古井由吉をはじめ後藤明生、黒井千次、小川国夫、田久保英夫、坂上弘らが『内向の世代』といわれて久しい。というより、1970年頃に、文芸評論家の小田切秀雄が批判的に名付けた『内向の世代』という文学が、その批判に反して現代文学に息づき浸透した証の代表的存在が古井由吉なのである。
金沢大学ドイツ文学部助手であった古井由吉が文壇に登場し、昭和45年の『杳子』で芥川賞を受賞してから36年の月日が経つ。彼は来年70歳になろうとしている。ここ最近の彼の著作を読んでいると、老境にいたった観が強いが、それは職人にすれば熟練ということであり、私には熟練の頂点に立ったのではないかと思われるのだ。
つまり、彼は現代日本文学の頂点に立っているということである。彼は一環として生と死の狭間、現実と夢の狭間、日常と非日常の狭間を一貫して描き続けてきた。そうした不確かな部分を文字にして著す作業は、これが全ての完成形だという終点がないだけ、困難なものに違いない。
だが、どうだろう、彼の文章には敢えて生と死を強調しなくても濃密な生と死が漂っているではないか。それは一文字、一文字読み進めるごとに醸しだされてくる。
本作は『辻』をテーマにした12の短編の連作である。辻とは、通り過ぎようとする辻、通り過ぎたかもしれない辻、通り過ぎてもまた現れる辻、存在した辻、存在しなかったかもしれない辻であり、その辻で人の出会いや別れがあり、その辻で夢を見、その辻で夢を見失ったりする。道と道が交差する辻だけでなく、人と人が交差する辻、人の夢と夢が交差する辻、人の生と死が交差する辻、そして人の血と血が交差する辻なのである。
彼は言う、「辻と言えば、普通は人生の岐路を連想する。僕も最初はそうだったが、書くうちに意味が膨らんだ。通り過ぎたつもりなのに再び現れた辻、気がついたら通り過ぎていた辻、人生は目に見えない辻で満ちているのではないか」と。
そして、彼がこの作品を書き始めたきっかけが、ギリシャ悲劇の『オイディプス王』の一場面、オイディプスが、父とは知らず、その父を殺してしまう場所が辻であり、終盤全ての事実を知り自分の目をつぶしたオイディプスが『例の辻よ、覚えているか』と叫ぶ。その過去の辻に呼びかける言葉が妙に響いたことだと言う。
辻にまつわる連作は、読み進めるうちに文字連ねる文節あるいは文章と文章の隙間のいわゆる行間が広がり、そこにイメージが滾々とわいてくる。 たとえば、評論家がとりあげることはないと思われる「林の声」の序盤の終わり部分、
出会ってまもない、中年へかかる男女の間で交わされる身上話には違いなかった。しかし身上話にしては、佐岐の口調にまるで粘りがない。話すひとつひとつは記憶に刻みこまれているようだが、傷みなり恨みなりによって前後が繋がることもなく、点々と孤立して、長い年を渡る風に、ただ淡い哀しみを浮かべて、吹かれている。
からはじまる僅か11行の一節、そこには、ただほんの一瞬に過ぎない時間にも限らず、膨大な時空を行き来する夢のように、短い文章の中に子供から今に至るまでの時間と空間が凝縮されているのである。「・・・前後が繋がることもなく、点々と孤立して・・・」とは、まさに夢そのものの記述であり、人の頭脳は、それ自体は断片で映されているのにもかかわらず、連続したイメージに修正するため、極短い夢の中にそれ以上の長い時間を感じるのである。
手にとってしまえるほどの大きさでしかない書物に違いないが、披いて項を繰るごとに無限の時間と空間がひろがって行く。そんな作品が本作である。(2006.5.18)
ここは、誰にも見えないが、辻なのだ、と言った。四方から道が集まってここで消える、出て行くと見えるのは、見せかけに過ぎない、人もここに差しかかっては失せる、それでも繰り返し差しかかる、先へ先へ惹かれて熱心にやって来る、もう済んでいるのも知らずに、と言った。
『半日の花』の結びの一節である。廃墟らしき場所に主人公の森中が佇んでいるところへ、既に亡くなっている森中の友人・青垣の声がしたのである。
・・・暗いところだなあ。
・・・何も見えない。
・・・ひとつ間違えると、どこに運ばれるか、わからないものだ。
・・・そうなのだ。その間違いはしかし常に、一歩一歩に、ひそむのだ。一歩ごとに、すでに間違えているのにひとしい。とうに間違えているのにひとしい。
その声は夢でもなく、幻聴でもなく、記憶の一片であった。35年前、日曜の午後、森中と青垣が過ごした半日の花見での会話の記憶であった。
そうした記憶のかけらが、ふとしたことでよみがえる。不思議な半日の記憶。
青垣は言う。
目が見えなくなる、石のように見えない。何の報いで見えなくなったのか、知っている、とうに知っていた、よくよく知っているので、考える余地もない、考えもしないでいたので、何がはじめにあって何が起こったのか、覚えがない、しかし現実なのだ。
と、森中は青垣が気が振れているのかと思ったが、覚めるから夢なので、覚めても現実とは、通らない話だろうなと結んだ言葉に、青垣の際立った思慮深さを認め、狂ってはいないと感じる。
『半日の花』は連作の中でも不思議な一編である。私は2度繰り返し読んだ。おそらく、さまざまな解釈が、読み手には残される。どことなく、アントニオ・タブッキを思わせるような作品でもある。
彼の、すでに死んでしまっている自分を探す旅のように、この作品では、すでに死んでしまった友人の言葉に思いを馳せる自分だけでなく、すでに死んでいる自分が、生前の友人の言葉に死後においてさえもいまだに執着している姿、あるいは思念といったものが、そこに描かれているような気がするのである。
いや、もう死んでしまっているのも同然の自分を、35年前の僅か半日にしか満たない青垣との言葉のやりとりの記憶の欠片を借りての内省・・・それを誰もが差しかかる「辻」に見立てて描いているといった方が正しいのかもしれない。
そう、それも、もう済んでいるのも知らずに。 (2006.5.30)
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