東京洋服組合は洋服業界の恩人・西郷隆盛へのご恩返しにと、巨大なモー
ニングコート誂え、銅像に着ていただこうという企画を立てました。しかし、管理をする都から、洋服業界にOKを出すと、靴、帽子業界と次々に申し入れがあったら大混乱を引き起こすので・・・と、断わられ、この企画案は陽の目を見ない内に葬りさられました。
代わりの企画として、洋服組合の幹部がモーニングコートを自ら着用し、西郷さんの銅像を清掃することにしました。
11月12日の洋服記念日には、各地の洋服組合で「何時までも元気で洋服作りに従事できますように」と神社参拝したり、街頭でのボタン付けサービス、特別セールなどのイベントが行われています。
この記念日を覚えておき、その日に洋服を購入すれば幾らかは安くなるかも知れません。
今日は何の日。政府の決める祝日以外に各団体や協会が独自に決めた記念日は数え切れないほどたくさんあります。父の日、母の日、敬老の日、子供の日と、人に関するもの、緑の日に、海の日など自然に関するもの、ごろ合わせで3月3日は耳の日、毎月29日=肉の日、形から連想をするものとして10月10日は目の日があります。一が眉毛、0が目を表現しています。10月10日で両目になります。
11月12日が洋服記念日になった理由は日本の歴史に求め事が出来ます。
天文12年(1543年)に、ポルトガルの商船「アパイス号」が種子島に漂着、船員を救出したお礼として、鉄砲をもらったことは歴史の本にも紹介されており、よく知られている事実です。その時、彼らが着ていた洋服もプレゼントされました。日本人が洋服という物を目にしたのは、これが初めてでした。
ずっと時代はくだって嘉永6年(1853年)にはアメリカの東インド艦隊指令官ペリー(1794〜1858)が、軍艦4隻を率いて浦賀に来航、日本は開港を余儀なくされました。
私も編纂委員の一員でしたが、明治100年を記念して出版された『日本洋装史』(洋服業界記者クラブ編)には、乗組員の服装について、信州真田藩の小林重介が書き残した報告書が紹介されています。その概略は次のようなものです。
『軍艦の乗組員は一様につつぽ袖の上衣の胸をボタンで留め、服色は黒を最上として紺、浅黄の順とした。股引はどれを見ても、ひだの多い裾の細い小袴で、片方ずつに緋の竪縞が1本はいっているものがある。この姿で船の中を自由自在に歩いている。』
洋服の機能性の良さは充分に認めながらも、「南蛮服」「えびす服」「紅毛服」とさげすんだニュアンスを含んだ言葉を与えていました。「洋服」という名称が最初に出てきたのは、慶応3年(1867年)の『方庵日記』(柴田大介)ですが、過渡期には筒袖、ゴロフク(服地=羅紗を現すゴロフクレンの略)、マンテルとも呼ばれていました。
では、日本で初めて洋服らしきものが造られたのはいつでしょうか。1864年、長州征伐のために、人足2,000人分の軍服が急遽必要になりました。小伝馬町の幕府御用商人だった上田治兵衛がこの仕事を引きうけたのですが、作り方は判らない、職人はいないという状態での無謀な受注でした。
まず、外国人の古着を買ってきて、これを手本にしました。技術者は足袋職人を中心に針を持った経験のある者をかき集め何とか納品にこぎ着けました。
別の資料によると、日本初の洋服裁断師は沼間守一だと記録されています。比較的小柄な英国人の古着を25両で買い求め、足袋職人を12人ほど集め、羅紗と型紙を与え、軍服らしきものを作ったとあります。
この人が上田治兵衛の下請けだったかは、定かではありません。
人々の関心は洋服に集まってきましたが、幕府にはこのことを快く思わない人も多くいたようです。「百姓、町民は異国の服装をしてはいけない」という禁止令を出したほどです。しかし、軍力を増強するためには、機能的な洋服を採用することは不可欠で、陸軍、海軍の制服にはいち早く洋服を取り入れました。皮肉なことに、これが一般市民の服装を洋風化する原動力になってしまうのです。
明治と年号が変わっても、宮中に参内するものは衣冠を正とし、軍服を着た武士の参内は許されておらず、西洋通の西園寺公望が洋服を着て参内、物議を醸したこともありました。
このような時代背景をもとに、明治4年(1871年)の初夏、宮中西の丸大広間で、服制改革を討議する一大評定が行われました。集まった関係諸大官の服装は、鳥帽子・直垂、羽織・袴、筒袖羽織・タッツケ袴と、和洋が入り交って、新旧交替の過渡期をそのまま現わしていたそうです。
最初に口火を切ったのは三条太政大臣[1837(天保 8)〜1891(明治24)]です。『今日は我が国の風俗上大改革とも見るべき重大な議事で、畏れ多くも聖上のご身辺に関することでもあり充分ご審議いただきたい。服装は大礼の根本でもあり、開化進取の方針に従い、この際、洋服に一定然るべしという提案が出ており、これに対して腹蔵のない意見を承りたい』とあいさつしました。
ハイカラ党の第一人者・後藤象二郎[1838(天保9)〜1897(明治30)は『泰西の服は起居進退がいかにも便利である。この際、因循姑息を退け、世界を闊歩する気分を養う上にも大英断をもって洋服を採用すべきである』と賛成の声を上げました。
当時の政府首脳は薩長土肥出身者が多く、この意見を心よしとしない反対者も多くいました。
『単に便利であるとかないの軽薄な理由で以って、伝来の服装を一朝にして改めようとするのは何事であるか。まして外国との交際上必要というのは腰抜けの申し分で、素材を輸入し、製作を外人に依頼するとなれば、貴重な金銀が流出する。洋服と一定すれば天皇の服装も変更申し上げねばならず畏れ多い。ただ一にも二にも外国の模倣をすればよいという考え方はまことに憤慨に堪えない』と強い反対意見も出ました。
尽きない議論を聞いていた副島種臣外務卿[1828(文政11)〜1905(明治38)]は『洋服は便利であるとかどうかとか、外交上の特質、経済上の損失を説かれるが、微臣の考えを持ってすれば失礼だがこれは末葉の論議である。むかし趙の武霊王が胡の国を制するに胡服を用い大勝したという故事がある。わが国の天業は正義をもって世界に臨むことは、ご一同も異議なきことと存ずる。されば、趙の例に従い、この際世界的な洋服を用いるべきである』
と堂々たる意見を述べました。群議を廃し一頭地を抜いた卓説でした。
その時まで石像のように黙然としていた西郷隆盛参議[1827(文政10)〜1877(明治10)]はすっくと立ち上がりました。全員の視線が西郷さんに集まります。日頃の服装から、和服党というイメージを持つ人が多かったからです。
意外や口から出たのは洋服賛成論でした。
『うむ。いかにも胡服をしてえびすを征すとの副島どんと同じ意見でごわす』
千鈞の重みのある発言で、さしもの反対派も折れ、直ちに洋服採用が決まりました。この瞬間に西郷隆盛は洋服業界の大恩人になりました。
明治4年(1871年)9月4日、「朕、今断然その服制を改め・・・」という勅諭が出され、翌年の明治5年11月12日に「爾今、礼服に洋服を採用す」との太政官令三三〇号が布告され、洋服普及に弾みがつきました。
明治100年に当たる昭和47年(1972年)に全日本洋服協同組合連合会では、太政官布告の出た11月12日を正式に洋服記念日と定めました。
西郷隆盛は征韓論に敗れ明治6年(1873年)に参議を辞職していますが、明治22年(1889年)2月、明治天皇の特旨により賊名が除かれると、感激した旧友の吉井友実らが醵金して上野に銅像が建立されることになりました。上野名所としてよく知られている和服を着て犬を引き連れている、あの銅像です。高村光雲〔1852(嘉永5)〜1934(昭和9)〕の作で、西郷隆盛没後21年経った明治30年(1897年)に完工しています。除幕式に立ち会ったイト未亡人が「宿んしはこげんなおひとではなかっ。」と思わず叫んだというエピソードが残っています。
風貌も余り似ていなかったのと兵児帯姿で公衆の面前に立っているのが、恥ずかしかったのかも知れません。
故郷の鹿児島にも市立博物館の近くに銅像が建てられていますが、軍服姿でりりしく天を仰いでいます。こちらの方が本物の西郷さんに似ているという噂です。
東京洋服組合は洋服業界の恩人・西郷隆盛へのご恩返しにと、巨大なモーニングコート誂え、銅像に着ていただこうという企画を立てました。しかし、管理をする都から、洋服業界にOKを出すと、靴、帽子業界と次々に申し入れがあったら大混乱を引き起こすので・・・と、断わられ、この企画案は陽の目を見ない内に葬りさられました。
代わりの企画として、洋服組合の幹部がモーニングコートを自ら着用し、西郷さんの銅像を清掃することにしました。
11月12日の洋服記念日には、各地の洋服組合で「何時までも元気で洋服作りに従事できますように」と神社参拝したり、街頭でのボタン付けサービス、特別セールなどのイベントが行われています。
この記念日を覚えておき、その日に洋服を購入すれば幾らかは安くなるかも知れません。
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シュウカワグチ洋服歴史館
http://www.city.nerima.tokyo.jp/s-decor/rekishi.html
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