを参考にルイ14世が完成

一般に認められているネクタイの起源は1656年の昔、「太陽王」と呼ばれていたルイ14世(在位:1643-1715) が、クロアチアから派遣されてきた兵士の服装に興味を持ったことに端を発しています。バルカン半島のクロアチア(旧ユーゴースラビヤ)から、フランスヘ宮廷警護のためにやってきた兵士およびナイト約1000名は、ことごとく首に布切れを巻き付けて垂らしていました。
ルイ14世は「朕は国家なり」という言葉を吐いたことで知られていますが、ヨーロッパ全土に権力を及ぼしていた王が、田舎の兵士が野良仕事の延長のように首に手拭いを巻いたスタイルに心をひかれたという話は王の一面を知る興味深い話です。
王は早速お抱えのテーラーに、最高級の生地を使って同じものを作るように命じ、自らの首に巻き付け得意げに披露しました。首元は暖かい、肌触りがよい、お洒落を演出する小道具が一つ増えたと、大変気に入られたといいます。
時の権力者が身に着けたことで、取り巻きの王侯、貴族から軍人、学者などの一般人へと、たちまちのうちに拡がりを見せました。
ネクタイをフランス語で「クロアト人の」という意味を込めて、クラヴァット(Cravate)と呼んでいる裏には、こんな歴史的事実が隠れていました。

呼び名は「タイ」「ネックウェア」「クラヴァット」

ネクタイ(Necktie)は米語ですが、現在はタイ(Tie)と短い言葉で表現されることが多くなっています。業界内部ではネックウェア(Neckwear)を好んで使っているようです。
主な国のネクタイの呼び名を紹介しましょう。
フランス・・・・クラヴァット(Cravate)    イタリア・・・・クラヴァッタ (Cravatta)
ドイツ・・・・クラヴァッテ (Krawatte)     スペイン・・・・ コルバータ= (Corbata)
ポルトガル クラヴァータ (Gravata)
ネクタイの本家、クロアチアとフランスに敬意を表してか、Cravateを語源としています。
当時の男性の間ではカツラをかぶることが流行していました。そのカツラが次第に大きく派手になるに従って幅が広かった衿が廃れ、衿無しのロングコートが新たに登場してきました。クラバットはこの衿無しコートの首もとを飾るのに相応しいものとして用いられたのが、普及に拍車を掛けた形になりました。
クラバットの素材はシルクなどの柔らかく肌触りの良いもので、中には精巧なレースをあしらったものもありました。首に2度巻いて1度結び、余った端を垂らす巻き方が採用されていました。ネクタイというよりスカーフという方がピッタリのしろものでした。

スティンカークの戦いが結び方を変えた

結び方に大変革をもたらしたのは1692年のスティンカークの戦いでした。片一方の端をコートの上から6番目のボタンホールに通す方法が大流行しました。誰が始めたのか、何故6番目のボタンホールに通すのか、詳しいことは判りません。
一説によると、ベルギー・スタンケル地方で戦っていたフランス軍が、ドイツ軍の奇襲を受けました。クラバットを結ぶ時間がなく、とりあえず両端をねじりジュストコールのボタンホールに差し込んで、戦いに臨み勝利を得ました。勝てば官軍。すべてが格好良く見えます。片方だけがボタンホールから抜け落ちていましたが、「それが格好良い」ということになったのでしょう。
1692〜1730年までスティンカーク、あるいはスティンカルク(Steinkirk)と戦場の名前をそのまま採用したクラバットが、王侯、貴族、軍人という特権階級から一般市民にまで、広がりを見せました。
フランス革命の時は首はもちろん、顎まで隠れるほど高く巻き上げ、前中央で小さく結んで用いられました。
ナポレオン1世(1769〜1821)の時代にはクラバットの下から衿をのぞかせる着こなしが流行しました。

英国の競馬場でアスコットタイが誕生

19世紀に入るとファッションの主導権はフランスからイギリスに移り、クラバットの結び方もシンプルなものになり、初めてネクタイという言葉が用いられるようになりました。1850年代にはクラバットの結び目だけを残し、他を切り落とした「蝶ネクタイ」が誕生しました。
1711年以来、 毎年6月に国王の臨席のもとにロイヤルアスコット競馬が開かれるようになりました。1850年頃からその競馬場に英国伝統のアスコットモーニング&アスコットタイに身を固めた紳士が増え始めました。1870年代にはアスコット競馬場には、グレーのモーニングコートを着るのが常識というぐらいに普及しました。その襟元を飾っていたのが、アスコットタイです。新しいネックウェアがまた一つ増えました。ロイヤルアスコットの魅力はレースもさることながら、パリのファッション界が引っ越してきたような最新のモードに身を包んだ美女、エスコートするグレーモーニングのゼントルマンが織りなすファッションパレードにあることは、今日でも変わりがありません。

結び易い「又の字」は日本人の発明

タキシード会議』の説明によると、文明開化は明治の初め、フロックコート等と共に伝来したアスコットタイは、日本人にとって、実に扱いにくい代物でした。およそ幅2寸余り、長さ5尺程の「ネッキタイ」なる衿飾りは、御雇い外国人の様にうまく結べませんでした。
出仕、会合に遅れる事 たびたび…そこで、ある知恵者が、結んだ形にして紐を縫い付け、首の後ろで縛りました。
広げた形が、漢字の「又」の字に似ていましたので、「又の字」と呼ばれ一世を風靡しました。
これは便利と言う事で、1920年代には世界中に広がりました。その後、長さ調節の金具や留金が、用いられる様になり、現在の形になりました。
そして欧米でも本来の形のアスコットタイは、1945年、第2次世界大戦を境に、完全に姿を消しました。日本で売られているアスコットタイの殆どは、アスコッスカーフ(パフタイ)と呼んでいるものです。
これは、1870年代にアスコットタイの結び方から、派生したカジュアル用のもので、正礼装に用いることはないということです。

「四頭立て馬車」か「握り拳四つ」か

1890年代になり、ようやく「フォア・イン・ハンド」と呼ばれる現代のネクタイと同じ形のものが登場します。「フォア・イン・ハンド」は「4頭立ての馬車」を意味する言葉で、馬車の御者が手綱さばきに便利なように考えたのが、結び下げネクタイだといいます。結び下げの下の部分が握り拳4つ分になっていることから「フォア・イン・ハンド」というのだと説明する人もいるようです。
また、「フォア・イン・ハンド」の創案者はイギリスのオスカー・ワイルドともいわれています。シンプルで結びやすく、自己主張も出来る「フォア・イン・ハンド」は、ネックウェアの主流となり、110余年を経た今日に受け継がれ、毎年のように世界の各地で起こる排斥運動にもかかわらず、健在で、紳士の胸元を飾っています。

日本人で初めてネクタイを締めたのはジョン・万次郎

日本人で初めてネクタイを締めた人は土佐出身のジョン・万次郎こと、中浜万次郎(1827-1898)だといわれています。万次郎は14歳の時、鰹漁船に乗って漁労に従事していたときに、遭難してアメリカの捕鯨船に助けられました。そのままアメリカに渡り英語、航海術、測量術等の勉強をしました。
遠洋航海船の乗組員として働いたあと、カリフォルニアの金山で旅費を稼ぎ、ここで再会した仲間とともに沖縄に帰りました。
嘉永4年(1851年)の正月、一行は琉球の小渡浜に上陸、7月には鹿児島、9月には長崎に着き奉行所の取り調べを受けました。
万次郎の所持品として、ピストル、羅針盤の他に天保13年(1843年)にフェアーヘブンで買い求めた「白鹿襟飾」が3箇あったと記録されています。
襟飾はネクタイのことです。この動かぬ証拠により、中浜万次郎が日本人で一番早くネクタイを締めた男になりました。
余談になりますが万次郎は、島津斉彬や山内容堂らに海外事情等を伝え、ペリー来航の際には、幕府から呼び寄せられてアメリカの実状を説明しました。
また、航海術の指導、翻訳書の出版、咸臨丸に通訳として乗り込むなどと活躍しました。
維新後は、開成学校の教師になり、英語教育尽力しましたが、晩年は高く評価されず寂しく隠遁生活を送り、72歳で亡くなっています。

国産第1号は帽子屋(小山梅吉)が製造

日本で一番早くネクタイを販売したのは東京・日本橋区の田中力蔵で、明治15年(1882年)に舶来のネクタイを売り出したと、記録されています。
では、日本で一番早くネクタイを製造したのは・・・?明治17年(1884年)10月1日に当時帽子製造業者だった小山梅吉が、神田柳原の古着市場で舶来の中古ネッキタイ(当時ネクタイをこのように呼んでいた)を買い求め、それを分解して、見様見真似で作ったのが国産第一号のネクタイです。
素材には女性の帯地を使ったそうです。西陣織は複雑な模様を織るのに最適で、現在でも複雑な織り柄のネクタイは京都の西陣で織られています。産地の中心部にある西陣会館へ行くと、実際にネクタイや帯地を織っているところが見学できます。
最初に作られたのは蝶ネクタイといわれているようですが、確証はありません。
小山梅吉はその後、馬喰町、横山町に店を構えてネクタイの販売を続けました。10月1日がネクタイの日とされているのは、小山梅吉の業績を記念したものです。

大正5年、主役は蝶タイからダービー・タイに

現在の我々が絞めている結び下げのネクタイが登場するのは大正時代です。 明治初期から用いられていた蝶タイ形式が、ダービー・タイ(別名・フォア・イン・ハンド、結び下げ形式)に主役の座を譲ったのが大正5年(1915年)のことです。
明治天皇大葬、昭憲皇太后崩御、大正天皇即位などの国家的な出来ことが相次いだことから、洋服に接する機会が増え、一般市民も洋服に馴染んできたのに比例し、ネクタイが普及しました。
大正12年(1922年)の関東大震災のあと、モボ(モダンボーイ=Modern Boy)、モガ(モダンガール=Modern Girl)の影響もあり、飛躍的に愛好者が増えました。    
大正13年(1923年)に画期的なバイヤス裁断方法が登場しました。これは、表地、芯地とも45度に生地を裁断する方法で、使用生地量は増えますが、シワになり難い、結び易いなど数々の長所をネクタイに与えました。現在でもバイアス裁断法が採用されていることを見ても、この手法の優れていることが判ります。

暑い夏になれば出てくる「ネクタイ無用論」

輝かしい歴史を持つネクタイにも関わらず。毎年のように排斥論議の的にされます。それも大学教授といった高い教養を身につけたインテリが運動の中心人物になることが多いようです。ことに日本の夏は気温、湿度とも世界最高水準で、ネクタイを結んで背広を着るのには、かなりの忍耐力が要求されます。(日本の夏とスーツについいては別項を参照してください。)
ネクタイ嫌いの人は次のように主張します。
首が苦しいから、夏は首周りが暑くてたまらない、機能的ではない、ぶらぶらして邪魔になる、など様々です。とにかく暑い夏を何とか涼しく過ごしたいので、まず背広を脱ぎ捨てたい、ついでに無用の長物・ネクタイをはずせるなら、なおよろしいという、「気候対応型」の主張が一方にあります。
あとひとつはサラリーマンの制服になったような背広をどうして学者や自由業の人が着なくてはいけないのか、という「スーツ嫌悪型」のネクタイ不要論です。
「背広とネクタイ」を着用していると安心感が増し、無難に世渡りが出来るというサラリーマンの最大公約数のようになってしまった背広自体がお気に召さないらしいのです。

「ノー」といわれても存在し続ける

しかし、偉い学者が先頭に立ってネクタイ、上衣不要論をぶっても成功した試しがありません。政治家が同じような運動を起こしても、立ち消えになってしまいます。政府が省エネの見地から、夏の室温を28度以下に設定しないために、夏の上衣、ネクタイを省略しては・・・と呼びかけても、ビジネスマンの夏のスタイルはいっこうに変化しません。
相変わらず背広を着てネクタイを締め、汗だくになって満員電車で会社へ出勤します。外回りのセールスマンは、焼け付いた舗装道路を踏み締めながら次の訪問先へと急ぎます。気温35度を超す中での難行苦行です。
当事者の意見を聞いてみると、盛夏には背広の上着を脱ぎ、ネクタイを締めずに人前に出ても失礼ではないという常識が広く普及すれば、ただちに背広、ネクタイを捨てたいといいます。営業は「相手の心証を良くすることから始まる」といわれます。背広、ネクタイ無しで、よい印象を持っていただくことが出来るのでしょうか。世界的な範囲で認知を受けた着装マナーは容易に切り崩せないので、この心配はもっともなことです。
あと一つ、人間の深層心理による呪縛で、背広、ネクタイとは別れられない理由があるのです。背広については別項に紹介していますので、ここではネクタイに限っての話にします。

日本の背広人口密度は世界一

ヨーロッパでは背広を着てネクタイを締めているのは、企業のマネージャークラスより上の管理職に限られています。ドイツのケルンで毎年開かれるメンズウェアのメッセやパリで行われているセーム展などの紳士服展示会でも、スーツを売っている会社の社員が背広を着ていないシーンを度々見てきました。
日本では全社員が当然のことのように自社ブランドの服を着て販売に当たります。日本は世界一背広人口密度の高い国といえます。年間800万着から1000万着のスーツが販売されています。ネクタイは一番多く売れたときは5000万本、少ないときはその半分。平均値は年間3000万本が販売されています。1着の背広に3本のネクタイが付いている計算になります。
日本では背広を着用する必要性のないブルーカラーでも、スーツを着てネクタイを締めます。一時破竹の勢いで伸びた郊外型量販店はこのような人もお客として取り入れ、発展の糧としてきました。
以前は花見に行くのも、会社のレクレーションも、海外へ出かける飛行機の中でも、スーツにネクタイを締めた人をよく見かけました。国際的に紳士の服装と認められているウェアを身に着けてると、服装についてとやかく言われることがないという安心感がそうさせているのでしょう。TPOの普及で最近はその場の雰囲気に応じてカジュアルで着やすい服装をする人が増えてきましたが、国際水準に比べるとスーツ・ネクタイ族は多いようです。

ノータイで市議会(三沢市)から締め出される

青森県の 三沢市議会で伊藤裕希議員がノーネクタイで市議会に出席しようとしたところ、入室を拒否され、伊藤議員はこれに対して座り込みで抗議するという事件がありました。テレビや新聞で報道されたこともあり、マスコミには賛否両論の意見が多く寄せられました。

【ノーネクタイに反対派】
伊藤議員はネクタイをすべきだという意見を集約すると次のようになります。
「議員は市民によって選ばれた人なのだから、責任感があり、尊敬される人でなければならない。日本では、ほとんどの人が仕事の時にネクタイをするのに、どうして議員がネクタイをしないのか。」
「ネクタイを締めるのは出席するすべてのメンバーに対して尊敬の念を表明すると同時に、本人の物事に対する真剣な態度をも表している。」
「服装はその人の 地位や富、名誉にふさわしくなければならない。」
主として地位や立場に応じた服装のマナーを守れ・・・という主張です。

【ノーネクタイに賛成派

議員でもネクタイを締めなくてもよいという意見もあります。
「議員にも自分の着たいものを着る権利がある」
「きちんとした身なりをし、態度が良ければ、ネクタイをするかしないかはたいした問題ではない。」
「ネクタイはその人の服装の一部、するかしないかを選択する権利があるのは、その人自身であ
る。」どんな服装をするかは、自己責任で決めるべきことであり、他人にとやかく言われることではない。

【ネクタイ以外の問題】
「議会の異端児である伊藤議員を、難癖をつけて、他の議員が排除しようとして、ネクタイが利用されただけ。」とする冷めた意見もあります。
ネクタイの着用を巡っての論議は、度々出てきますが、結論は出ません。エンドレスのテープと同じで堂々巡りを繰り返しています。

ネクタイは何の役割も果たしていない?

「ノーネクタイ派」の拠り所は「ネクタイは何の役割も果たしていない」という役割論です。「首周りが窮屈でブラブラして邪魔になるだけ。」「夏は熱が発散せず暑さが増すだけ。」無用の長物か、短物の扱いです。
しかし、ネクタイは紳士の唯一のお洒落ポイントであるVゾーン(胸元)を飾るという立派な役割を持っています。一部のカジュアルウェアを除いてビジネスウェア用の服地は、シックで、エレガンスな色柄に織り上げられているので、洋服自体で充分な個性表現、お洒落感覚の発揮はできません。これを補ってくれるのがネクタイです。
洋服ほど価格も高くないので、思い切った冒険もできます。ネクタイを見ると、絞める人の色の好みはもちろんのこと、生き様、ファッション感覚、センスなどがある程度読み取れます。こんなに重要な情報発信源を無用の長物扱いをするのは、ファッションは男には不要といっているのと同じことです。
暑さ、寒さから身体を守るといった役割だけを評価するというのでは、文化は出来上がりません。無駄こそ文化の源泉です。絵画、彫刻、音楽、能、浄瑠璃いずれもなくても生活に困りません。しかし、これらのものは生活に潤いを与え、質を向上させ、幅を広げてくれます。

背広、シャツ、ネクタイで強固な一体感

ネクタイがあらゆる迫害を受けながらしぶとく生き残っている理由として、男の服飾に詳しい梅田晴夫氏は著書「紳士のライセンス」で、「ネクタイが背広服とワイシャツとの関連において、既に一体のデザインを形成しているからであろう。その証拠にワイシャツを着てノーネクタイの姿を私たちはやはり
<異様>に感じる」と書かれています。
もうひとつ忘れてはならない大切な理由があります。ネクタイを男のシンボルだとする説です。
フロイド流の解釈だと「長くて、固く、直立したもの」は男のシンボルに置き換えられます。拳銃・ステッキ・バナナ・キャンドル・摩天楼・ロケット・煙突・刀・葉巻などがその例です。鉛筆(Pencil)、半島(Peninsula)に至っては英語のスペルを見てもペニス(Penis)との関連の深さが判ります。従ってネクタイがこれらの仲間に入れられても不思議ではありません。彼の分析によると、男性を象徴するものとして、ネクタイ、帽子、外套、ヘビ、部屋を開ける鍵などをあげています。
紳士服仕立の源泉をたどると中世騎士の鎧に行きつきます。11世紀から13世紀にかけてキリスト教徒により、異教徒の討伐が行われました。騎士が身に着けていたのは金属製の鎧です。敵の攻撃から身を守る実用性と躍動感のあふれる立体的な造形は、男の体の美しさをより強調したデザインは美的感覚にも優れたものでした。
鎧の股間にはコッドピース(Codpiece)呼ばれる男性の大切な「竿とボール」を入れるものが付けられていました。
無機質で冷たい感じの鎧に人間らしいセックスアピールの道具を付与した先人の心の余裕とユーモアには思わず拍手をを送りたくなります。素材は金属から軽くて柔らかい布、そして優雅なウールへと移り変わりましたが、コッドピースは形を変えて男の洋服に生き続けてきました。

コッドピースに変わってネクタイがセックスアピール

フロックコートの前身は貧しい農民の洋服だったといいます。時を経るにしたがって泥くささがとれ、
1830年ころには都会の昼間着として着用しても恥ずかしくないエレガンスが備わってきました。
このフロックコートは丈が長く、フロントはボタンで閉ざされてしまいました。なんとなく牧師を思い出させる謹厳実直な印象を与えるこの服は股間をに完全に覆い隠してしまいました。
コッドピースも見せ場がなくなってしまったのです。不思議なことにコッドピースが見えなくなるのと時を同じくして、ネクタイを結ぶ人が増え、色彩もより鮮やかなものになりました。
このような逸話の裏付けからネクタイが男根のシンボルとしての地位を獲得したのです。
ネクタイを外すと胸回りに間が空いて見えるのも、年輩の人がある時期に好んで絞めた棒紐状のループタイは上品だが、なんとなく弱々しく見えるのも、男根説を採れば、なるほどとうなずくことができます。
心理学上から見たネクタイの隠れた機能が潜在意識に強く働きかけているとすれば、背広やワイシャツ、ズボンとワンセットになったネクタイを外すことは、自ら去勢手術をするのと同じ行為で、男を廃業したことになります。男は幾つになっても「逞しい存在」でありたいと考えています。ネクタイをやめるはずがありません。

ノータイならカジュアルウェアを着用すべし

どうしてもネクタイがいやなら、ネクタイを必要としないカジュアルな服装をすべきでしょう。クルーネックかタートルネックのセーターにジャケット、スラックス。ジャンパーとスポーツシャツ。Tシャツにジーンズ。いろいろなウエアが頭に浮かんできますが、純粋なプライベートタイムは別として、他人との出会いが予測される大切なビジネス、ホテルでのあらたまった会合、夜の一流レストランに堂々と着て行ける服装には発展しておりません。
スーツの代替役を果たすウェアはまだ出現していないということです。
したがって、スーツ、ワイシャツ、ネクタイの三点セットは、如何に夏が暑くとも、学者や政治家、ビジネスマンが無用論、廃止論を叫んでも、ここ当分の間は紳士のワードロープから消え去ることはないでしょう。



もっと詳しく知りタイ、ファッション(ネクタイのことなら何でも)
 http://www.anan.co.jp/Yougo/index-y.html


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