海島綿(Sea-Island Cotton)

綿製品でこんなに格調の高い、高級品があった

「綿織物は安物だ」という既成概念を持っている人は少なくはありません。hana
かっては私もその内の1人でした。この概念が明らかに間違いであることを分からせてくれたのがほかならぬ「海島綿=カイトウメン」でした。
アメリカのフロリダ州沖に浮かぶ西印度諸島の中でも6つの島で産出される綿はシーアイランド・コットン(Sea-Island Cotton)と呼ばれ世界最高のものと、高い評価を得ています。火山の噴火で栽培をやめた島もあり、現在はベリースを含めたカリブ海のごく限られた地域でのみ産出しています。
繊維が長く、優雅な光沢があり、肌触りがよく、丈夫であるなど一般の綿に求められない数々の特徴を持っています。産出量が少なく、限られた人の手にしか渡らないこともあり「繊維の宝石」、「クイーン オブ コットン(綿の女王)」といわれていますが、海島綿がどうして人気があるのでしょう。
西印度諸島海島綿協会(写真も提供)、同興紡績株式会社の資料を中心に
海島綿とはどんなものなのか、合わせて人気の秘密を明らかにしてみましょう。

初めて本屋で出会い、カルチャーショック

私と海島綿との出会いははっきりした年は忘れてしまいましたが、昭和30年代の後半のことだと思います。専門の洋書を探しに丸善へ行った時のことです。本の売り場片隅にコートやヂャケットが何点か展示されていました。丸善は洋書屋さんなのにどうして洋服が・・・と不思議に思い、思わずそのコーナーをのぞいたのが海島綿との出会いでした。
簡単な商品説明をつけて展示してあった盛夏用のコードレインのヂャケットに使われている素材に私の目が釘付けになりました。絹のようで絹でない、コットンではこんなに細い糸が引けるわけがない、ここまでの光沢も出ないはずだ、化学繊維でもない、触ってみると肌触りは抜群、原材料に何を使っているのだろう・・・説明書を読んでそれが海島棉であることがわかり、一種のカルチャーショックを受けました。同時に本屋に洋服が置かれていた理由もわかりました。
「文明開化ハ洋服ニアリ。」とのたまった福澤諭吉が明治5年に慶應義塾内に開設した洋服仕立局を、福澤の門下生である丸善の創業者・早矢仕有的氏(はやし・ゆうてき)が明治6年に引継ぎました。これが、丸善のファッション事業の始まりだったのです。
大正4年にはバーバリーのコートを日本で初めて英国より直輸入するなど、ファッション史にその名を刻んできたことを新米のファッション記者である私が知らなかっただけです。
丸善が昭和10年代に発行していたファッションカタログ『流行新相』の表紙には、自動車のハンドルを握る女性や水着の女性が登場するというハイカラぶり。当時のモボ・モガのスタイルが溢れています。
こんな伝統を持つ丸善が勧める商品だから海島綿が優れた素材であることが判ります。

魅惑の繊維「海島綿」の故郷は西印度諸島です。

日本から見るとほぼ地球の裏側、米国のフロリダから南米ベネズエラに広がるカリブ海。
遠く離れていますが、ディズニーランドのテーマにも取り上げていることもあり、何となく親しみの感じるところです。
そこに4,000キロにわたって連なる島々があります。発見した人はかのコロンブスです。
コロンブスはかねてから、大西洋を西へ航海することによって、アジアの黄金の島ジパング(日本)やシナ大王国に到着すると信じていました。
スペインのイサベラ女王に支援を求めてたところ、財源がないと一旦は断られました。アンダルシアに住んでいたユダヤ人改宗者が、航海の資金として100万マラベディ(現在の日本円で1500万円)の前貸しを申し出たため、1492年4月に女王との協約が成立しました。すぐに準備を整え、1492年8月3日にコロンブスは3隻の船団を組んでセビリア港を後にしました。

コロンブスの錯覚から生まれた「インディアン」

このサンタマリア号は、10月12日にはバハマ諸島の中にある、グアナハニ島(今のサンサルバドル島)に到着しました。コロンブスはここを印度の一部と信じていたので、西印度諸島と名付けました。西印度諸島に住んでいる人ということで、原住民をインディアンと呼ばれるようになったといいます。印度人でもないに「インディアン」というのはコロンブスの錯覚が生んだものです。
後に10月12日をコロンブス・ディと定められました。
コロンブスの航海はまだ続きます。現在のキューバを経由して12月初めには、現在のハイティの北岸に上陸しました。三隻の船団のうち一隻が座礁、沈没したので、残留希望者を募り40人ほどの船員を砦に残して、帰国の途につきました。
コロンブスの航海は成功裡に終わりました。物々交換で得た金などのものが高く評価され、航海の費用を差し引きしても収益が残るくらいでした。船出の時に積んでいった商品の価値より、物々交換で得た商品を販売して得た金額が多ければ、利益が出たことになります。簿記での「借方」、「貸方」を左右に分けて書く方式はここから生まれたといます。

一番先にやることの大切さ、「コロンブスの卵」

コロンブスは一躍英雄となり、帰国すると盛大な歓迎パーティが開かれました。それでも、中には「西へ行けば陸地に到着するのは当たり前」と、やっかみもあってか、陰口をいう人もいましたが、コロンブスはこれらの人を前にして「この卵を立てられるか」と質問しましたが、誰も立てることができませんでした。かたずをのんで成り行きを見つめていた人々に対して、コロンブスは卵の底をテーブルで軽くたたき割り、卵を立たせました。
「ばかげている。そんな方法なら子供にでもできる」「インチキだ」と叫ぶ人々に、コロンブスは悠然として「人がやった後なら誰にだってできる。一番先にやることが大切なのだ。」といい放ちました。俗にいわれている『コロンブスの卵』の一席です。

綿のセールが見付けた最高級綿産地

水蒸気船も、ディーゼルエンジンという文明の利器もなかった時代のことです。船の推進力は風に頼っていました。木綿で作られたセール(帆)に風を受けその力で船を進めます。その昔は藁やむしろを使っていましたが、風が抜け易い、かさばる、水に濡れると重くなり、乾きにくいなどの欠点がありました。綿織物はこれらの欠点をカバーしてくれました。
したがって、木綿は帆布として多く利用されました。その結果、船足が早くなり、船の大型化が図られました。
コロンブスが育ったスペインでは13世紀頃から木綿産業が栄えたのは、帆船のセール用として木綿の需要が旺盛だったことに一因を求めることができます。木綿のセールがあったが故に、新たな最高級木綿の産地となる西印度諸島の発見が可能になったといえます。
私が高校生の時に乗っていた競技用のヨットのセールも、ロープ類も現在と違って木綿製でした。船体は木製でした。木綿製品は塩分を含んだままにしておくと、強度が落ちてしまいます。ヨットを転覆させてセールを海水で濡らせたときは、水道の水で塩抜きをしたものです。それが面倒なので、セールも合成繊維製となり、船体も塗料の塗り替え、パティつめなどで手のかかる木製からFRP(ガラス繊維強化プラスチックス)製に代わってしまいました。
これを時代の流れというのでしょうか。

栽培に必要な豊かな日照、降雨、清澄な空気

木綿の歴史は古く紀元前8000年頃に起こった農業革命の少し前に、木綿はアフリカ南部から、東は中東や印度へ、西はペルーやメキシコへと栽培地を広げていきました。
綿はアオイ科の植物で、初夏に花をつけるタチアオイ、盛夏に咲くムクゲ、ハイビスカスの親戚筋にあたります。
もともと、熱帯、あるいは亜熱帯の植物だから、「豊かな日照、降雨、清澄な空気に恵まれた土地柄」を必要とします。
サウスカロライナ、ジョージアおよび北フロリダの沖合にある100ほどの低い島は海洋側は一般に砂で、米国本土に面する側は湿原となっています。夏は暑く、冬季でも温暖、豊富な降雨により湿度が高く亜熱帯の気候を持つこれらの島は、木綿の栽培にはうってつけの条件を備えてます。
16世紀の末にイギリス、フランス、オランダ、その他のヨーロッパ諸国が争ってこの周辺に植民地を持つようになりました。木綿の栽培が盛んになったのは、イギリスがスペインの無敵艦隊を打ち破って西印度諸島を領有した1620年頃です。ヨーロッパ市場で綿製品の需要が増大したことに、対応する必要があったからです。

白人の知識、奴隷労働力、気候条件の3拍子揃って

木綿は意外に弱い植物で、繊維の品質を決定するより長い、より光沢の優れた、より強いものを得るには、想像以上の手間と時間が掛かります。
種まきから始まって、適当な間引き、草取り、防虫,摘み取り、土地にあった種類の選別、品質改良に向けた交配、糸につぐむための紡績、用途に合わせ布に織り上げる織布、最終工程の仕上げに至るまで、かなり高度な知識と細心の注意が要求されます。
もちろん全行程が西印度諸島で行われている訳ではありませんが、高品質の製品を生み出すには、総ての工程で細心の注意を払わなければなりません。それは、当地で盛んに栽培されていた砂糖黍と比べると問題にならないほどの手間がかかりました。豊富な経験と知識を持つ白人入植者と安い賃金で得られる奴隷の労働力、気候条件が揃っていたことが海島綿の栽培を成功に導いたものです。

最高の海島綿は米綿の400倍の値が付く

1792年にトバゴ島で採れた史上最良の綿花が、ロンドンに持込まれました。278番手の細い綿糸が得られるというこの綿花は1ポンドが20ギニー(1ギニーは21シリング)というギネスブックものの高値で競り落とされました。当時の米綿は1ポンドが10〜13ペンス(12ペンスで1シリングになる)で取引されていたことからすると、約400倍の値段が付いたことになります。
量的には僅かなものですが、海島綿の品質が如何に優れているかを世界に証明する結果となりました。西印度諸島の綿花は17世紀頃から、ヨーロッパ綿花市場の人気商品となっており、栽培地も西印度諸島はもとより、サウス・カロライナからジョージア、フロリダ半島のセント・ ジョーンズ河口に至る海岸地帯など、米国の本土にまで及びました。
西印度諸島綿は多年生のためアメリカ本土では寒い冬を過ごすことができないために1年生に改良するなどの品種改良も行われました。
しかし、上質の海島綿の栽培には高度な知識と細心の注意が必要とされ、多くの黒人奴隷を労働力にしていた大農園では栽培ができないのと、何度もの虫害により壊滅的な被害を受けたため、米国農務省はペルー種とエジプト種を交配し、虫害により強いアメリカ・エジプシアン種を開発、海島綿からの転作を奨励しました。手間の掛からない砂糖黍栽培に乗り換える農家もありました。
西印度諸島の海島綿は、1830年前後には英国への輸出が2万5千俵に達していたものが、1835年以後急速に減少ししたのは米国農務省の政策が綿栽培者に徹底したことを物語っています。

英国のテコ入れで海島綿6島に根付く

海島綿栽培は風前の灯となりましたが、規模の小さい農園で伝統的な手法による綿作りの火は細々ながら受け継がれていました。1903年に英国農務省はサウス・ カロライナからリバータイプの海島綿種子を導入し、さらに品種の改善に努めた結果、世界最良の海島綿はセント・ビンセント、セント・キッツ、ネービス、モンセラット、アンチグア、バルバドスの6島で定着しました。この裏には英国の品種改善、奨励金の支給、低金利の貸付金、設備投資への援助など、零細な農園が生き残れるための助成策が功を奏した事実があります。
幾つもの神話、伝説を生み出し、ロマンに満ちた「カリブ海」。海島綿にもそれにふさわしい話題に事欠きません。海島綿は" クイーン・オブ・コットン "、 まさに「綿の女王」と呼ばれるにふさわしい性格を持っています。西印度諸島海島綿協会のオフィシャル・ホームページでは、優れた性質を持っているこの繊維を、最大限の賛辞でもって称えていますので、紹介しておきましょう。

英国の王侯貴族が愛した、幻のコットン

広い地球上で、たった6つの島だけに与えられた神の贈り物。西印度諸島の中でも限られた6つの島々が、世界で唯一、海島綿を産出している地域です。世界最高級綿の名を冠する海島綿は、神が与えた自然の恵みを受けて、200年以上もの間、大切に育まれて来た珠玉の繊維です。
限りなく美しく、そして強く、海島綿は、その優れた品質を最大限に生かすため、長い時間をかけてじっくりと育成され、摘み取り作業なども人の手で丁寧に行われます。その為一人が一日を費やして収穫される綿の量は、わずかシャツ10着分。このように慈しまれ育った海島綿は、ほかのコットンよりも美しく輝き、優しい風合いをかもしだします。その着心地は、肌が忘れません。
本物の肌触りを知る、ほんの一握りの人々のために、海島綿の製品は、そんな気持ちで市場に送り出されています。
英国の王侯貴族が愛した、幻のコットン。16世紀後半、英国女王エリザベス一世がシーツやネグリジェに愛用して以来、海島綿でつくられたシャツは英国貴族たちが200年に及ぶ永い間、門外不出を守り抜きました。

赤ちゃんの肌のように柔かく、温かみがある独特の感触

私自身フォーマル・ウェアにも着用できる、白のシャツを海島綿で作ってみました。絹のような、というか、いぶし銀が醸し出すような上品な光沢に、まず心が惹かれました。繊維が長いため細い糸が紡げるので、布の表面が滑らかで洗練された見栄えは、シャツの風格を一段と高めています。
何よりもうれしいのは、その肌触りです。まるで赤ちゃんの肌に触れているような柔かく、温かみがある独特のタッチです。このシャツを着ると他のコットンシャツが何となく粗野に感じてしまいます。英国の王侯、貴族が門外不出とした理由が何となく分かるような気がします。
褒め言葉を並べての賞賛だけでは信憑性が低いといわれる方のために、少し科学的な説明をしておきましょう。

天然の撚りが多く、バルキーで吸湿性に優れる

木綿の繊維は中空になっていますが、乾燥すると中の細胞液がなくなり、繊維に撚りがかかります。天然パーマです。1センチ当たりの天然の撚りは海島綿118、エジプト綿90、ブラジル綿84、米綿76、印度綿60となっております。撚り数が多いということは繊維長が長いということになります。糸に紡ぐときにある程度の強度を保つために何本かの繊維を重ねますが、撚りの数が多いとお互いに繊維が絡み合って細くて丈夫な糸が引けます。さらに、海島綿は繊維の中空部分を取りまくセルローズ質が肉厚でバルキー感と吸湿性を高めています。
海島綿の繊維は、他のコットンに比べて、圧倒的な長さを誇っています。衣服に用いる繊維は、長ければ長いほど、細ければ細いほど、なめらかでソフトな風合いに仕上がり、かつ耐久性も高まります。 繊維1本1本に天然の撚りが多いと、バルキー感が増すとともに吸湿性が高まります。海島綿は1インチ当たりの撚りの回数が綿の中で最大。このため、どんな綿より、ふっくら柔らかな味わいが生まれます。また、繊維の中空部をとりまくセルローズ質が肉厚であり、これも抜群の吸湿性を示す所以です。
海島綿が持つ優雅な光沢は繊維が光を反射するために作られるものですが、エジプト綿と比べると反射率が50%も高くなっています。油脂分もエジプト綿は0.34%に対して0.65%と高く生地に独特のぬめり感をもたらせ、肌に優しい着心地を与えています。繊維が細く、なおかつ強度に優れていることから、戦争中はパラシュートの生地として使われていました。

洒落者として名高いプリンス・オブ・ウェールズも賞賛

1969年に西印度諸島海島綿協会から、4万ポンドの海島綿が初めて日本へ輸入されました。その後5か年間に7万4千ポンド、合計11万4千ポンド(285俵)が試験供給されました。また、1975年にエリザベス女王が御訪日されたときに、西印度諸島海島綿協会は正式に同興紡績を指名して同協会メンバに登録し、その生産の30%を供給してアジア地域での海島綿製品のマーチャンダイジングを付託しました。
日本への海島綿の供給はその後も順調に伸び1978年までに73万6千ポンド(1840俵)に達しています。
16世紀後半に英国が西印度諸島を領有したとき、王室にシーアイランドコットンが献上されました。当時の女王エリザベス一世は、その卓越した感触をめでられ、シーツやネグリジェとして愛用したということです。以来、ロイヤルコットンとして英国の王侯貴族に愛され、英国紳士たちの間ではステイタスシンボルとされてきました。
1930年代には、洒落者として名高いプリンス・オブ・ウェールズ(後のジョージ6世)が、その優れた品質を高く評価し、ロンドンタイムズなどの新聞に、王子がシーアイランドコットンの愛好者であることを宣伝してもよいと述べられたといいます。
英国の小説に登場した007ことジェームズ・ボンド。身につけるものに頑固なこだわりをもつ彼も、シーアイランドコットンのシャツを愛用していたということです。

一時期日本が独占輸入、マークを付け品質保証

羊毛の世界でも最高峰といわれいるタスマニア島のゴールデンベールは、日本がセリ落とすことが多く、日本人の高級品好みは世界でも有名になっていますが、海島綿でも同様に1980年からは品質保持のため、100%日本に輸入されるようになりました。英国から受け継いだシーアイランドコットンの品質を守るため、厳しい品質管理のもとに、限られた原料を有効に生かした製品化が進められています。現在は欧州1社、米国1社、日本国内においては、海島綿協会が商標権を持ち、協会加入各社が共同事業として運営、商品展開をしています。
稀少原料を使った製品を管理するのに一番頭を悩ますのは、偽物、類似品の出現です。本物の値段の高さに便乗して、安い原料を使用、見かけだけ整えて、消費者の目を誤魔化そうという悪徳商法です。かってはハリス諸島で織り上げられたハリスツィードが、手織りの良さが人気を博し、ブームになったことがあります。ハリス諸島とは全然関係のない土地で織られたツイードがハリスの名前で売られたました。放置しておくと本物の信用まで無くしてしまうため、本物には純正品を証明する織りマークをつけて偽物の横行を防止しました。
海島綿も同じ方法がとられています。本物の海島綿を使った製品にはそれを証明するマークが付けられています。(右の写真は重衣料用)製品につけられる「西印度諸島海島綿」のロゴマークは、世界最高級の綿を使用し、厳しい品質・縫製管理基準のもとにつくられた商品である証だといえます。


link
sijuku西印度諸島海島綿協会オフィシャル・ホームページ 
 http://www.kaitoumen.co.jp/index.html


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