燕尾服が夜の第一礼装とすれば、タキシードは準礼装といえます。タキシ
ード以前の礼服は、フロックコート、燕尾服、モーニングコートなどはいずれも丈の長いものでした。
背広式のこの軽快な洋服は、イギリスではディナージャケット、フランスではスモーキングジャケットと呼ばれ、上層階級の一部で愛用されていました。
しかし、これを、タキシードの名前で普及させたのはアメリカの煙草王・グリスウォルド・ロリラードの息子ピエールです。
ヨーロッパ生まれのアメリカ育ち、背広に形が似ており、着易いこともあり、世界を舞台に大活躍のタキシード。夜の準礼服から正礼服へと自らの地位を向上させているようです。
その誕生には、一つのエピソードがあります。
1886年10月10日の夜、ニューヨーク近郊の会員制クラブで、一体何が起こったのでしょうか。タキシード神話です。
いまや、昼間から夜にかけての、礼服として一番人気があるのはタキシードです。素材の色は黒、上衣の丈は背広と同様ヒップの下まで。シングル1つボタン1つ掛けショールカラー(ヘチマ衿)で、絹のサテン地の拝絹をかけます。
室内着のため、ポケットには雨蓋がなく、ズボンには側章を1本(燕尾服は2本)付けます。
ネクタイは黒絹無地の蝶タイ、胸ポケットには白絹のポケッチーフ、腰の部分はグレーのチョッキか、黒絹のカマーバンドで覆います。シャツはプリーツやフリルの付いた、白のドレスシャツ、黒の絹靴下に、パートナーの靴を汚さないための黒エナメルシューズと、白・黒・グレーとモノトーンで纏めたものが基本になっています。
時を経て濃紺、白を初めとする黒以外の色物服地を使ったファンシー感覚のもの、ショールカラーではなく、燕尾服のようにラぺルをとがらせたピークドラペルのもの、2つボタン、ダブルブレスト、などとバラエティを広げてきました。
イギリスやヨーロッパの貴族、上層階級の紳士は夜の食事会には、イヴニングコート姿で出席しますが、食事は終わった後は、ラウンジルームのソファにゆったりと座り、くつろぎながら談笑するのが習わしとなっていました。
燕尾服は字のように後ろから見ると、ツバメ尻尾のように見えます。英語でもスワローテールコートと呼ばれていますが、いすに座るときはこのテールが邪魔になります。1848年頃のことですが、「邪魔になるなら切ってしまえ」とばかりに、勇敢に尻尾を切ってしまった人がいました。住所不明、氏名詳細判らず。まるでお妾さんの子供のように世に出てきたラウンジジャケットの誕生です。
ラウンジジャケットはその後2つの方向に進みました。一つはビジネス着として、シティで着られるもので、現在われわれが着ているスーツの源流になりました。もう一つがここに取り上げているドレスジャケット、つまり、タキシードです。
タキシードが広く一般に普及したのは、アメリカで起こったある一つの出来事がきっかけになっています。
ニューヨークの近郊、オレンジ・カントリーにアメリカでの煙草販売で財をなしたロリラード家の別荘がありました。広大な敷地には川が流れ、滝があり、大きな樹が茂っており自然環境に恵まれていました。その敷地の一角、タキシードパークにロリラード家の4代目ピエールが会員制のクラブを作りました。そのオープニングパーティが1886年10月10日の夜に開かれました。
出席者の男性は燕尾服に身を固めていました。こんなに格調の高い雰囲気の中で主催者ピエールは真っ赤なラウンジジャケットで現れたといいます。
真っ赤なというのは「真っ赤な嘘」かもしれません。とにかく、ラウンジジャケットを着ていたことは間違いないようです。
わざわざラウンジジャケットを着て会合に出席したのではなく、着替えるのを忘れて、ラウンジでくつろいでいた洋服のままパーティに臨んだのだという人もいるようです。どちらにしても主催者一人だけが浮いた服装をしていたわけです。保守的で服装のルールにやかましい。ヨーロッパでは「マナーを心得ない輩」と摘み出されるところですが、ここはアメリカ。出席者のほとんどが燕尾服の堅苦しさに辟易していたので、「この服はいいや」と衆議一決、地名から「タキシード」という名を付けて、このクラブの制服に採用されることになりました。
多くの服飾評論家や服飾関係の本では、ニューヨーク近郊にあるタキシード公園にあるクラブが制服に採用した・・・と説明されていますが、公園というのは間違いで、Tuxedo
Parkという地名のところにあるクラブというのが正解のようです。
1920年代にはいると夜の正礼装である燕尾服に準じる礼装として、世界スケールで認知されるようになります。夏のリゾート用に白のタキシードが出現したり、ピーコック革命(1960−70)の影響を受け、いろいろな色彩の服地を使ったファンシータキシードが出現するなどの変遷を経ながら、着用層を増やし、着用時間も夜専門から、昼間から夜までOKと延ばしてきました。
そればかりか、正礼装の燕尾服を博物館に追いやり、正礼装の地位を奪うことにほぼ成功としています。
招待状にブラックタイ着用と書いてあるのを見て「御祝いのパーティーなのにどうして、黒のネクタイを着用するように書いてある」のだろうと疑問に思う人はいないと思いますが、「ブラックタイ」とあればタキシードを着ていくのが常識となっています。
ドイツのケルンでは2月と8月の年に2回メッセが開かれます。インタナショナルファッションウイークと呼ばれるこの催しには、世界各国からたくさんのファッション関係者が集まります。
会期の最終日には定例としてケルン市長主催の晩餐会が開かれます。もちろん、ブラックタイ着用指定です。
あるとき、平服を着て仕事している間に晩餐会の時間がやってきました。ホテルに帰ってタキシードに着替える時間はありません。出席するか、どうかを決めるのに、躊躇していると、プレスルーム(アイロンを掛けるところではなく、ジャーナリストのたまり場)の親切な女性が「せっかく遠くから来たのだから出席をしては・・・」熱心に勧めてくれたので出席することにしました。
約350名が出席する大掛かりなものです。95パーセント以上の人が黒のタキシードです。ファッションショー(ケルンではファッションパレード)に参加したデザイナー、モデルは職業柄、少し毛色の変わった服を着ていましたが、容貌、体型、雰囲気でその筋の人だと判りますので、周囲の人も特別な存在として認めています。平服姿は私と4、5人のアメリカ人だけでした。
これだけ多くの、黒のタキシードが揃うと壮観そのものです。会場入った瞬間に「しまった」という後悔の念が頭を過ぎりました。
男は他の出席者と同じ服装をしていると安心感が湧いてきますが、違和感のある服を着たときは気分が落ち着きません。平服を着たアメリカ人が私の前の席にやってきて、何故タキシードが着てこられなかったのか、言い訳を始めます。いわゆる傷の舐め合いが始まります。
衣服の持つ魔力を知らされた貴重な経験でした。以後のヨーロッは出張には必ずタキシードをトランクに入れるようにしています。
日本の場合、大人の社交の場が少ないためか、タキシードの普及には時間を要しました。終戦後世の中が落ち着きを見せ、経済の復興・発展が軌道に乗った頃、一番先にタキシードを着たのは、一流ホテルのボーイさんでした。そのため、高いお金を払ってタキシードを作ってみたが、ホテルの会合に着ていくと「おトイレどちら」「桜の間に案内して頂戴」など妙齢のご婦人に声を掛けられ、タキシード嫌いになったという話しも聞きました。わが国でタキシードが普及し始めのは、1970年前後です。昭和40年代は第二次結婚ブームが訪れました。一生に1回だけの結婚式、といっても2回、3回する人もいるようですが、出来るだけ印象深いものにしようと、日頃から何時かは着たいと思っていた夢を披露宴で果たします。ジャケット、ズボンともに白のタキシードを争って着たものです。若者の手に掛かると伝統的なルールが打ち破られ、新しい感覚の洋服が誕生します。
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タキシード会議の楽しい紳士礼装礼服フォーマルウェアの着方
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