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このパンフレットは、採録シナリオも
収録されている優れもの。

クリスのもとに現れたハリー。


宇宙ステーション内

【スタッフ】

原作:スタニスラフ・レム 『ソラリスの陽のもとに』
脚本:アンドレイ・タルコフスキー、フリードリヒ・ガレンシュテイン
撮影:ワジーム・ユーソフ  
美術::ミハイル・ロマージン  
音楽:エドゥアルド・アルテミエフ



【キャスト】

クリス=ドナタス・バニオニス 
   
ハリー=ナタリア・ボンダルチュク
  

右上写真・男


上写真・女

スナウト
=ユーリー・ヤルヴェト
アンリ・パートン(宇宙飛行士)
=ウラジスラフ・ドヴォルジェツキー
サルトリウス(天体生物学者)
=アナトーリー・ソロニーツィン
ギバリャン(物理学者)
=ソス・サルキシャン
クリスの父
=ニコライ・グリニコ

1972年 モスフィルム製作 シネマスコープ カラー 165分
1972年 カンヌ国際映画祭審査員特別賞
1977年 映画芸術ベストテン・1位、キネマ旬報5位
配給:ロシア映画社 日本公開1977年
1977年4月、岩波ホールでロードショー公開
1978年7月より銀座・日劇文化ホールで続映


【ストーリー】

  ソラリスの表面はプラズマ状の海につつまれ、この海は、人間の意識・無意識を具現化する。この海を調査するため派遣されていた宇宙ステーションの乗組員である科学者たちは、ソラリスの影響により期日が来ても帰還ことなく、意味不明の報告ばかり送ってきた。そして、ついには、地球基地との交信をも断ってしまう。

 未知の惑星ソラリス。その調査は、プラズマの“海”の理性活動の徴候により行き詰まり、海に接触しようとする試みはすべて失敗に終っていた。数年前、ソラリスから帰還したバートン中尉の報告をビデオでみるクリス(ドナタス・バニオニス)は、当初ソラリスの研究に否定的であったが、父親の説得もあり、翌朝、ソラリス上に浮かぶ宇宙ステーションへ飛んだ。

  三人の学者のいるはずの宇宙ステーションは、静寂と荒廃の兆に満ちていた。クリスの友人の物理学者・ギバリャンは既に原因不明の自殺を遂げており、残された二人、スナウト(ユーリー・ヤルヴェト)とサルトリウス(アナトリー・ソロニーツィン)も何かにおびえ、自閉的である。彼らはクリスに二人以外の人影を見ても気にするなという。クリスはこの謎を解明しようと、死んだギバリャンが残したクリス宛のビデオを発見するが、海に]線を放射したこと以外、謎をとく鍵はなかった。

  サルトリウスの部屋では他の人影を見、ステーション内を歩く少女を見かけるクリス。冷凍室に消えた少女のあとを追うと、そこにはギバリャンの遺体があった。やがて、眠りについたクリスが目覚めた時、数年前に死んだはずのハリー(ナターリヤ・ボンダルチュク)が出現したのである。クリスはその女・・・ハリー・・・の服のあわせ部分がなく、ソラリスからの客だと気づき、彼女をロケットに乗せ打ち上げる。

  自室に戻った彼にスナウトはX線放射以後、海は人間の意識下にある人物(客)をここに送り込んでくることを話す。案の定、ハリーは戻ってきた。ドアを閉めても傷つきながらドアを破ってクリスを追ってくるハリー。その傷の手当てをしようとクリスだったが、傷はみるみるうちに回復していった。

  図書室でのスナウトの誕生祝いの席上、ハリーは、自分達(客)は『人間の良心の現われ』ではないかと発言し、考え込む。そんなハリーのそばにより、ひざまずくクリス。その後ハリーは液体酸素を飲んで自殺を企てるが、やがて蘇生する。クリスは、いつしかハリーを愛の対象と考えるようになっていたのである。

  クリスは自らの意識を]線放射することを提案する。彼は眠りの中、地球の家、母、ハリーらの夢を見る。目覚めるクリス。だが、ハリーは置手紙を残して消えた。そして、クリスは地球へ帰還する。しかし、その帰還もまたソラリスの意思に支配されていたのだった。
 

惑星ソラリス(СОЛЯРИС / SOLARIS)



               
【私的作品評】
  映画の中には、小説をもとに製作されたものが多々あるが、私が知る限り原作を超えたのは、『惑星ソラリス』、『2001年・宇宙の旅』、そして『ブレード・ランナー』だけである。いずれもSF映画であり、SF小説では語ることのできないイメージを映画はあたえてくれるのである。もっとも、この3作は原作に忠実に描いていないし、原作者とは違うそれぞれの監督の世界観や哲学が反映されているからだ。
  『ブレード・ランナー』は、全く別物といっていいほど原作の陰は薄い。また、『惑星ソラリス』、『2001年・宇宙の旅』は、原作を読んでも映画ほど印象に残らなかった。そして、両者の原作者は、映画に批判的である。さもあろう、多くの映画は原作を超えられないのに、自作を超えられてしまったのであるから。

  私が、タルコフスキーと出会ったのは大学4年生のころ・・・思い出した・・・である。当時私はゼミの単位の取得だけでよかったから、週に1回ほどのゼミに出るだけでよかった。だから、映画館通いをしていたのである。池袋の『文芸座』、中野の『名画座』、千石の『三百人劇場』、京橋(?)の『国立フィルムセンター』、新宿の『アート・シアター』、神田の『岩波ホール』などで名画とよばれる名画を片っぱしから観ていた。

  そんな中で、『惑星ソラリス』との出会いは、TVで紹介された『惑星ソラリス』のワン・シーンの印象が私のイメージの中に残っていて、たまたま某女子大生と電車の中で会話をする機会があり、映画の話題になって、私が最近何を観たと聞くと、彼女は『惑星ソラリス』を観たというのだった。彼女は感想として、「難しくて、よくわからないけど面白かった」と答えた。私には、その感想を聞いただけで充分だった。翌日、岩波ホールへ出かけたのである。岩波ホールは、岩波書店のビルの中にあり、完全入替制でゆったりと映画を鑑賞できた。

  私は、作品の冒頭、PCから聴こえている・・・音量を上げないとわからないかもしれない・・・バッハのコーラル・プレリュードが流れ、静かな池の中で水生植物が揺らぐ、そのシーンを観ただけで画面に釘づけになってしまった。そこに、タルコフスキーの死生観とゆっくりと流れる時間感覚を観る思いがした。そして、このシーンは若くして死去し、黒澤明を尊敬していたタルコフスキーへのオマージュとして、のちに黒澤明が『夢』の中で使用したのだった。

  この作品は、一度観ただけでは≪難解≫ゆえに、≪何回≫も観てしまうが、観るものにいかようにも受けとめられる作品となっている。科学では測りきれない、観測不能のソラリスが生成する未知なるものの領域に触れた人間の精神の葛藤と苦悩、その領域とは、「愛」、「道徳的良心」にもつながる神の領域なのである。神という禁忌の領域に触れたからこそ、科学者でありながら彼らは精神を侵された。そして、その救済は、何によってなしうるのか。それは、作品中にも出てくるが、神の救済と人間の良心について苦悩したドストエフスキイの作品の主題でもあった。

  タルコフスキーは映像によって、SF的題材をもとに人間と神とのかかわり、あるいは罪の意識・贖罪といったものを異形の「愛」というかたちで描いて、我々に問題提起したのではなかろうか。終盤、スナウトの誕生祝をするため図書館にみんなが集まったとき、ハリーは「お客さんはあなた方自身であり、あなた方の良心です」、「私は人間になります。私はあなた方に劣ってはいません」と訴える。そしてクリスは、そんなハリーに近づき、彼女の足元に跪く。『罪と罰』のラスコーリニコフが、娼婦であるソーニャの足元に跪き口づけしたように。おそらく両者は、ハリーにソーニャに神を見たにちがいない。

  しかしながら、タルコフスキーはこの作品でそれだけを描いたのではないだろう。当時、ソ連はスターリンから引き継ぐ社会主義政権下にあり、自由な思想は禁じられ、製作したものは全て検閲にあっていた。詩人である彼の父は、スターリン政権下で抑圧され、詩集の出版さえままならなかった。彼は、ソラリスを社会主義政権そのものとして描いたのではないだろうか。政治批判も原作があれば覆い隠すことが可能であるとみたタルコフスキーは、レムの『ソラリスの陽のもとに』を選んだ。ソラリスが生み出す幻想は、社会主義政権が生み出す幻想だったのではないか。決して人間を前に向かせない、過去へ過去へと逆行させる幻想。ここに、『惑星ソラリス』の二重構造があると私は考える。

  タルコフスキーは、社会主義批判をソラリスに封じ込めた。彼には、検閲官がそこまでわからないだろうというかすかな目論見があったにちがいない。だが、その目論見も簡単にはいかなかった。『惑星ソラリス』が、上映という陽の目をみるまで相当の月日がかかったのだから。

  そして、検閲の問題は、次作の『鏡』のモチーフの一つへと連鎖するのである。



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