ここは、学生時代に2年先輩の森さんに連れていってもらったお店でした。
卒業してから、勤務が新宿だったので、たまたま新宿3丁目の方(確か寿司屋さん)で宴会があり、
この店の前を通りかかり 「この店」に来たことがあること思い出し、 入ってみたのが、
ここキャリオカに通い出す始まりでした。
当時は、すでに最初に来たときから数えて3代目の篠田さん?篠原さん?という方が
ご夫婦でこのお店を切り盛りしていました。
ママは、とっても背の高い人で
わたしとよくいっしょに行っていた堀部さんとナイショで、
「オリーブ」と呼んでいました。
ポパイの中に出てくるオリーブのように背の高いママという意味です。
このお店は、末広亭のある通りを靖国通りに向かって行って、右側の2階にありました。
階段を登ると左に硝子の入った中の見えるドアがあり、
入り口をはいるとすぐに、幅の広いカウンターが横に置いたJの字にありました。
つまり、左の端がカーブして突き当たり。
そして、カウンターと離れて、左にBOX席が1つだけ(2つかもしれない?)あった。
店内は、薄暗く椅子は、しっかりした背もたれと手を置く木のタイプだったような気がする。
ここは、新宿の宴会の最後に到達する店としてわれわれは、位置づけていました。
ここを終了する時は午前2時ぐらいで、タクシーを拾って帰るという段取りです。
12時から1時ぐらいでは、当時歌舞伎町でタクシーがつかまらないという時代だったのです。
ですから、すこし人がひける午前2時まで飲んでいるという言い訳。
西口から開始して、最後の最後に「泥のように酔っ払って」なだれ込む店として毎日のように乱入してましたね。
ですから、階段を登って外から、入り口の硝子に顔をくっつけて中から、ママさんに 「なにやってんの?ふたりして?」
と気がついてもらうまで、ず〜とそうしているという酔っ払い特有の「愚行」をいつも繰り返し、繰り返しやっておりました。
ここでは、ボトルをキープして水割りで飲んでました。バーではなく、スナックですからねここは。
ただ、マスターがジャズが好きということで、カセットでジャズを流していました。
ここで、エラフィッツジェラルドのライブ・アット・カーネギーホール(目が悪くなって復帰後の奴)を聞いて2枚組みだったですけど買った記憶があります。
でも、いつもべろべろだったんで、ほかは音楽まで記憶がないんですよね。
記憶にあるのは、煙草の煙とほの暗い照明の感じ。それといつも酔っ払っていた。これだけですね。
ここは、札幌に転勤になって去っていくまで、ず〜と(約3年間ぐらい)
べろべろになって通いましたが、札幌に転勤してからだいぶ経って、1枚のハガキが届きました。
裏には、カラーで映画のポスターが印刷されていました。
確か「血と砂」だったような?映画は白黒でポスターはカラーっちゅう時代の奴だったと思います。
そして、住所の下にはあの夜な夜な泥酔してたどり着いた店”キャリオカ”を「閉店するという旨」が書いてありました。
時は1980年代の半ば頃。日本は、バブルに向かってまっしぐらの時期です。
その波は新宿3丁目にも押し寄せ、キャリオカのあった場所一帯が、地上げされて大きなビルになってしまったという訳です。 後年、新宿にきた時その場所を探しました。
そうしましたら、札幌でよく利用していた居酒屋の”春夏秋灯”(しゅんかしゅうとう)新宿店が1Fに入っていました。
懐かしく、これも何かの因縁か?と思い、札幌支店の同窓会をここでやったりもしました。
でも、値段は、新宿VS札幌ですので、だいぶ高かったような気がしました。
ここ”キャリオカの消滅”とともにわたしの青春も思い出だけが残ったという感じですね。
その後、中目黒で新しい店をマスターが開いているというのを思い出し、
ある時寄ってみました。オリーブママがいないので、「ママは?」とお聞きしたところ、
オリーブママとは、×になったとのことでした。 ごめんね。つまんないこと聞いて。
人は、時間とともにいろいろ変化する。もちろんこちらも変化しているでしょう。
この時に、時の流れの移り変わりを感じたのでした。
その中目黒のお店も間もなく閉店となり、またいつか新宿で店を出しますとのハガキをもらいました。 しかし、その後開店の連絡のハガキは、まだもらっていません。
がんばれ〜!!
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